第49回 多様性の中の孤独 



 たとえば、親子関係においても、どのような親子関係が理想的といえる親子関係なのか。その明確な基準が、実はない。夫婦関係においてもそれがない。もっといえば、男女の交際のあり方においても、それはない。

 友情とはどういうものを友情と呼ぶのか。愛とは、どのようなそれを愛と呼ぶのか。人と人が関わり合うその関係が曖昧ないま、他者とどう結ぶのかの明確な基準が家庭、社会、国から失われている。

 それと同じように、政治と国民の関係においても、これが理想的といえる関係の明確な基準もない。ひとつの政党内においても、同志という言葉の根幹を埋めるものが何のか判然としない。

 つまりは、他者とどういう基準で、何を基盤として、関係性を持つのかの根拠が喪失している社会に私たちは生きている。

 それはいうまでもなく、多様性が生んだ結末だ。

 ある人にとって望ましい生活が、すべての人にとって望ましい生活ではないように、ある人にとって望ましい洗濯機がある人にとっては不要なように、ある人には、ipadが必要でも、ある人にとっては、まったく意味を持たないように、多様性が社会に満ち、それが結果的に、他者との関係性をも曖昧にしている。

 だが、同じ機種の冷蔵庫を使いながら、その使い方は、また個々の事情によって左右される。

 早朝に洗濯をする人もいれば、深夜遅く帰宅して洗濯をせざるえない人もいる。ドレッシーな服ばかり着用する人は、服を傷つけない洗濯の機能しか利用しない。ジーンズばかりの人は、その機能は使わない。同じ機種なのに、ある機能をまったく使わない人が存在するのだ。

 iPhon、iPadといった、それ自体が嗜好性の高いIT機器ですら、それぞれの利用者によるカスタマイズの幅があることが強く求められている。

 つまりは、同じIT機器を使いながら、そのカスタマイズによって、人は互いに同じ機器を使っているとは断定できない、齟齬の中にいることになり、かつ、その齟齬と、通信しえあえない孤=オリジナリティを持つことがステータスであったり、トレンドの時代となってしまっている。

 ことほどさように、他者と共有すべき生活や思考を厳密に詰めていけばいくほど、解離するものであることを突きつけられる社会。それが今日、我々が生きる社会の姿だ。

 そうした中で、政治を運用する、政党を維持する、国民に代わり、地域社会、国家を動かすとは、どういうことなのだろう。国民、市民の幸せと国益を考えるとはどういうことなのだろう。

 すべての多様な意志や願い、嗜好性に対応することは不可能ともいっていい社会の中で、それぞれの願いに応える政治とはどういうことを意味し、具体的に示すのだろう。

 という原理原則の問いが、実は、いまの政治から失われている。

 否、正確に言えば、その問いはあった。政権交代のとき、こうした基軸でよいのではないかという読みはあったのだ。

 だが、いざ政権交代によって、政党を担い、これまで公開されていなかった、許されていなかった情報が許される情報に変ったとき、政治家は自分たちの読み通りにはいかない現実に直面する。

 具体的に政策として落とし、具現化しようという中で、大きな現実的課題に直面してしまったのだ。

 多様性の中で、国民一人ひとりの願いに応えよう、もっといえば、一人ひとりの幸せに応えようとするには、画一性が通用しない。したがって、優先順位をつけるしかない。その上で、政策からこぼれてしまう人々の救済として、セーフティネットによる補完や代替を提供していくしかない。

 だが、それでも基礎工事は万遍なく行わなくてはならない。

 限られた社会資本、もっといえば、この20年の経済破綻の中で、やせていく社会資本の中で、それをやるには、大胆で抜本的なそれをやるしかない。

 が、しかし。国民は実は、革命を求めながら革命を怖れる。その怖れを感じ取った政権は、調整という作業の必要性、穏便にことを進める必要性を感じ、自己規制を始める。結果、直面した現実的課題、たとえば、金不足という現実的課題、あるいは、安全保障という現実的課題に、無力となる。

 多様性に応えようとするポピュリズム、選挙の動向に心を奪われるからだ。

 国民、人々の中にある多様性にどう応えるかの問いに明確な基軸が持てないから、選挙結果という基軸にすべてを任せることになる。

 だが、政権交代がなったいま、多様性に応えることが、いま本当に政治において最大の課題としなければならないことなのだろうか。やるべきは、戦後65年の日本の政治の、ひいては経済のパラダイムそのものを変えることなのではなかったのか。

 大衆は、一つ一つの政治的、経済的現象や現実に翻弄される存在なのは、有史以来の必然なのだ。そればかりに翻弄される政治は、政権交代が目指した政治だったのか。

 確かに、大衆は革命を求めながら、革命を怖れている。だが、そこにあるのは、多様性を生きられない社会では取り残されるという不安だ。それでいながら、多様性を生きても、孤独が癒されない現実も実感している。

 いうまでもない。それが、他者との齟齬の根源となっていることを直感しているからだ。他者との関係性の希薄さを埋めるように、だから、多様性というカスタマイズの世界へ撤退しようとする。

 いま、政治が果たすべきは、その多様性が生む孤独から、人々を解放することのはずだ。

 私の言葉でいえば、だれもが共有できる日常を復権することだ。

 そのために、いま私たちの社会に何が必要なのか。私たちの国に何が求められているのか。その問いに純粋ならば、政治家も大衆も自らが果たすべき役割が見えてくる。



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