第36回 怖れる人々    


いま、この国には、怖れが蔓延している。

家庭、学校、職場、カップル、結婚、地域社会、政治、経済、そのあらゆる生活層の断面を切り取っても、そこに「怖れ」というウィルスが侵食し、それぞれの階層を、示し合わせたように崩壊させようとしている。

私は、この「OUT」で度々、語っているが、社会の枠組みをつくっている、社会規範や倫理、それらを背景とした法秩序が、その信頼を失ったとき、粘土の弱いコンクリートのように、社会は崩壊へ向かう。

しかし、それは、誰かが意図してそうしたのではなく、砂上の楼閣が、次第に波で、砂がさらわれるように、ゆっくりと、何とない感覚の中で進んでいくのだ。

だれかが意図しているという、作為も明確でなく、決して、誰もが、社会を崩壊へと導こうとは思わないところで進む、社会の崩壊。

そして、崩壊へ導いてはならないともがけば、もがくほど、堅固だと思われていた規範や倫理、法秩序が崩れていく。

実は、政治家も、官僚も、財界人も、教育者も、そして、大衆も、それを感じとっている。感じながら、崩壊への歯止めが一体どこにあるのか、何をすればいいのかがわかからない。

それが、規範や倫理、法秩序が失われつつある不安に、さらなる不安を与え、それが、益々、社会不安を増大させていく…。

今回は、それを以前、述べたのとは違った切り口で考えてみよう。

実は、私たちの社会は、養老猛が指摘しているように、すでに人間の脳では追いつかないほどの情報量とスピードを持ってしまっている。社会を形成し、起動させ、運用しているのは、人間であるにもかかわらず、それに人間がついていけない状況が生まれつつあるのだ。

うつ病の増大に象徴されるように、社会は、人間の脳の領域にありながら、すでに、その領域を超えようとしているということだ。

しかしながら、政治家も、官僚も、財界人も、教育者も、そして、大衆も、社会は自分たちの力でコントロールでき、問題があれば、自分たちの力で、問題点を探り当て、暴走を止めるための有効な対策や抑止策が打ち出せ、それを実行すれば、ブレやキシミが出た社会を修正できると、思い込んでいる。

国会で審議されている追加経済対策の法案も、その前の補正予算で、景気浮揚のためとバラ撒かれた定額給付金、土日祭日高速道路1000円のダンピングも、カジュアルフーズの低価格競争も、すべて、その思い込みで進んでいるのだ。

しかし、たとえば、経済において、それらが景気の回復に結びつく、確たる根拠を、実は、誰も持っていない。「盲人が象をなでる」の逸話のように、「これはでない」「これでもない」「が、これでもない」と、ただ、「そうではない」もののを積み重ねることで、「これだ!」という確信にたどり着こうとしているだけなのだ。

つまり、それが象であるという、明確な答えを得られない、気の遠くなるような、「でないもの」を積み重ねることで、明確な答えを得ているような錯覚を起こしているだけなのだ。

社会は、いま、人間の予測を超えている。人々は、その事実に気づいていない。現実には、人々の予測、想定を超える、理解不能な犯罪や予測困難な事件が頻発し、経済動向さえ、意外な展開を見せているにかかわらず、それを特質たことにしようと躍起になっている。

「100年に一度の不況」とは、逆を語れば、「これは、100年に一度しか来ない」という前提に立った言葉なのだ。

つまり、特質したことであって、きちんと対処すれば、景気は浮揚する。それが大前提になっており、自分たちの力で、経済はコントロールできるという、すでに崩壊した、いわば神話を信じようとしているようなものである。

「きちんと」とは、一体、何を基準として、何を成功事例として、そう語っているのか。この20年の経済変化に、「きちんと」対処したことで、本当の意味で好転した経済施策などあったのか。一部の富める者をつくっただけで、富める者の層を厚くしただけで、我々の生活は、本当の意味で豊かになったのか。答えは、否である。

メキシコ発、新型インフルエンザの流行に象徴されるように、東南アジアから中国、そして日本という経路をたどると予測されている鳥インフルエンザへの対応について、警告や警鐘はされながら、突然、予測もしていなかった地域、国から新型のインフルエンザが発見されることが起きているのだ。

ある日、南米のどこかでハリケーンが誕生し、予測もしない規模の大きさになり、アメリカ南西部の主要都市を破壊する。その警告がなされているときに、東南アジアに地震による大津波が襲うということが起きる。

自然の驚異が予測困難であるように、私たちの社会も、いま、同じように予測困難な状況にあるのだ。

これまでの方程式も経験則も、ルールも通用しないなら、その旧来の手法や常識を覆した、発想を持つしかない。言い換えれば、これまでの幸せのルールブックを捨てることだ。そのためには、人類がこれまで営々と積み上げてきた、豊かさを目指すルールブックへの執着を捨てなくてはならない。

しかし、単なる経済的、物質的、拝金主義的、幸せへの執着しか知らない人間には、それができない。

それは、個人のレベルにおいても同じだ。他者との意志の疎通に、ストレスを感じるようになってしまった、いま、これまでのルールブック通りに人とつながろうとしても、孤立が避けられない。

しかし、人は、これまでのルールブックに執着する。だから、他者と通信し合うための、マニュアルブックがバカ売れする。しかし、それを実践できるはずもなく、かつ、実践したところで、現実は、遥かに他者の関係を困難にしている。マニュアルブック通りにやれない自分、やってもうまくやれない自分。それが、他者とつながり合えない孤独を、より一層深くするだけなのだ。

社会学者の宮台真司氏と頻繁に仕事をしていた頃、よく多元的な所属について話を聴かされた。私も賛同した。しかし、いまは、多元的な所属も大事だと思うが、あの時代に比べたら、その多元的な所属の集団自体も、その内実が崩壊しつつある。

仕事やしがらみを離れた所属、つまり、人間的な結びつきだけで成立する他者と関係を結んだ集団が、その根底に、不信と不安を背景としていれば、多元的な所属ですら、「盲人、像をなでる」のたとえになってしまう。それが、いまという時代だ。

では、我々は、どうすればいいのか?

答えは、もう述べている。いま自分が関係を結び、かつ、結ぼうと願っている他者を求めている、自分自身の心のあり様を、検証することだ。自分はどうして、どのように、そして、何を目的として、その他者とつながろうとしているのか。そこにある、心情は、これまでの幸せのルールブックやマニュアルに洗脳され、ただ、そうあるべきという思いだけで、そうしているのではないかと、自分を疑うことなのだ。

他者ではなく、自分を疑うということだ。社会的なレベルでいえば、こうすれば、よくなるのではないかという考えている我々は、もう終わってしまったルールブックにしがみつこうとしているのではないかと疑うことだ。

疑いを持ちながら、疑うことをしない。それが、不安と不信の元凶になっている。疑いを持ちながら、あえて、それを打ち消そうとするから、「怖れ」が生まれる。疑うと底知れぬ世界、つまり、これまで信じようとしたルールブックがなくなることがこわい。だから、執着する。

その気持ちを、人々が捨て、いまある現実に疑いを持たない限り、人々の心に膨らむ、疑問は消えることはなく、不安も跡を断たず、未来への一歩も見えては来ないのだ。


 リストへ                   ページトップへ▲