第50回 失われた触覚




 人が世界を認識する上で必要とされるのは、視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚。
 
 その中でも触覚はとりわけ重要だといわれている。

 物に触れることによって得られる情報は、視覚情報や聴覚から得る音声情報と大きく異なり、脳の発達の程度に関わりなしに、意味性ではなく、生理的な感触として、情報を与えることができるからだ。

 幼児は、抱かれるという感触の中で、他者を認識する。それが親であるか、そうではないかまで区別できるし、愛情の深さを抱かれている柔らかさや肌の感覚で理解できる。

 自分の周辺にある物への認識も、言葉を通してでなく、触覚によって学び、自分にとって、危険なものか、そうでないかを温度や質感で確かめ、怪我をしたり、火傷をしたりすることで必要な情報を蓄積する。

 幼児が目の前にあるものをすぐに口に入れるのは、食べるためではなく、味覚を通じて、そのものの情報を得ようとしいるのだが、同時に舌で触感を得ようとするからでもあるのだ。

 触る、ふれるということは、それほど人にとって重要な感覚で、だからこそ、親は子を抱き締めたいと思い、子は親に抱き締められたいと願う。

 成長すれば、異性にふれたい、抱き締めたいと願うのも、言葉や視覚情報だけでなく、それを越えたより深い感覚=脳=心で、他者と結びつきたいと願うからだ。その延長にセックスもある。

 だからこそ、触るというは、人の心を伝え、人の心を理解する上で、もっとも大事な働きがあるのだ。

 しかしながら、ここで問題がある。

 触覚を得るためには、対象となるそのもの、その人がそこに実在しなくてはならない。視覚や聴覚は、文字情報や映像情報で得ることはできるが、その情報がそこに存在するという実在を、同時間、同空間に必要としない。

 見聞きし、知るということは、媒体を通してもできるし、それによって、そのものが持つ蓋然性にふれることもできる。しかし、心に通じる回路には直接働きかけることができない。

 それをイメージの中で体感できるのは、すでに経験した触覚の蓄積、その他の感覚データの積み重ねがあってのことだ。

 今回の参議院議員選挙、昨今の政治状況を見ていると、この触覚がどの政治家、政党にも感じられない。

 沖縄の普天間基地問題にせよ、消費税論議にせよ、やるやらないの議論に終始し、それらの直接の当事者である国民の姿、思いが受け止められていない。

 普天間基地で暮らす人々の生活実感や移転が予定されてしまった辺野古周辺の住民の思い、いや、もっといえば、沖縄県民が戦後65年抱いてきた思いに手が届いていないのだ。

 あるいは、非正規雇用でしか働けない人々の生活苦や経営に行き詰っている中小零細やそこで働く人々の辛酸にも届いていない。格差の中で、喘いでいるこの国の現実、国民の姿に届いていない。

 制度をつくり、制度の運用を預かるということは、単に制度設計や制度運用の平等性、妥当性を追求すれば、それでいいのではない。

 制度を生きる人々の実在に直接ふれ、その触覚で得た情報を施策の中に組み込まなくてはいけない。つまり、簡単な言い方をすれば、血の流れる施策にしなくていはいけないのだ。

 政権政党である民主党も、野党として民主党の参院選敗北を糾弾する自公も、民主批判の票を集めた、みんなの党も、すべからく、これがわかっていない。

 これがわかっていないというのは、国民が触覚のある政治を求めているということだ。血の通った政治を求めているということだ。

 民主党がこれまで自公がやってきた政治の付けを払わなくてはいけなくなり、政権政党となって多くの試練と直面したのはわかる。しかし、その試練にあえて果敢な挑戦を続けることを国民の多くは期待していた。これまでにない、血の通う政治をやってくれると期待したのだ。

 マニフェストの実現というのは、そういうことを意味している。

 だが、それがすべからくわかっていない。たとえていえば、国民の肌(心)に触れようとしていないからだ。

 今回の選挙は、自民党が勝利したのでも、みんなの党が躍進したのでもない。だれも勝てなかった選挙。だれも、国民の肌にふれようとしなかった選挙。

 肌にふれてもらえない選挙の中で、だから、言葉の正論性だけを手掛かりに選択しなくてはいけなかった選挙。自民は議席を伸ばし、みんなの党は、民主の票を食ったが、そこで得た票は、だから、触覚で得た票でなく、言葉を介して、得た票に過ぎない。

 言葉ではなく、国民の生理を理解し、それにふれる政治、政党、政治家たらんとする人々が政治を担わなくては、この国の再生も、政治の本願である、国民を幸せへと導く政治もありえない。

 


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