第41回 市民の力による社会変革


 社会制度を変更するとき、そこに求められるのは、まず制度への検証である。そのために最も必要なのは、情報の開示であることは言うまでもない。

 制度の劣化や問題点を探る上で、現行の制度がどのように機能し、運用され、どのような問題を抱えているかを知るためには、制度そのものが内包しているシステム全体の情報が把握されなくてはならないからだ。

 民主党政権が誕生してから、官僚システムという社会制度の変更を目的に、各省庁で、これまで自公独裁にしか、開示されていなかった情報や自公独裁にも開示されていなかった情報が、少しずつだが、開示されようとしている。

 しかし、民主党が補正予算の組み替えについて、再三、精査するというコメントを出しているのは、その開示が十分でないことを承知しているからだ。

 国のあり方、政治のあり方、経済の動向。そのいずれにおいても、変革し、構造を変えていくためには、まず、システムの変更を行わなくてはならない。精神論や感情論では、社会システムの変更はできないし、心情や情感では、社会は変らないからだ。
 
 社会を形成している原理そのものをさわらない限り、社会変革はできない。

 しかし、ここには、一つの大きな問題が横たわっている。

 それは、言うまでもなく、システムを動かしているのは人間だということだ。

 とりわけ、官僚機構や官僚機構的な体質を持つ企業や公的団体は、前例主義、マニュアル主義に縛られている。そのため、システムそのものを疑うという訓練ができていない。

 システム上の問題や齟齬がみつかっても、既存のマニュアル、前例に継ぎ接ぎをするように、整合性を持たせて終わるだけで、根本のシステムそのものを改革するという習慣づけがされていないのだ。

 また、一人の個人がそこに気づき、疑問を持ち、システムそのものを変革しようとしても、システム全体が大き過ぎるために、個人の力では、それを変更することができない。

 さらに、分業化が進んだ結果、システム全体を把握し、その運用の末梢まで理解できている人間は、実は、ほとんどいない。何か齟齬や問題が起きて初めて、どこのどういう箇所に問題があるということがわかるだけで、その対処においても、部分的な処置で終わるしかない。

 システムの全容を把握できてないがゆえに、下手にシステムの根幹をさわることで、他の部分に不具合が生まれることを怖れるからだ。

 そこに、事なかれ主義や上の顔色を伺うという自己保身を正当にし、恒常的なものにしてしまう、大きな要因がある。

 細かなデータや前例事例といったミクロなことにこだわり、全体の流れや論理的辻褄が合っているかどうかに眼がいかない。まさに、官僚的に書面を読み下し、官僚的に読み下せないだけで、妥当、妥当でないかを判断する、いわゆる石頭な人間を量産することになる。

 つまりは、木を見て、森を見ずという人間が、量産され、システムを維持、管理する能力がある、つまりは、上からの指示の通りにしか動けないという安心を担保に、そうした人間が決裁権を預けられる。

 こうした決裁権は、とりわけ、財務省・金融庁・銀行といった構図に、顕著に見られるのだ。この硬直化は、マスコミの報道以上のものだ。

 金融担当大臣の亀井が、意図して声高に、銀行を始めとする金融関係者に警鐘を鳴らし、政治の力によって、その硬直化を打破しようとしているねらいも、そこにある。

 中小零細企業者は、これまで、上下関係の中で、金融と付き合わされてきた。しかし、いまは、自分たちの不当、不遇な処遇に対して、システム変更を求めて、声を上げるときがきている。

 小泉、竹中がやったあんぽんたん金融政策によって、辛酸を受け続けてきた、中小零細企業は、不遇不当な対応や処遇を受け、泣き寝入りし、その結果、仕方なく、金利の高い、ノンバンクなどに活路を見出さざる得なかった。

 そうした負の行動から脱却し、不当、不遇な審査や対応があれば、金融庁に直接、訴え、国、金融業界の官僚体質の改善を目指すすべきである。

 政権のパラダイムが変りながら、まだ、旧態然とした金融政策が続くと高をくくり、金融の果たすべき、役割、公的責任をないがしろにし、中小零細企業の経営者を自殺や破綻に向かわせている、その罪を、社会全体が自覚する運動を始めなくてはならない。

 そうした取り組みを市民一人ひとりが、自覚的に行うことでしか、本来の社会システム変更はできないのだ。

 社会システムといっても、それを人間が運用するものである以上、行動を起こさない限り、システムそのものの変更はない。

 それなくして、日本経済の立て直しもない。



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