第51回  選りすぐりの孤独たち



 自由主義経済社会にあって、経済活動は、人々の潜在的欲求によって動向が支配され、経済を支える金融市場もその動向に応じて、流動する。

 つまり、人々の生活の質や求めている欲求が、経済活動と社会経済のしくみをつくるといっていい。

 大量消費社会では、商品アイテムの数や機能の特殊性よりも量産化の中で、どれだけ低廉で、質のいい商品を提供するかが問われるが、消費社会が成熟し、人々が獲得できる商品情報が八百屋の店先の情報などと同じように大衆化すると、個々の商品の差違や特殊性が問われることになる。

 それは、生物における進化と同じで、ある他者が自分が使っている商品とは違う特殊性を持ち、その特殊性をライフスタイルという形で他者に示すと、人は、その特殊性を共用したいと思い始める。

 つまり、自らも大衆を離れ、分衆としての特殊性へと進化したいと願うのだ。道具を使う知恵も、二足歩行による人類の誕生も原理原則はこれと同じだ。それによって、いままで見ることのできなった世界を自分だけのものとすることができる。

 先ほども述べた。経済活動は、人々の潜在的欲求によって動向が支配される。

 ゆえに、消費材を提供する側も、大衆から分衆への進化に対応する特殊性を提供しようとする。

 1984年に、社会学者、劇作家、演劇評論家の山崎正和が『柔らかい個人主義の誕生』を著し、成熟した資本主義社会の到来によって、大衆から分衆への時代が来たことを社会学的な視座から読み取り、それによって生まれる、欧米的な個人主義社会の到来を賞賛した。

 だが、カスタマイズが進めば進むほど、人々が求める進化の方向は、分衆にとどまらず、個衆へ進み、特殊性への進化は限りなく無限の広がりを求められていった。山崎が夢想したロマンチックな個人主義時代は終りを告げた。

 消費者は特殊性への進化によって、互いにオリジナリティ、カスタマイズを競い、それに応えるために、消費材は多様性を余儀なくされ、コストパフォーマンスは驚異的に成立しなくなる。

 にもかかわらず、消費者自身も消費材を提供する側も、だれも持ち得ない情報とだれも持ち得ない生活の質を手に入れることにやっきになり続けるしかない。一度、進化の欲求に火がつけば、それを止めることは不可能なのだ。そこに金、物、人、情報が集中する以上、人はその経済動向に身を委ねるしかなくなる。

 しかし、その結末として登場したのは、圧倒的な孤独だ。そこには、だれとも共有できない、徹底した「孤」でなければ、充足感が得られないという進化の果ての姿がある。

 そこで人々は、家庭、地域社会、職場といった生活の場のつながりから退却し、より広い領域で、「孤」を埋めるための擬似共同体「孤衆」を形成しようとする。

 なぜなら、選りすぐりのカスタマイズによって、生活の場だけでは他者とつながりえなくなってしまったからだ。

 自分が選択した「孤」のカスタマイズに同調する人間を生活の中から探すことが困難になったばかりか、それを限定もなしに、広く公開することは、オリジナリティを失うと同時に、それを認めない他のオリジナリティから強烈な攻撃を受けることになったのだ。

 ブログ、プロフ、ツイッターといった「孤」の媒体が容易にネット攻撃の対象になり、同時に、他者を排除するツールとして機能しているのは、こうした事情による。

 安全のために、より広い領域に「孤」の同調者を集め、そこにSNS的承認システムにより、ゲートを潜った者だけで構成させる「孤衆」がここに誕生する。

 だが、ここで大きな問題が起きる。「孤衆」を成立させるためには、特殊性の進化という枠組みをはみ出すことができない。それ以外の情報は、それぞれの「孤」が求めていないからだ。

 たとえば、iphonについての「孤衆」があったとする。そこで、政治や社会貢献、地球環境を語り合おうとしても、それは「孤衆」を成立させている基盤を危うくするものでこそあれ、そのものを成立させるものではない。

 80年代ロックについての「孤衆」で、クラッシックについて雄弁に語れば、それはスポイルの対象となる。いわゆる、KYというスティグマに括られる。

 ゆえに、そこでのテーマは限定され、同時に、日常とは別の虚構性を創造しなくては、維持できなくなる。日常的なものを持ち込む余地があると、そこからKYの侵入を許すことになるからだ。

 断わっておくが、ここでいうKYとは、その「孤衆」にとってのKYであって、日常においては、全くKYとは呼べないものだ。だが、「孤衆」の基準からすれば、それはどのようなものでも、テーマを逸脱すればKYとされる。

 結果的に、これが日常的なコミュニケーションの意味や価値を無化していく導引ともなっていく。日常におけるコミュニケーションの齟齬もそこから生まれる。

 日常のコミュニケーションから遠く、かつ、日常を排除してしか成立しないコミュニケーションツールは、結果的にそこに虚構を求めるようになる。日常を排除するにはそれが最も簡単な方法だからだ。

 私がよく言う、アキバ的仕組みが必要になってくる。ここに実に摩訶不思議な現象が起きている。

 カスタマイズの果てに「孤」になり、その孤独を埋めるために、ゆるやかに結びつく「衆」を形成しながら、そこで許されるコミュニケーションは現実とは解離した、虚構性において成立する「衆」なのだ。

 すなわち、そこでは、まったく自分を語ることができない。それぞれの「孤」が他の「孤」に甘えて、衆を成立させている以外の情報によって結びつくことができない。

 極めて、先鋭的に消費社会を生き、高い鑑識眼を経済的な背景によって勝ち得ながら、その中で、人々は孤独へ舵を切り続ける。

 ミクロに眼を向け続ける社会が生みだすのは、こうした孤の社会であり、破綻した擬似共同体の乱立だ。それは、決して人々を幸せへとは導かない。



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