第2回 秘すれば花、秘さざれば花ならず




 一つの舞台作品や映像作品を前にして、俳優は、脚本を理解するための脚本分析が大事だとか、役柄を演じるために、その役の心象風景を理解しなくてはいけないとか言われます。そこで、一行一句の意味とその言葉の裏側にある登場人物の心情を理解しようと自分の知識や体験を総動員します。この登場人物はこういう人なのだから、「こういう言い方をするだろう」「こういう行動を取るだろう」という予測の下に、本読みや立ち稽古を行い、演出する側との意見調整をします。基本的には演出する側がイニシアティブを取り、この作業を行うというのが通例でしょう。多くの俳優も演出家も、こうした作業は自明のこととし、そうした作業に時間を掛けなければよい作品はできないと信じています。

 そして、そこではこういう言葉が常套句のように使われます。いわく、「役になり切る」「役を演じ切る」、果ては「役と一体化」する。つまり、いかにも役柄のその人らしく、その人を演じることがよい演技であるかのように言われます。そのために俳優は、自分の個人史の体験の中から少しでも役柄の感情や所作に近いものを少ない体験の抽斗の中から見つけ出そうと悪戦苦闘することになります。

 しかし、これは冷静に考えれば実に不思議な作業と言わざるを得ません。

 人間の個人史や体験の範囲で、果たして役は演じ得るものなのでしょうか? 猟奇的な殺人犯や精神的な症状を持つ人など日常生活では、大半の人が出会わないか、出会っても通過しているような人間を「こういう言い方をするだろう」「こういう行動を取るだろう」と果たして誰が予測できるのでしょう。他者の個人史や体験を越えて、そこにその人が存在するがゆえに、多くの人々が“信じられない行動”と驚き、そうした表現が正しいかは別として、“猟奇的である”とか、“非道な”とかいう判断をするのです。

 まして、現代のように、一般常識などというものが希薄になり、人と人との関係が曖昧で、とらえにくいものになればなるほど、他者が予想し得ない、キャラクターを持つ人間が多数存在します。つまり、「こういう言い方をするだろう」「こういう行動を取るだろう」という想像の範囲を越えなければ、描けない人間がいるのです。にもかかわらず、俳優や演出家の個人史からそうした人間を浮かび上がらせようとする行為は明らかに矛盾があります。

 人が何十年か生きた中で体験できること、体得できる経験などたかが知れているのです。想像力を逞しくしたところで、一人の人間が想定できる人物像など極めて矮小なものでしかないのです。にもかかわらず、この矛盾を引き起こしている無知に気づかず、「らしさ」を追求することはどういう結果をもたらすでしょう。

 答えはみなさんが普段見ている、テレビドラマや映画、舞台の中にあります。

「らしさ」の追求の向こうにあるのは、単に自分たちの想像の範囲で浮び上がる「類型的な何者か」でしかありません。俳優や監督・演出家が手前勝手に想像する無知さの押し付けでしかありません。端的に言えば、「ベタ」な芝居です。

 
人は日常を生きるとき、自分の言葉や行動のひとつひとつに深い意味づけと理論を持っているでしょうか。自分の個性を示すために意図して、言葉や行動を発しているでしょうか。答えはみなさん自身の普段の行動を検証すればすぐに答えがでることです。自分は自分であるという自明性のもとに人は言葉や行動を発信していて、それはほとんど無意識にそうしていると言ってよいのです。

 演技する上で重要なのは、こうした視点を持っているか否かにあります。

 暴力的な人間はこういう言い方をし、こういう所作をする。大人しい人間はこういう言い方をし、こういう所作をする。在り来たりに、一行一句、重箱の隅を突くようにそんな個人的な解析を積み重ねたところで、それは、類型的な何かをなぞっているだけで、役柄を生きていることにはなりません。なぜなら、先程お話したように、人は自分を自分であるという自明性のもとに生きているからです。自分という総体で生きているのであり、類型的、ありがちなパターンの積み重ねとして自分を生きてはいないからです。

 では、類型的な何かをなぞることを演技と勘違いして、それを続けるとどういうことになるでしょう。答えは簡単です。自分たちが想像した「らしきもの」をより「らしく」見せるために、類型的な何かを幾つも重ね、益々誇張するようになるのです。自分たちが解釈した「らしきもの」を観客に正確に伝えるために、誇張した演技をより誇張してしまう。結果、観客から見たら、ベタでうっとしい演技となります。

 
なぜ、ベタでうっとうしいのか。それは、「過剰」だからです。

 たとえば、みなさんが「人を殺す」という演技をしなければならないとき、殺人という演技をどのように組立て、どう所作として伝えるでしょう。おそらく、みなさんは、殺人を犯す人間の役柄、すなわち、性格分析をし、その動機と経緯を解釈し、そして、殺害する人間とされる人間の関係性を紐解くといったことから取り組むに違いありません。つまり、理屈を組み立て、自分が理解できる筋道を付けてから、その筋道に沿って、人を殺すという演技を示そうとします。そして、自分が理解できる筋道を観客に伝えるために、いま自分はなぜこの人間を殺そうとしているのかがわかるように台詞を語り、所作を見せます。

 それは、俳優である自分、あるいは演出家の解釈を観客にわからせるために、わずかな体験と想像力で作り上げた「らしき演技」をすべて観客の前に示すことです。そうしなければ、らしさが伝わらなからであり、役と一体化できないと信じているからです。

 そこで考えて見ましょう。みなさんは殺人事件の捜査官でもなれば、殺人者の心理を分析する精神科医でもありません。まさに、殺人を犯すその人であり、自分の行為としてそれを行う人です。そこに、次にこう動いて、こう台詞を語り、こう殺そうという段取り芝居があるでしょうか。
 
 当然ながら、事件を起こす本人に、仮に設定としての計画はあっても所作や言葉の段取りがあるわけはないのです。段取りがないところで人が動く。そこにリアリティがあり、演じる役柄の個性、特質が浮上するのです。それなのに、殺人を犯すことへの怯え、殺人に至るまでの憎悪や怨念を誇張した演技にして必死で伝えようとします。次は、こうして、こう動こうと計算までしながら…。

 俳優に求められるのは、理論や理屈ではありません。「役柄のその人がそこに生きている」という、リアリティを観客に感じさせることであり、意図や意味を理解させるこではありません。解釈を伝えることでもありません。観客にとって、台詞や所作は手がかりに過ぎず、台詞や所作の向こうにあるものを観客は見ようとしているのです。その内実のないところで、いかに「らしく」演技したところで、その誇張された過剰な演技に観客が納得するはずはないのです。

 大切なのは、舞台上にある演技ではなく、演技を通して透けて見える何か(リアリティ)を表現できているか否かなのです。すなわち、リアリティとは、設定された状況を「らしく」描くことでは獲得できない何ものかなのです。

 演技に具体性と意味づけを求めるというのは、一見、当然のことのように考えられながら、実はいままで述べてきたように、リアリティとは程遠い、俳優や監督、演出家の個人的思い込みであり、なんらリアリティの発露とはならない自己満足でしかないのです。

 人間を描く、役柄を生きるために必要なのは、目に見える何かではありません。言葉にならない何かであり、台詞になっていない心の声であり、所作とは矛盾する心の動きです。目に見える所作にではなく、所作をつくっている心のあり様の方がはるかに重要なのです。観客の目に映るように、わかるように、理解できるようにと積み上げられる演技のつまらなさは、過剰な演技だからばかりでなく、その裏側に何の工夫もない薄っぺらな演技だからです。

 「秘すれば花、秘さざらば花ならず」という世阿弥の言葉は、何事かを伝えなければ、表現しなければと、手前勝手に知恵絞り、求められている演技からどんどん遠のくことへの戒めの言葉です。そして、俳優があれこれ工夫した目に見える演技すべてを観客の前にさらけ出すことの愚かさと品格のなさを痛烈に批判しています。

 何もしないこと、何の台詞も発せず、そこにその人がいるだけで伝わる何かが演技にはあります。私のワークショップでは、台詞も所作もなく、ただバス停に佇むというエチュードを頻繁に行います。その中で、様々な状況設定を与え、バス停に佇むという演技の内実を創造できる力を付けさせます。しかし、多くの俳優が当初、何かをしようとします。何かの所作を取ろうとします。不安だからです。そこに佇んでいるという内実を持っていないからです。そういう俳優に設定を与えると決まって、過剰な演技、余剰な動作を取ります。

 日本の演劇が歩んで来た悪しき弊害がそこにあるのです。

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