第3回 見えざるが花なり



 前回の最後に述べた、日本の演劇の悪しき弊害とはどういうことなのでしょう?

 今回は、その弊害について学んで行きましょう。多くの俳優や演出家、監督と言われる人々が呪縛されている、この弊害を知ることが、私が指摘している演技メソッドを学ぶ上で重要な要素だからです。

 前回の要点は、こういうことでした。俳優が演技するという身体所作には、観客の眼に見える視覚的なもの以上に、視覚化されない、所作の向こうにある内実が必要です。そして、この内実(リアリティ)というのは、「らしく」みせることではなく、また、俳優や演出、監督の個人的で希薄な経験から導き出される「ありがちな何か」ではありません。

 それは、結果的に演技を類型的な何かにしてしまうことであり、らしさの追求をすることで、演技を組み立てた、演技をしているという錯覚に陥ってしまい、ベタで過剰で、薄っぺらな演技を何の検証もなく、反省もなく、観客の前に提示してしまうことになるというものです。

 類型化して見せるということは、台詞や動作のすべてに意味づけをし、その意味性を観客に的確に伝えるために悪戦苦闘することであり、すべての意味性を目に見る形にしなくてならないと錯覚することでもあります。

 つまり、意味が重要であり、意味を伝えることが目的となってしまうのです。意味を類型化してみせるという作業は、演技の向こう、台詞の向こうからリアリティを浮上させるという舞台芸術が本来持つ、生理からは程遠いものなのです。

 私は、第1回のレポートで、構えや形の大切さ、有用性に触れました。若い俳優に、構えや形の話をすると必ず訊かれるのが、構えや形も類型的なものではないのですかという質問です。確かにその通りです。構えや形はいくつかの様式に分類していけば、そのひとつひとつは類型的なものです。しかし、感情表現の追求から生み出される類型的な演技と感情表現ではなく、身体所作の様式美の追求から誕生する構えや形とは全くのその演劇的発想が違います。すなわち、役や演技へのアプローチの仕方が全く異なっているのです。

 それはどういうことでしょう?

 「役と一体化する」「役になり切る」という考え方の基本にあるのは、前回も触れたように、登場人物の感情の変化、思いを分析し、解釈し、この人はこういう行動をするだろう、こういう話し方をするだろうと予測を立てて演技を組み立てるということです。簡単に言えば、登場人物の感情表現をどう巧みに視覚化するかということが重要ということになります。

 しかし、再三、申し上げているように、その感情表現の解釈も、この人はこういう人だろうという解釈も、俳優や演出家、監督の個人的な経験や知識の範囲でしか生まれないものです。そこに、その解釈を検証する第3者の眼はありません。「感情」というのはそれほど、多様性があり、こういう表現であらねばならないという極致にまで到達するのは容易ではない世界なのです。


 一方、構えや形の鍛錬は、能楽・狂言・歌舞伎などに見られるように、3歳児くらいから稽古が始められます。感情表現を軸においた演技の習得法では、到底不可能なことです。つまり、個人的な世界観や感情理解を演技の出発点としていない。第1回のレポートで述べているように、個人の世界観や感情理解を拠り所とぜず、身体所作の構えや形をつくることによって、心をつくる、心を整えようとします。しかし、その結果として、喜怒哀楽の普遍的な感情表現へ到達しようとする。それは、言い換えれば、感情という掴みどころのないものが持つ、過剰なもの、余剰なものを一旦、徹底的に排除し、身体所作に執着することによって、体から心へ通じるゆるぎない演技の回路を確立しようというメソッドなのです。

 これは、近年の脳科学や生物学、心理学、運動生理学など学術的見地から言っても非常に妥当性が高いスタンスだと考えられ始めています。斎藤孝の『声に出して読みたい日本語』などの一連の著作や茂木健一郎の『脳と仮想』といった著書にこれに通じる分析や解説が多く見られます。古くは、市川浩の『身体論』などにも見られる視点なのです。また、ヨガや禅の修練法の根拠にもなっている発想です。すわなち、身体を通じて世界を見る。身体を通じて多様性を越え、普遍性へ到達しようとする考え方なのです。

 演技というのは意味の伝達ではありません。感覚の伝達であり、空気感を感知させることであり、論理性や意味性でなく、人間の生理へ直截に働きかけるものでなくてはなりません。解釈や解説は観客にゆだねるべきものですし、言葉で説明するものでもありません。つまり、皮膚に伝わるものでなくてはならないのです。

 みなさんは映画や舞台、あるいは音楽、美術、文学などの作品にふれたとき、理屈ではなく、「心が動く」という体験をしているはずです。感動して「鳥肌が立った」という経験もあるはずです。芸術作品でなくとも、ある人の話を聞いてそうした体験をしたこともあるかもしれません。そうした体験をしながら、俳優として仕事をするとき、意味性や個人的な分析、解説を加え、らしきものを観客に提示しようとする。つまり、体験的には知っているのに、舞台や演技の生理から遠い作業をしているのです。これこそ、実に理に合わない作業です。

 これは、どこに原因があるのか。実は、そこに、意味性を伝えることこそ演技だとする、間違ったリアリズム演劇の刷り込みがみなさんの中にあるのです。

 悲しいことに、日本に近代演劇が入ってきた当時、リアリズム演劇の本質を理解できている人はごくわずかしかいませんでした。明治維新以後、近代化を進めた日本では、近代演劇に至る西洋演劇の文化の伝承も、そこから誕生したリアリズム演劇の本質と課題を系統立って学び、理解できる人は実に少なかったのです。その結果、非常にバイアスのかかった形でしか、リアリズム演劇は理解されなかったし、伝わりませんでした。その弊害が戦後も続き、60年代の小劇場運動によってやっと日本におけるリアリズム演劇の問題点や課題が検証されるようになりますが、小劇場運動が停滞する過程で、それも一部の識者や演出家の考え方とされ、広く日本の演劇、映像文化全般に影響を与えることはなかったのです。

 もう一つの問題点は、俳優養成をする人々を養成するシステムや制度がこの国にはなく、バイアスのかかったリアリズム演劇を個々の指導者がそれぞれに解釈し、非常に歪んだ形でしかその後の世代に伝わっていないということです。また、俳優の生理をよく理解できていない人が、演出に関わる、映像の監督に関わることができるという非常に特殊な日本の舞台、映像の現状があります。テレビ局や制作会社、映画会社に就職して、演技指導についての理念や理論を持たないまま、現場で演出という仕事を担当してしまうからです。これは舞台においても同じで、劇団の演出部に入ったからといって、バイアスのかかった情報しか持たない指導者から、金科玉条、絶対のものとしてバイアスのかかった演技論を伝えられてしまっては、その演技指導法に疑問を持つことさえ難しいと言っていいでしょう。

すべてがすべてそうだとは言いませんが、そうしたことが起きてしまう背景には、少なくともイギリスやアメリカ、中国、韓国に見られるような国や経済界の支援と保護を受け、制度として俳優やプロデューサー、俳優養成指導者を育成するシステムがないという大きな欠陥と障害があるからです。

リアリズム演劇の父であり、モスクワ芸術座の演出家だったスタニフラフスキーのシステムは、いま読み返しても、今日、日本人が理解しているような演技論でないことは明白です。制度の保障の有無があるにせよ、同じようにスタニフラフスキーの影響を受けた、イギリス、アメリカ、中国、韓国の俳優が日本人の俳優と同じリアリティの追求をしながら、演技の質、重量感、深さにおいて、明らかに日本人のそれを凌いでいる現実が多くのことを語っています。第一回で述べているように、いまの日本では天性の素養を待つ以外、バイアスのかかったリアリズム芝居を越えられる俳優が存在しないと言ってもいいくらいなのです。

本来、スタニフラフスキーが目指し、その影響を受けた日本の演劇人たちも目指したのは、「俳優は天性でなくとも養成できる」というものでした。つまり、能楽や狂言、歌舞伎の世界のように世襲制で、幼児期から舞踊や音曲、身体所作の訓練を受けていなくとも、俳優になる最低限の素養さえあれば、俳優足りうる人材を育成できるというものだったのです。

確かに、日本の近代演劇は大変な苦労をし、果敢にこれに挑戦しました。その成果として、滝沢修や杉村春子という芸能とは無縁の世界から演劇の世界に登場した人材を育成し、素晴らしい俳優を輩出しました。しかし、それには膨大な年月と俳優になれない多くの無名戦士を必要としました。ところが、現、松本幸四郎が市川染五郎と呼ばれていた当時、彼は、アメリカブロードウェーのオファーを受け、『ラ・マンチャの男』で主演を演じ、かつアメリカの観客の絶賛を得たのです。

これはどういうことを意味しているのでしょう?

日本の近代演劇が西欧をモデルとし、俳優は養成できるという実証を示すならば、究極の姿として、自分たちが養成した俳優がロイヤルシェークスピア劇場やブロードウェー、ハリウッドで通用しなければ意味がありません。しかし、それができたのは、日本の近代演劇の世界からではなく、日本近代演劇がある意味、否定しようとしたリアリズム演劇ではない、歌舞伎の世界から誕生したのです。

 しかも、その俳優養成メソッドはリアリズム演劇ではなく、構えや形を重視する古典芸能のメソッドからの誕生でした。私はこの事実をもっと真摯に日本の舞台や映像芸術に携わる人々は意識すべきだと思っているのです。

 いわば、日本の近代が捨ててきた伝統的日本文化の中に、海外に通用する演技メソッドがあったのです。私が驚嘆し、感動するのは、シュエークスピアが登場する以前、東洋の島国の一人の能役者がその演技メソッドを論理立て、系統立てて整理し、後世の人々に遺したという事実です。

 しかし、日本文化に見られるある共通した姿を検証すると、世阿弥が指摘する舞台芸術のあり方、俳優のあり方には世界に通じ、かつ、時代に左右されないあるゆるぎなさがあることがわかります。

 私たち演出や監督をする者も、演技する俳優も、スタッフも、一つの作品に求めるのは、確かな内実、リアリティです。しつこいようですが、このリアリティとは、あるものをあるがままに見せたり、あるがままに描くことではありません。舞台や映像芸術は所詮、作り物の世界、虚構の世界です。しかし、だからとって、嘘と見えないように見せる、つくるということが私たちの目標ではないのです。虚構だからこそ、実在感が伝わる。嘘の世界だからこそ、現実以上に存在感や実感が得られる。もっと言えば、見る人々の論理ではなく、生理に直に訴求できるという世界の構築を目指しているのです。

 近松門左衛門の言う「虚実皮膜」です。

 そして、その実現のために必要なのは、観客の想像力をいかに刺激し、観客の脳裏にどう舞台や画面にはない実像を連想させるか、実感させるかの工夫なのです。そのために、世阿弥が提示したのが、「余白」です。余白というのは私の言葉ですが、所作をとらない役者の内実、視覚化されてはいないが、俳優の中に屹然と存在する演技。余剰な装置や舞台機構を用いないで成立する舞台空間のあり様のことです。イギリスの演出家ピーター・ブルックが提唱した「なにもない空間」と同じ意味合いです。

 しかし、それはなにもないのではありません。一見、なにもない、そこに観客の脳の中に出現する豊饒な時間と空間、イマジネーションの世界が広がるのです。

 日本文化の中には、この余白を通じて人々の感覚(クオリア)に訴える仕掛けが多数あります。たとえば、茶室。現実にはありえない潜り戸を敢えて設え、4畳ほどの狭い空間の中に四季と時の移ろいを凝縮することで、返って、鮮烈にそれを実感させます。あるいは、庭の手水のそばに置く、猪脅し。恒常的に水の音が聞こえながら、そこに静寂感を演出し、猪脅しの竹の音が静寂の深さを痛烈に実感させます。日本庭園の造形も作り物の自然でありながら、自然の広大さ、宇宙的広がりを実感させます。床の間という空間も家の中に、自然界や宇宙的な広がりを持ち込もうとした虚構です。

 たった一輪の切花でありながら、一輪の切花であるがゆえに、その花が存在できる広大な自然の力を圧倒的に人に伝えることができる。つまり、すべてを見せるのではなく、見せないことが返って饒舌にある実体の存在感を伝えることができるという日本文化の精神性です。


 世阿弥の「秘すれば花」という余剰な演技を戒める言葉も、「見えざるが花なり」という抑制された演技にすべてを凝縮し、舞台上にない空間を観客に見せよという演技法もこうした日本文化が古来持っていた、余白の文化に由来しています。

 たとえば、日本舞踊で月夜の場があるとすれば、そこに月はないのに、舞踊という身体所作を通じて舞台空間に月を出現させることができます。雪が降れば、雪を観客の脳裏に浮上させることができるのです。能楽の舞台は書割の松だけです。しかし、その空間に老婆が住む庵を見せることも、かつて幼い日に過ごした家屋を登場させることもできます。自分の首を洗う川を出現させることもできるのです。わずかな足の運び、謡の音律で時間と空間を一気に飛翔し、場面転換がないのに場面を転換することができるのです。

 これらすべてが形による身体所作を通じて行われているという事実をみなさんはどう捉えるでしょうか。

 構えや形という身体所作をただなぞっているだけではもちろん、こうした幻視を操ることはできません。身体所作を通じて、演技の回路を作り出す鍛錬を繰り返し行い、演技する者にとってどうであるかではなく、観客の視点から見て、どのように形が機能しているかを検証することで、始めて、身体所作から感情表現に辿りつけるのです。離見の見、見所の見です。

 俳優というのは身体をその生業としていると以前、お話しました。つまり、みなさんは体ひとつ、素手で観客と対峙しなければならない。俳優の持つその原理を生きることが大切なのです。身体以外に自己表現の手段を持たない。そこに、いま述べたような幻視を操る、騙りの地平が出現します。みなさんは身体によって人を謀り、騙る怪しき存在でなくてはなりません。一輪の切花でなくてはなりません。花全体ではない、その異形の姿の背後に、膨大な時間や空間、その役柄が抱えている存在のすべてを直感させられる、一輪の切花でなくてはならないのです。

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