第48回 日常と他者性


 コンスタントに一定のアベレージを打ち出すために、アスリートに求められるのは、ルーティンワークを守ることだ。

 イチロー、松井、松坂といった、プロ野球選手においても、石川遼、宮里藍といったプロゴルファーにおいても、まずは、平均的なアベレージを保つことが第一。それなくして、平均以上の数字を残すことはできない。

 同じ身体トレーニング、同じ練習、同じメニューを毎日、欠かさず繰り返すことで、一定のアベレージを生み出し、それを維持する基軸を確認している。不調があれば、当たり前のメニューをより多くこなす。自分の身体パフォーマンスの基軸を取り戻すためだ。

 人は、そのようにしてしか、自己の身体性、あるいは本来性と出会えない。私が俳優への指導で、形(かた)の重要性を繰り返し説くのも、それを根拠にしている。

 だが、これは、ことアスリートや俳優にだけいえることではない。

 日常生活を生きる、主婦であれ、サラリーマンであれ、官僚であれ、公務員であれ、政治家であれ、つつがなく日々を送り、かつ、そこに何がしかの成果や結果を残す必要がある場合、同じことがいえる。

 というか、人が生きていく中には、生きる上で達成すべき、何がしかの目標がある。それなしに生きられる人間は、だれひとりとしていない。

 ところが、ここに大きな落とし穴がある。

 自分の生活のリズムやバランスをコンスタントに維持するために、人は日常を生きる。たとえば、朝は何時に起床し、朝起きてからの手順として何を何時までに、どのように片付けるかという、身体性を含む作業段取りは、実に個人的日常だ。

 ルーティンとは、ある意味、禅僧が毎朝、朝食前に座禅を組み、自己をみつめ、鍛錬するように、それは、個的な所作とリズムの中にある。

 しかしながら、一定のアベレージを生み出し、ときとして、そのアベレージを越える成果を出すためには、その鍛錬の度合いを他者との関わりの中で、試し、自分がイメージしているパフォーマンスがどこまで通用するかを確かめ、ときには、その差異を自覚しなくてはいけない。

 日常を支えるために必要な個的ルーティンワークは、このとき、個的なそれから他者性のそれへと変る。

 ところが、この自覚がいま失われている。これまでにも再三、このOUTで述べているように、他者性の喪失がそこにある。自分の技量やこだわりを磨くことばかりに、夢中になり、それ自体が自己完結してしまう、アキバ的人種の増大だ。

 他者性の幅が異常に狭まり、ごく限られた趣味を同じくする人間としか、自己のルーティンで鍛錬された技量を確かめようとしない。つまりは、世界に広がりがない。そのため、鍛錬される個的能力にも広がりがなくなる。

 それは結果的に、人々から想像力を奪う。想定される世界が狭まれば、鍛錬する個の度合いも広がりがなくなり、想定される他者性の世界が非常に限られたものになるからだ。

 イチローや石川遼が一流なのは、彼らが天才であるからだけではない。想定する世界が、人並みではないからだ。そこに、他者の追随できない広い世界があり、そこで日常の瑣末なルーティンを問うから、ルーティンそのものが瑣末ではなくなる。

 沖縄の普天間基地問題で、民主党野党連合が国外への移設を謳い、これまでの自民党支配の中で越えられなかった米国の壁を越えようとしたとき、そこには、戦後65年のこの国の政権、政治が見えなかった、アメリカとの他者性の新しい世界が見えていた。

 ところが、アメリカとの新しい他者性を生きるだけの日常のルーティンワークができていなかった。それはそうだ。戦後65年、アメリカの傀儡として政権を維持し、そこで政治家として度量を培ってきた、この国のすべての政治、政党に、新しい他者性を生きるだけのルーティン、いわば、トレーニングがあるわけがない。

 外務省、防衛省の官僚がいくら優秀でも、彼ら自体も新しい他者性を生きるだけのトレーニングがないし、新しい他者性をアメリカに納得させるだけのデイベート訓練も、能力もない。

 普天間基地問題は、いわば、こうした我々日本人の戦後65年にわたる、アメリカ依存型のルーティンワークの現実を突きつけている。

 そのことを、マスコミのだれも、識者のだれも指摘しないし、そこから議論を出発させることができない。なぜなら、彼ら自体がその依存型ルーティンワークの中で、マスコミを成立させ、識者として立っているからだ。

 いまなすべきことは、この事実、この国の戦後65年の日常のあり方を問い直し、いまはまだ、不全不備ではあるが、新しい他者性の世界の広がりへつながる、具体的施策を提案すること以外にない。

 それに対して、これまでと同じおバカな批判をする輩がいれば、その批判をしている、人物たち自身の中にある、アメリカ依存型の日常と、それゆえに越えられない他者性の限界を痛烈に批判し、自己批判を求めればいい。


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