第37回 執着する人々


 いま、この社会には、自己に執着する人々が増大している。

 それは言い換えれば、依存症といってもいい。買物依存、恋愛依存、セックス依存、携帯依存、ネット依存、仕事依存、ギャンブル依存、薬物依存、リストカット依存、クラブ依存、アルコール依存、異性への依存、子どもへの依存、親への依存…。

 多くの依存症の根源にあるのは、実は、自己への執着。他者や帰属する集団からの承認が得られないまま、幼少期、思春期、青年期を生きてしまった結果、自分という人間を認めてくれる対象がどこにもないため、自己という閉じた世界の中で、自分で自分に承認を与えるべく、様々な依存によって、満たされない自己を満たすための代償行為を行うようになるのだ。

 つまり、承認されない自己への不安、怯え、自信のなさが、自己という狭い世界へのこだわりを生み出し、それが依存症となって現われる。

 パウダールームの鏡の前に2時間以上も座り続け、メイクやヘアデザインにやっきになる若い女性たちの姿は、そうした心の現われの一つ。アクセサリーやファッション、インテリア、趣味へのこだわりも、その一つといっていい。
 
 オタク文化にはまり、フィギアやコスプレ、アニメ・コミックに異常なこだわりを持つというのも、それだ。

 また、自分の子どもがテストでいい成績をとれないのは、教師の教え方が悪いからだとクレームをつける、いわゆるモンスター・ペアレンツといわれる親たちの姿にも、そうした心の現われが読める。

 自己という閉じた世界に執着すると、狭窄視野に陥り、自分だけの正義やルールが、他者からの相対的な評価や検証がないにもかかわらず、絶対なものとして、すべてに優先するようになる。

 いわく、自分の意見や考え方には、間違いはなく、自分の言っていること、自分の行動は、すべからく正義であり、それを批難する権利はだれにもない。自分が自分の正義にもとづいて、権利を主張するのは当然で、他人のために自分の権利が侵害されたり、文句をいわれたり、批難されるのは許さない。個人の自由なのだから、それが当然。

 俗に自己中といわれる人々が増大するのだ。

 しかし、その裏側には、他者への不信、帰属する集団、たとえば、家族や職場、異性への不信がある。自分という人間を善悪の基準でも、他者との比較でもなく、あるがままに受け入れられたことがないため、自己という殻から飛び出したとき、傷つくのがこわい。あるいは、飛び出そうとしてみたが、手ひどく傷ついたという経験がそうさせる。

 自分を磨くといった言い訳で、自己に執着することの歪みを正当化しなければ、不信の海を泳げない。実は、自己など磨いているのではなく、単に自分の視線に怯えているのだということがわからない。

 つまり、自分が自分でありたい、あろうとしながら、どうしても鏡の前に写る自分は自分でなく、道行くだれでもいい、だれかにしかならないという不安を感じて、鏡の前で徒労ともいえる時間を費やしている自分に気づけないのだ。

 そこで、自己に執着する自分を他者に批難されると、火が付いたように、激情したり、一層、頑なに自分の正義ばかりを捲くし立てることになる。それが、されに、周囲の人々から覚めた視線を浴びることになり、益々、心を閉ざし、自己に執着する。

 これはパウダールームに座り続ける若い女性たちばかりでなく、押しなべて、人々に蔓延している感情だ。

 それが、ネット上での他者への誹謗中傷にもなれば、立場の弱い店員に無理難題を要求するクライマーにもなる。

 このところの政治の動きと、そこでの首相の発言や周辺の政治家たち、官僚の発言を聞いていても、狭窄視野に陥り、他人の言葉、意見に謙虚に耳を傾けるという姿勢がどこにも見られない。

 パウダールームの鏡の前で、いくら美しさを演出しようとしても、内実が不安や不信で覆われていれば、これが私だという実存には出会えないし、磨かれた内面から出てくる、美しさを知ることもない。打算と計算ばかりのその場限りの繕いで、美しさを演出しようとするから、そうなるのだ。これは、まさに、いまの政治の姿。

 いまや、政治家から官僚、そして、市井の人々にまで、自己中精神が広がっている。不安や不信を解く鍵は、自己への執着から自由になり、他者や帰属する集団のために、働き、汗するところからしか生まれない。

 その基盤が失われているところに、いまの社会の多くの問題が依拠している。その現実を変える力は、自己へ執着し、他者から撤退している鏡に写る自分の姿の虚飾性、欺瞞性に気づきを持つことからしか始まらない。その自分を変える努力を日々の生活の中で、積み上げていくしかないのだ。


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