第35回 エトス 日常の復権 U

     日本的共同体への回帰 その二つの道



 日本的共同体意識は、これまで批判の的とされて来た。
 
 その理由は大きく分けて四つ。
 
 同族主義、家族主義の温さ、それゆえの曖昧さと責任の所在の不明性。

 護送船団方式の横並び主義、それゆえの利権の専有化と腐敗の温床となる不透明性。

 突出した者や考え方が嫌われ、みんなが同じでなければならい、均一性にこだわる画一主義

 同族や同類と見なされなければ、排除や差別を生む、排他の閉鎖主義。

 それは同時に、同和や在日、身障者、知的障害者、ハンセン病、HIV患者、同性愛者などへの差別とも繋がっている。

 だから、日本的共同体意識は、農耕を中心した村社会が生んだ、悪しき日本的共同体の姿、島国根性として、戦後「民主主義」によって揶揄、批判され続けて来た。

 批判の大きな要因となっているのは、それが、戦前までの日本帝国主義、軍国主義国家を支えて来た、天皇制を根幹としていたからだ。

 戦前の家父長制の中で、父親は絶対的な存在で、父親の持つ倫理観や道徳観が、家庭生活での絶対的な基準だった。

 その上には祖父母がおり、曽祖父母がおり、それらが亡くなっても、祖父母に匹敵する叔父叔母が存在した。さらに、それを取りまとめる地域の長がいた。

 それらが地域の倫理や道徳をも決定していた。

 それらは、すべて父権であり、父権によって日本人の日常は支配され、日常の父権を支える、より大きな父権として、神聖なる天皇があったのだ。

 無論これは、薩長土肥の四藩による明治維新によって創作された、民度なき国民を西欧化へ導くための方便。

 しかし、そのことによって、「近代」への制度変更への抵抗と混乱をなし崩しに鎮圧、もしくは、押さえ込むことができた。

 日本的共同体を残しつつ、市民の誰一人参加せず、西欧化という異質文化を自国文化まで捨てて、受け入れる。それによって、世界に類を見ない、稀有の近代化を果たしてしまったのだ。

 だから、そこには、武士道精神に通じる高い倫理観や道徳観が、日本人の日常に残った。同時にそれが、お国のためという狭隘な軍国主義の道とも同伴した。すべては共同体を残存させた結果だ。

 余談だが、戦前の日本人の教養が低かったと誤解されているが、共同体社会における寺子屋教育は徹底しており、子どもの識字率は実に高く、当時の世界水準に達していた。

 だが、戦後民主主義は、こうした日本的日常を根幹で支えて来た、父権の象徴、天皇制を捨てた。

 が、しかし、一度たりとも、市民革命によって自由と自治を獲得したことのない、日本人は、父権の象徴であった天皇制を捨てることで、社会的日常を支える基軸をも喪失したのだ。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教国家のように、宗教精神が、国の現実に関与できる歴史のない、無宗教国家日本では、天皇教によって、法制度や社会制度、さらには、公共財意識、社会貢献の基軸を見出していた。

 それが市民革命なき国家のモラルを維持し、共同体という枠組みの中で、倫理や道徳を形成していたのである。

 それを失ったとき、日本的日常を支える基軸は、敗戦後すぐアメリカのそれに変わった。

 敗戦によって、狭窄視野にいた日本人は、自分たちが崇めていた父権より、より大きな父権が世界にはあることを知ったのだ。

 日本人が選択したのは、自ら血を流さず得た、明治以降の日本近代が幻であったことを認めながら、明治維新において果たせなかった、日本独自の近代化の歩みを模索せず、欧化主義に代わって、米国化を目指し、米国をわが父権としたのだ。

 しかし、そこには、マッカーサーを長とする戦後GHQの巧妙な戦略があった。その背後にはアメリカ政府の思惑がある。

 米国を日本の父権とするために、天皇の枠組みを残し、それを支えてきた共同体の枠組みも残し、最大の父権であった天皇が、自分より偉大な父権として、米国を承認するというプロパガンダである。

 アメリカを父権とさせるために、すなわち日本を傀儡国家とするために、物資援助、教育支援、生活支援など、あらゆる支援を惜しまなかった。それほどに、戦時中、日本は、アメリカの最大の脅威だった。

 ゆえに、アメリカ的日常を日本的共同体に注入することで、一気に日本の米国化を推進し、成功させたのである。

 しかし、これはアメリカのご都合主義によるものに他ならない。

 日本国憲法という世界に類を見ない平和憲法を、自らの選択で承認した日本国民に、朝鮮戦争が始まると日本共同体が持つ国粋的国防主義を再び喚起させ、警察予備隊、現在の自衛隊を編成させたのだ。

 以来、アメリカは、日米安保条約によって、日本を軍事的支配下に置き、かつ、極東アジアにおける戦略基地として、自衛隊を利用できる布陣が確立した。軍事面における傀儡化が完結した。

 真の意味での日本の独立は、その瞬間なくなった。それを最も理解していたのは、当時の首相、吉田茂だけである。

 吉田が日米安保条約締結の署名を自分の名だけにし、他の政府関係者にさせなかったのは、その責任を後人に残さないためである。

 そして、吉田は、日米安保条約の破棄を後人に委ねた。それほどに敗戦国日本の存亡は、当時危うかったのだ。アメリカの思惑を逆手にとって、とりあえず、いまの国難を救う。それが吉田の戦略だった。

 しかし、そのアメリカさえも予想できなかったのが、軍事費をアメリカに肩代わりさせることで起きた、脅威の経済成長だった。つまり、吉田の思惑に逆にはめられてしまった。

 アメリカ的日常を注入させるために、残存させ、かつアメリカの極東アジアにおける軍事戦略として利用しようとした、日本的共同体のポテンシャルは、経済において、かつて太平洋戦争において、アメリカを震撼とさせたのに匹敵する、強力な世界経済のライバルへと、ばく進させる原動力となってしまったのだ。

 軍事、外交において、傀儡化できていた国が経済的な脅威として、アメリカの新しい敵となった。

 日本経済が中曽根政権がとった、金融市場活性化のための土地本位性というバブル政策によって、成熟期を迎える頃、アメリカは不況のどん底であえていでいた。

 日本的共同体を残存させた結果が、諸刃の剣として、アメリカに突き刺さったとき、アメリカの反撃が始まる。

 新自由主義の導入と徹底によって不況を乗り越えたアメリカは、バブル以降空白の10年を埋めるために登場した小泉政権に、金融におけるアメリカ資本参入の自由化を要求し、小泉政権は日本の制度改革、構造改革のために、それを受け入れる。

 小泉が首相となるための最大の敵は、最初に述べた日本的共同体の体質だった。郵政民営化を叫び続けたのも、郵便局を軸とした政治的結束を生む日本的共同体が敵だったからである。

 大派閥の所属でもなく、単独では到底首相となりえないことを知る小泉は、改革という名の詭弁を使って、大派閥を支える日本的共同体の解体を目指す。
 
 アメリカが、これまで見落としていた、経済における日本の傀儡化を実現するのに、敵としていたのも、日本的共同体の底力だった。

 両者の思惑は、そこで一致する。

 小泉政権がやったのは、構造改革という名の、古き良き日本的共同体の精神の破壊だったのだ。

 つまり、そこには、冒頭に述べた悪しき側面ばかりでなく、同時に、人々が生きる日常の基軸とする高い倫理観と道徳観を育てた。

 談合することによって、落ちこぼれを生まない、弱者を生まないための救済のシステムと富の再配分をするという調整弁が機能していた。

 規制は排除という悪しき側面を持ちつつ、規制の枠にいる業種、そこで生きる人々の生活保障をしていたのだ。

 あるいは、篤志家といわえる人々、社会的な立場や地位にある者が、そうではない他者に対して、慈愛と慈悲の精神を実践し、自己犠牲によって他者を救うという扶助の精神があった。

 それは、日本的共同体を構成する人々に相互扶助、助け合いの精神の大切さと団結心を育てたのだ。

 もったいないの精神によって、資源を有効活用し、貧しさの中でも、相応の貯蓄をし、その資金がインフラ整備や地域開発の資金として運用された。

 そうした日本的共同体が持つ、世界にない独自の互助システムをも、
小泉政権は完膚なきまでに破壊した。

 それはアメリカの思惑通りに、日本の経済を疲弊させ、アメリカ依存をより強くし、金融、流通、製造などあらゆる経済活動がアメリカ政府の動向を伺いながらしか展開できないようになる。

 経済を傀儡化されるということは、政治をも傀儡化されるということだ。

 小泉政権がやったことは、政治的経済的に、日本をアメリカの傀儡化にするために、アメリカの手助けをしただけのことである。

 小泉政権が国を売った結果、これまでからくも残されていた日本的共同体の精神まで崩壊し、利己的社会が登場した。

 共同体を新自由主義の自由競争市場で一掃することで、日本から相互扶助と倫理が消失した。

 いま、それに気づき、日本人の中で、日本的共同体への回帰が起きようとしている。
 
 リーマンショック後の米国発世界不況の中で、日本的共同体が持っていた力を復元しようという動きが出始めている。

 しかし、そこには二つの道があるのだ。

 国粋的国防精神を残した日本的共同体、冒頭に述べた悪しき共同体の側面を残しつつ、復元を計ろうとするのか。

 それとも、日本的共同体の精神を復元しつつ、あらたな自由主義的共同体の構築を目指すのかの選択である。

 戦前を懐かしむ懐古主義的復元は、森や安倍、麻生が目指している
軽薄なものでしかないし、アメリカネオコン的発想では、アメリカからの新の独立は勝ち取りえない。

 いま求められているのは、戦前回帰ではなく、アメリカ的日常を注入された日本的共同体から、その毒を抜き、本来あるべき日本的日常を再構築することだ。

 世界に対して、独立国家として、主体的外交と経済運営ができる国家として、日本人が団結し、相互扶助の精神によって、失われた倫理観、道徳観を取り戻し、アメリカとは異なる独自の歩みを進めることである。
 
 日米安保なくして日本の安全はないというバカな考えではなく、また、自衛隊の軍隊化、集団的自衛権の拡大解釈でもなく、日本に独立の確固たる意志があれば、アメリカとの関係においても新たな選択の道がある。

 しかし、その選択を呼び込むためにも、アメリカのネオコン、それに迎合している日本のネオコンたちの真の独立を勝ち取る根性もない政権を打破し、市民のネットワークの中から、日本的日常を復権し、日本的日常を確保することで、我々国民にとって必要な政治を選択すべきなのだ。

 
リストへ                      ページトップへ