第42回 モデルなき時代のモデル探し




 武蔵野美術大教授の柏木博が、戦前、戦間期、戦後のデザイン史を通じて、ビジュアルイメージの中に組み込まれる戦略的、構造的プロパガンダ要素を『肖像の中の権力』(講談社学術文庫)という象徴的な表題で論破したのは、もう20年以上も前のことになる。

 ビジュアルイメージの中に、人心操作の危険と未来イメージの創造と言う両面があることを鋭く指摘し、その有用性と危険性を、哲学や社会学でなく、グラフィックデザインという新しい視点で解析した、始めの一歩だった。

 以来、デザインという言葉は、単にグラフィックデザインに象徴される商業デザインの領域を越え、あらゆる芸術領域にデザイン論が用いられるようになった。

 現在では、ライフデザイン、ソーシャルデザイン、あるいは、コンセプトワークという言葉で、商品企画から社会生活、社会構造、社会システムの全領域において、デザイニングという言葉は一般化している。マーケッティングの根幹に位置づけられているといっていい。

 しかし、かつて柏木が指摘したような、デザインの危険性、人心を扇動し、情緒的、感情的に大衆心理を支配してしまう、その危うさが、デザイン設計の応用と解釈の広がりの中で、強く意識されてきたかどうかは、疑問がある。

 柏木も指摘している通り、コマーシャリズム、企業の営利活動は、恣意性や意図性に満ちており、その中に、デザインの危うさを意識することは、実に難しく、不可能といってもいい領域だからだ。

 若年層が人気ロックバンドや歌手、タレント、モデルのファッションやヘアメークを模倣し、自身をデコレーションするという情緒性は、アパレルや化粧品メーカー、ファッション雑誌のコマーシャリズムがつくり出すものだし、エコカーやエコハウスといったライフスタイルを提案するのも、同じように、自動車会社や建築会社のコマーシャリズムが支えている。

 ロハスという言葉の登場によって、アジアンテイストの商品やネイティブアメリカンの装飾品などがブームになるというのもそれらを背景としている。

 つまりは、生活者個々の選択として、ひとつのデザインが登場するのではなく、情報の刷り込みとして、意識形成が事前になされ、その刷り込みされた意識が、あたかも、自身の選択のように錯覚させられる世界で、私たちはモデルを得ている。

 言い換えれば、モデルなき社会において、人々があたかもそれが自分のモデルが如く、刷り込まれた情報に踊らされるということだ。

 多くの人間は、気づいていないが、その象徴のような現象のひとつがいま、社会問題の温床となろうとしている。

 婚活である。

 いまや婚活は、連ドラにもなり、それに関する膨大な書籍が登場し、婚活の仲介業がビジネスとして成立するという奇妙な現象が起きている。

 学者や識者までもが、婚活の有用性、必要性、必然性を声高に語るという時代だ。

 そのおかげで、出会い系、お見合いクラブなど、一時期は、怪しい男女の出会いの場として、サブカル文化にあったものが、「婚活」という美名の仮面を被った瞬間、堂々と市場に姿を現している。

 男女の出会いをWEBサイトのネットワーク、SNSに頼らざるえない人間たちが増大し、異性との出会いを収入、家柄、職業など属性によって判断する。

 婚活は、物理的基準が、人間評価の基準になっているから、即物的なものにならざるえない。

 しかしながら、人間は弱い。即物的な価値で割り切ろうとしても、実は、現実生活の中で、異性との絆に満ちた信頼関係や愛を成就させたことがない男女ばかりから、即物的であるべき関係性しか成立しない中で、異質ともいえる情緒性のモデルを描こうとする。

 そこに、虚言と幻想がはびこることになる。それが、詐欺や歪な男女間の問題、レイプ事件やセクハラ、ストーカー、DVの温床ともなるのだ。

 不思議なことに、これまでの男女の出会いのあり方に限界性や問題を感じ、より自由度が高く、かつ、広範な領域からの不特定多数の出会いを求められるインターネット空間に羽ばたきながら、実は、実に不自由に満ちた選択の幅を持ち、かつ、異性への評価にフレキシビリティがない。

 それが互いの潜在的な願望や幻想を返って肥大化させ、自縛を生み、かつ、他人への束縛、他縛を生んでいる。ある意味、超ストレスの男女関係をあえて生きようとしてるとさえ言えるのである。

 その背景には、ストレスの高い男女関係から入れば、以後の関係が楽に違いないという思い込みがある。日常の男女の出会いが実に軽薄であり、誠実さに欠け、流動的なものだということを男女は知っている。

 それゆえ、あえて、敷居の高い選択基準を設けることで、関係性の安心を担保しようとしているのだ。

 だが、日常のコミュニケーション能力や他者との関係性の構築ができる人間力がなければ、それら担保が有効に機能することはない。

 マスコミ、サブカルが煽るライフスタイルの変化は、そのように、実は、危うく、頼りないものに過ぎない。まして、冒頭で述べているように、そこには、新しいライフスタイルという美名のフレームを設定することで、おいしい汁、営利を得ている輩が必ず存在する。

 つまり、これとった明確なモデルがないゆえに、なんらかのスタイルにモデルを見出そうとしながら、実は、そこにもモデルを持ち得ないという、虚しく、イタイ徒労を繰り返しているだけに過ぎないのだ。

 問題なのは、かつ目を背けてはならないのは、自分がいま生活している、日常の時間、そこでの人間関係をどう生き、その中で、有意な関係、それは異性においても、構築できているのか、いないのか。いないとすれば、自己の日常のあり方に問題があるのではないかと疑うことだ。

 自身の問題点をみつめえず、かつ、問題点を発見できず、日々の生活のあり方に気づきが持てないとすれば、どのように新しいデザインであっても、そのデザインは、自己のモデルにも、将来のビジョンにもなり得ない。

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