第47回 死んでしましたい私の死なないための
      五つの身勝手




 社会が成熟し、一定の豊かさが社会全体に行き渡ると、インフラを含め、社会資本が充実してくる。

 その結果、地域社会でダークサイドといわれてきた暗部、低所得者や生活破綻した者たちが集まるエリアや性を売買する場、暴力と背中合わせの風俗解放区が一掃されていく。

 地域社会のダークサイドとは、いわば、人間の本能、情動が解放されてしまう場であるがゆえに、それは、同時に、人間の弱さや愚かさ、邪さ、淫靡さ、狡猾さ、貪欲さといった、聖書でいえば、7つの大罪をことごとく粛清することにもつながる。

 古い家並みや老朽化した建造物、上下水道は駆逐され、新たに整備され、そこに未来的なオフィスビルや商業店舗が出現する。

 人のにおい、人間のにおいがしない、コンクリートの建物、自然に反して造形された公園の造成や緑化が進められる。

 木々を取り込みながら、そこに自然のにおいも佇まいも感じられない幾何学的な自然。それを人々は都会のオアシスと呼ぶようになり、獣の糞や腐葉土になりつつある植物のにおいを汚いもの、都市的な空間には不用のものと切り捨てるようになる。

 だが、人という存在は、そもそも、不浄なものを纏っている。美しく整備された環境の心地よさを求めながら、しかし、不浄なもるものを断ち切られると、人としての存在があやふやになり、実は、不安に襲われる。

 簡単なことだ。生まれた子どもがスキンシップによって、親の愛情を感知するように、動物が生体の臭いにおいて、他者を認識するように、生理や情動を通さないと、人は他者と深く結びつくことができない。

 その欠落感が、人々を孤独にもし、他者性を生きることを困難にする。いわゆる、表層的なコミュニケーション社会のジレンマに陥ることになるのだ。

 先進国でトップの自殺者数を抱えるこの国の人々は、その要因を時代の閉鎖感が生んでいる。企業における過重労働や格差による生活苦が生んでいるとだけしか、分析しない。

 しかし、大きな要因は、いま述べてきた、人間のにおいにまつわる、ダークサイドをすべて消し去ろうとしているところに起きているのだ。消し去ろうとする中で生まれている、他者性の反故によって、生きることの息苦しさや孤独を深めているのだ。

 この息苦しさや孤独は、では、どうやって乗り越えていけばいいのか。

 無論、答えは簡単だが、容易ではない。人のにおいや生体のにおいを汚れたものとして排除せず、それすらも生活に有用なものとして復権すること。だが、それには、あまりに多くの試練と困難があり、一足飛びに実現することは難しい。

 「人が想像することは 人が実現できる」。そのためには、その地域、社会、国で生活する人々の目覚めと実践がいる。それを待つ間にも、息苦しさと孤独の中で、自らいのちを落とそうとする人間は量産されてしまう。

 とりあえず、できることは、清き、正しき、美しきものの世界に従わざるえなくなっている自己を解放していくことしかない。

 いい子である自分ではなく、正しき自分でもなく、清き自分でもなく、邪で、狡猾で、陰険で、淫靡で、悪しき自分を解放することだ。

 他人の迷惑になることをやるななどという、自己を隷従させる他者性ではなく、自己の悪しき側面を露呈し、お行儀よさというフレームから自由になることだ。

 いま、死なないために、身勝手であること。

 かつてなら、許されないし、許してはならないと考えていた人間の弱さを、他者性に縛られるのではなく、解放する以外、当座、いまを生き抜く術はない。術がないから、人の迷惑かえりみず、邪に、狡猾に、陰険に、淫靡に、悪しき自分を生きるしかない。

 生き延びることによって、その罪を償えばいいし、生き延びれば、いままで罪だと思っていた悪しきものが、実は、人間の本来性なのだということに気づきが持てる。


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