第40回 常識を越えられない人々


 民主党が大勝した。事前予測があったにもかかわらず、マスコミ各社は、民主党で大丈夫かとけん制し、批判を煽る報道を続けている。

 国民の多数が支持し、国民の審判として、民主党を国民が選択しながら、マスコミは、あたかも国民の選択が誤りだったかのような報道に終始しているのだ。

 これは、国民の民意を愚弄する行為であり、国民への侮蔑以外の何ものでもない。ところが、マスコミには、みのもんたに代表される、「正義の報道マン」よろししく、それについての自覚がまったくない。

 なぜ、このようなことがマスコミの常識のように平然と語られるのか。それは、未知なるものへの怖れだ。

 形式や形態は、変ってきたにせよ。この国は、戦後64年間、自民党を軸とした政権を自明とし、そこでの暗黙のルールや常識に慣れ親しんできた。そのため、これまでのルールや常識から自由になることは、そう容易ではない。

 いくら自公政権に対する不満が政権交代を実現させたにせよ、人々は、やはり、制度変更が怖いのだ。とりわけ、テレビという常識の枠の中だけでしが情報を発信できない大衆媒体は、常識に縛られるがゆえに、時代変化に対応できない。

 本来は、トレンドを拾い、時代を先駆けるテレビが、この数年、明らかに大衆に遅れをとっている。加速しているテレビ離れがそれを立証している。

 未知なるものが出現すると、常に日本人は、一旦、パニック状態になる。あらぬ妄想を掻き立て、もし、こうなったら大変なことになる、こうなるのではないかという推論を巡らし、それが一人歩きし、形のない不安に翻弄されるのだ。その結果、まさに、自分の首を自分で絞めるように、自分自身が投げかけた不安に翻弄されることになる。

 では、その怖れと不安は、どこから生まれているのか。

 人は、経験という学習によって、記憶を形成し、それを手掛かりとして世界を認識、かつ理解しようする。それは、乳幼児期から始まり、思春期・青春期において形成され、中年、壮年、高年期と年齢を追って、確立していく。

 その根本にあるのは、教育である。

 これは、赤である。これは、海である。これは山であるといった世界の認識は、教育によって植え付けられる、経験という記憶の蓄積であり、記憶の蓄積が導き出す、認識の共有性である。それが、常識となる。

 したがって、その常識が守られているうちは、それが赤であることも、それが海であることも、これが山であることも、人は、疑わない。

 しかし、これは赤とも言えるし、赤紫とも言えるという多様な選択に出会うと、途端に不安に襲われる。選択の幅が広がれば、広がるほど、これまでの教育と学習によって、割り切れ、断定ができ、安心だったものが、一瞬にして未知の不安に変る。記憶の海馬に認識されていた、赤の絶対条件が揺らぎ始めるからだ。

 それが、不安と怖れの基本にあるものだ。

 とりわけ、戦後64年、営々と続いた自民党支配の政治は、こうした常識を社会システムばかりでなく、人々の心、人心に深く刷り込んでいる。

 そのため、戦後の復興、高度成長、消費社会、そして、低成長時代の成熟社会へと社会が変貌していく過程で、それまでのシステムは、劣化や民意との解離がいわれても、長く慣れ親しんできた、常識であり、それゆえに、安心であるという理由だけで、ここまで延命できたのだ。

 しかし、ここに来て、これまでの社会システムや常識とされていた政治手法がまったく通用じない時代が出現した。これは赤であるという断定ができない時代が到来したのだ。それに、これまでの自民党的精神は、あまりに旧式だった。

 それに最も敏感だったのは大衆である。

 つまり、旧来の政治手法や社会システムでは立ち行かないのだという曖昧とした自覚が、民意なきこの国に、民意という新しいステージを、曖昧なまま誕生させたのだ。

 大衆さえ深く自覚しないまま、大衆が民意のステージという新しい幕を開けてしまった。

 しかし、それは、明らかに、政治家主導の政治、社会システムの構築への決別なのだ。

 残念というか、当然というか、これに、政権を奪った民主党も、張本人の大衆自身も、まだ気づいていない。

 民主党に変れば、何か新しいことをしてくれるかもしれないと、依然、政治家頼みの発想が大衆の根底にある。民主党幹部の発言の中にも、国民から選ばれた政治家が、官僚をコントロールし、政権を運営するという言葉を連呼している。つまりは、政治家が政治を主導するのだという常識に縛られている。

 それをすれば、大衆は迎合してくれるという誤謬を生きているのだ。

 大衆すらも意識していない、政治家主導の政治との決別、それは、いわば、民意が政治家をコントロールし、民意の意志の反映として、政治家が大衆に代わって政治を行うという主従関係を意味している。

 先駆けを言えば、労働組合や支持団体ではなく、浮動票として今回の政権交代を実現させた民意の結集が次になくてはならない。

 次の政権が行うべきは、官僚機構の改革や官僚との駆け引きではなく、政権を磐石に支ええる、浮動票を地域や分野における、市民ネットワークとして構築することだ。そのために、必要な支援を行い、研究活動や運動体としての費用を行政的手当ての中で補完していくことである。

 これは民主党に限らず、自民党が次に取り組むべき活動でもある。

 民意の形成なくして、本来の2大政党制は出現しない。出現したとしても、確かな民意がなければ、またしても人気政治となり、凋落するのは眼に見えている。

 いまこそ、市民社会の形成のために、政治が動くときなのだ。そして、主体的、自主的に市民の力によって民意が形成され、それが、民主、自民の縛られた常識を越えさせる原動力としなくてはならない。

 それがあれば、官僚機構の改革も、政治主導の法案立案も、たいした困難を要するものではない。

 国民を巻き込むこと、そのために、国民の民意の形成に政治が自ら参加し、助成していくこと、それこそが、永田町、霞ヶ関の常識を変える大きな言動力となる。

 民主政治において、民意こそが、絶対である。


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