第39回 揺れる人々



 人が自由であるためには、自分を支えるための基軸やルールを必要とする。

 支える基軸やルールのないところで与えられた自由は、寄る辺ない不安を人々に与え、人々に自由であることの怖れを生む。それが、前回述べた、依存的傾向の要因となってしまうのだ。
 
 いわば、基軸のない自由は、茫漠とした海に浮き輪も命綱もない状態で、放り出された状態に等しい。縋るもののない中で与えれらた自由は、不安や焦燥の要因とはなりさえせよ、自由意志と自己決定を謳歌できるものとは程遠くなる。

 自由の根本にあるのは、自己表明の自由、意志の自由、自己決定の自由だ。だが、自分たちが得た自由の基軸やルールを持たなければ、いずれの自由もその根底が大きく揺らぐ。

 その揺らいだところで、「自分の意見を述べよ」「自分の気持ちをしっかり持て」「自分が熱中できるものを見つけ、それを職業とせよ」と問われても、それに答えることができないばかりか、問われていること、そのものが、圧力となり、不安要因となり、自己否定へとつながっていく。

 「自分は何もできない、つまらない人間なのかもしれない…」、という不安を浴びせ続けることになるからだ。

 なぜなら、自由をどう生きればいいのかの前提条件がないからである。もっといえば、自由とは何かを理解できていないからである。

 バブル期によって、コマーシャリズムの社会が出現した。消費文化が確立し、それに伴い、商品が充足した。職業や雇用の多様性が自明の社会となり、贅沢さえ望まなければ、多くの人が、明日、食うものに困らないという社会が出現した。

 まさに、何でも手に入り、何でも選択できる自由社会である。

 90年代に入り、低成長時代が到来すると、時代を生き抜くためのアイテムのように、益々、自由が叫ばれるようになる。

 自由競争によって市場社会の活性化を図ろうという時代が到来したからだ。結果、人々は、自己の意志を持ち、表明し、人生の選択を自らが意図して行わなければならないという、暗黙の圧力社会に生きなければならなくなった。

 これは、ありがちなきれい事の正義を前提とした人権教育においても同様の圧力となっている。学校教育において、保護者会が強い圧力を持つようになった要因もこれだ。今日の社会の正義の蔓延を生んでいる。

 それが小泉政権の登場によって、アメリカからのお仕着せで導入した新自由主義へと結実する。

 しかし、これが、自由の押し付け、自由の強要、それによる自己否定社会へ日本を導いていったのだ。

 物が溢れながら、明日飢餓によって、生命の危機にさらされるということがなくなりながら、人々は自由を謳歌できず、安息できない。自由、自由という呼び声の中で、自由の前提条件も知らず、自由であるための体裁に奔走しなくてはならなくなった。

 かつ、自由とパックにされてしまった、競争原理によって、自由社会を行きぬくためには、熾烈な競争に勝ち抜かなくてはならないという、他者への不信に溢れた社会をつくってしまったのだ。

 この国は、自らの意志と選択によって、自由を選択したことがない。人々から自由を奪う強権力に対して、武器を手にとり、自らの血を流して、市民の自由を勝ち取ったことがない。

 それは、この国の人々にとって、常に、自由とは何か、自由であるために自分はどう生きなければならないかの問いを必要とせず、自明としてこなかったことの証である。

 欧米、中東のように、宗教的理念が常に社会制度、法制度に関与し続ける国家では、普遍的な価値を社会の基軸とし、茫漠たる自由主義の海の中心点とすることができる。

 また、自由を国家との契約によって、成立させている市民社会を持つがゆえに、税負担や兵役の問題を含め、市民が国家への貢献を当然とし、かつ、国家は市民が安全、安心に生活するための保障が、安全保障の一つともいえるほど、重要な意味を持っている。

 そこには、自由の前提となる基軸とルールが明確に存在する。神と人であり、国家と市民であり、地域と住民の契約関係だ。

 先月末から今月にかけ、各政党のマニュフェストが発表されたが、人々が、そのマニュフェストの文言について、以前、共通の不安を抱いているのは、この自由に対する基軸とルールが見えていなからだ。

 確かに、政策を具体的に語るマニュフェストにおいて、一見、政策と結びつかないように思える、自由のあり方を述べることは、適当ではない。

 しかし、現実生活の改善と修復のために、提言するその背後にある、基軸がどこにあるのかかが見えない限り、一瞬の躊躇が生まれる。

 ありがちなマスコミの識者が述べるような、10年後、20年後のビジョンを見せよといっているのではない。今の時代、ビジョンは、いかようにも変容する。一枚岩ではない、家庭、地域、社会、国家にあって、いつ何時、どのような予定変更を強いられるかは、実は、だれにも見えていない。

 見えていないところで、絵に描いた餅のような絵空事を語ったところで、それは不信の要因とはなっても、信頼の要因とはなりえないのだ。それを国民は直感的にわかっている。わかっていないのは、評論している人間くらいなものだ。

 予測不能の時代だからこそ、人々が求めているのは、どのような突発的な出来事、経済的にも政治的にも軍事的にも、そうしたことが起きても、帰る根拠となりえる、確かな基軸が欲しいのだ。

 つまりは、自由であるがゆえに、人々に蔓延している不安を取り除いて欲しいのだ。

 にもかかわらず、自民党のマニュフェストは、四年前の小泉郵政選挙の総括もせず、まったく関連性のない項目をいくつも挙げ、四年前のマニュフェストがなかったごとき、発表をしている。政策の一貫性もなく、政策転換についての説明責任も果たしていない。

 四年前には発表していなかった道州制に加え、集団的自衛権の拡大解釈など、文脈になかった政策まで盛り込む始末だ。

 一方、民主党は、外交・安全保障について触れることをさけ、インド洋沖で活動する海上自衛隊の活動延長に反対しながら、政権交代後の対応に含みを持たせている。

 こうした唐突さやブレは、どこから出ているのか。その根本に、基軸がないからである。集団的自衛権の拡大解釈を言うならば、対戦争は是認し、欧米諸国と同じように軍事行動を当然とする国家への変更の軸を明確にしなければならない。

 現行の自衛隊の海外派兵について、含みを持たせるならば、対アメリカ外交をどう位置づけるかの基軸を示さなければならない。

 仮にそれが、選挙後、その後の世界情勢の中で変更を余儀なくされるものであるにせよ。どの基軸において、それを実行するかの線引きを示さなければならない。

 それをしていないところに、漠然とした霧のような不安が拭い去れないのだ。

 簡単に言えば、こうである。人々のいのちと尊厳を守るために、あらゆる困難があっても、まず、愛(協調と融和、共生)を持って政治を行うのか。

 それとも、人々のいのちや尊厳は守るにせよ、応分の負担と犠牲は当然として、正義(善悪の判断)を基準として政治を行うのか。そのいずれを基軸として、国を社会を地域を家庭を、そして個人を導くのかである。

 言うまでもなく、前者は、普遍的宗教理念や人類愛を前提とし、後者は、ブッシュ的新自由主義を前提としている。



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