決断しない男、決断できない女



Shearing  助監督Tくんの場合

 現場が跳ねたのは、午前零時を回っていた。
 撮影部の機材車に便乗して、小田急線の喜多見駅までは送ってもらったが、時刻はもう二時を過ぎている。疲れのせいだけでなく、そこからアパートへ向かう足が、やたら重い。
 四日前、ロケに出る前の夜、また、サチと大喧嘩をしてしまった。口論はいつものことだけど、週に一度は、言葉だけでは済まない大喧嘩になる。原因は、いつもボクのだらしなさだ。だが、暴力は彼女の方が一方的。手近にある雑誌や本、枕や服、ハンガーがボク目掛けて飛んでくる。そして、彼女の爪で体中をひっかかれ、留めにゲンコのストレートを喰らい、鼻血を出し、投げ付けられる言葉はいつも決まっている。
「だから、B型の男って、大っ嫌い!」
 彼女に言わせれば、B型の男はすべてお調子者で、だらしないらしい。
血液型や星座で人の性格や性分を決め付けるのは彼女の得意技だ。そして、こう続く。
「血液型は変えられるのよ! わかってる!?」
 血液型が変えられるなんて、そんな無茶な…。しかし、彼女に言わせれば、普段から努力して、生活態度を改めていけば、性格が変わり、血液型が変わるのに等しいそうな。なるほど。と、一瞬、妙に納得。ボクは言葉が出なくなる。いや、だけど、いくら女だからって、男が血を流すまで暴力振るっていいってもんでもないだろ? だが、彼女の言い分は違う。
「私だって、こんなことしたくないわよ! 私にこんなことさせているのは、あなた! あ・な・た、よ! ぜーんぶ、あなたのせいよ!」
 付き合い始めて、すぐにわかったことだけど、彼女には、人はこういうふうに生活しなくてはならないという「決まり」があるらしい。ボクにとっては、それこそ、彼女の単なる思い込みだと思うのだが、彼女に言わせれば、それを彼女の思い込みと思うのは、ボクに「常識」がないかららしい。
 B型の男全部がそうなのかどうかは知らないが、彼女の言う通り、確かにボクは、仕事のときとは大違いで、家では物凄く、だらしない。使ったタオルや脱いだ服は、その辺に投げっぱだし、部屋や台所が散らかっていても、ゴミ袋が一杯になっていても、まったく気にならない。だから、ボクが部屋の中は十分片付いていると思っても、彼女にすれば、散らかし放題に映る。ボクが彼女より先にアパートに帰っていて、それに気づかず、ファミコンに夢中になり、彼女の望む片付けをしていないと、すぐに小言が始まり、やがて、それが大事となる。
 洗濯物が溜まっているのに、洗濯していないことに始まり、ボクの整理下手へと話題は広がる。「整理下手だけなら、まだ許せるけど」と口を差し挟む余地もなく、言葉を継がれ、一週間前、十時までには帰ると言ったのに、仲間と飲んで時間を忘れ、電話もせずに酔って朝帰りしたこととか、そのお詫びで三日後に一緒に外で食事するはずが、急なボクの仕事でできなかったことかが、みんなボクの約束を守れないいい加減さ、すなわち、口先だけの調子よさ、だらしさなさが原因だと言うことになり、いつの間にか、ボクの計画性のない暮らし振り、お金の遣い方、果ては三十歳にもなって、まだフリーの助監督という仕事で将来の生活設計が全くできていないという、親みたいな文句へと発展していく。
 その頃には、もう彼女は、口を突いて出る、ボクへの怒りの言葉に自分で酔いしれ、ベッドでのあのときみたいに、眼を真っ赤にして、冷静さをほとんど失い始めているのだ。
 そんなとき、ボクは決まって尊敬している黒木監督が若い男優に演技指導していたときの言葉を思い出す。
「ある種の人間は、自分の口を突いて出る怒りの言葉を強い酒や麻薬のようにして、怒りを増幅させてしまうのさ。怒りの言葉は人を酔わせ、狂わせてしまうのだよ。だから、怒る人間には常に怒る対象が必要になる。酔えなくなるからね、いないと…」
 それは、まるで戦争好きのどこかの超大国の大統領のことであり、いままさに目の前で、眼を血走らせて怒鳴り続けている二十九歳の大手メーカーに勤める派遣プログラマーの女のことだ。
 けれど、彼女をそうさせているのは、ボクのだらしなさには違いなく、だから、ボクは彼女を責めることもできない。整理整頓は勿論、彼女とした約束のこと、生活の後先のこと、彼女のこれからのことなど、彼女の言う通り、真剣に考えていない。
「普通、三十歳にもなれば、それくらいのこと考えるでしょう? それができないのは、あなたに常識がないからなのよ!」
そう言われれば、その通りだと言うしかない。けれど、ボクが彼女の言い分に納得すればするほど、またまた畳掛けられて言われてしまう。
「わかってるんだったら、ちゃんとしてよ! わかってるのに、しない方がよっぽどひどくない!?」
 確かに…。
 いつも彼女は正しい。けど、正しいばかりが生き方なのだろうか。いや、そもそも、彼女はどうしてここまで正しさにこだわるのだろう。
 本は棚にしまってあればいいし、CDやゲームソフトは一箇所にまとめてあれば、それでいいじゃん。でも、違うらしい。本はジャンル別に並べておかなくては探すのが面倒だ。理由は知らないけどCDやゲームソフトもよく使う順番ではなく、古い物から新しい順になっていなくてはいけない。彼女は、この場所にこれが、このように整理されていなくてはいけないという人なのだ。万事がそうで、だから、三十歳の男と二十九歳の女はこんなふうに付き合い、このように同棲して、近い将来はこうしなくてはいけないと考えているらしい。しかし、その「こんなふうに」「このように」というのは、一体、だれが決めて、だれがそうあるべきと言ったのだろう?
 勿論、彼女だ。しかし、彼女はそう思っていない。世の中の人はみんな自分と同じ考えで、そう考えない人はごく僅かのだらしない人間だと信じ切っている。だから、彼女がキレたとき、ボクは彼女の正論に反論する言葉はなく、サンドバックのように打たれ続けるしかない。時には鼻から血を流しながら。
 ボクは、世界で彼女の言い分に従わない唯一身近な、信じられない存在なのだ。そんな奴に反論など許されるわけがない。せいぜいできるのは、理屈ではダメだから、感情的な言葉をぶつけるだけなのだ。
「わかったよ! じゃ、こんな俺と付き合わなきゃいいだろ!」
 当然、彼女はすかさず、こう切り替えしてくる。
「いいわよ。じゃ、別れましょう。すぐここから出て行って!」
 それで、ボクは引くに引けず、進むに進めず、とりあえず、ささやかな抵抗のつもりで、無言でアパートを出る。ここは、ボクのではなく、彼女のアパートなのだ。
 遅くない時間で、友だちが家に居れば、そこにやっかいになり、そうでなければ、公園で野宿するハメになる。彼女と付き合い出してすぐに、「家賃、もったいないでしょ」という言葉に油断して自分のアパートを解約したのは不覚だった。そのときは、明け方近くまで、彼女の説教を聞かされたから、一睡もできなかったけど、幸い野宿するハメにはならなかった。人生、何が幸いするかわからない。しかし、「すぐここから出て行って!」という彼女の言葉に同調して、彼女に背を向けてしまったボクの背中は、彼女の怒りの絶好の餌食だった。
「もうあなたの顔なんで見たくないわ! 帰っても家には入れないから、そのつもりでいてね!」
 バタン! 
 ロケバスの集合の時間に遅れるからとウソを付いて、その三時間も前にアパートを飛び出したボクの背中に、轟き渡るほどの激しいドアの音が追い討ちを駆けた。早朝に怒鳴り声を上げて、二階建てのアパートが微かに揺らぐほど、激しくドアを閉める方が、よっぽど近所迷惑で常識がないと思うのだが、そんなことは、パニックってる彼女には関係ない。

 現場から何度かメールをしたけど、返事は返って来なかった。シャクだけど電話もしてみたが、それにも出ない。さすがに今回はもうおしまいかもしれない。一日、そっぽを向かれたことはあったけど、四日間も連絡が取れないのは付き合い始めて初めてのことだ。しかも、今回は、とうとうボクも言ってしまった。
「こういうの、もう止めようよ。別れるなら、別れるってちゃんとしようよ」
 明らかに、彼女は少し動揺していた。自分でも驚いたけど、ボクの声の調子が、いつもとは比べものにならないほど、落ち着いていたから。だけど、彼女は、いつもと違うボクの声のトーンを突っ撥ねるように言い返した。
「ちゃんとできない人がちゃんとしようなんて、笑っちゃうわね」笑いさえ、浮かべている。それには、さすがのボクもキレた。そして、いままで口にしなかった言葉をついに口にしてしまった。
「別れる、別れるって、結局、別れないのは、いつもお前の方だろ!」
「……」
 その絶句と長い間が死ぬほど怖かった。それで逃げるようにそそくさと家を出たのだ。いつものように、後先考えず…。
 どうしてだろう。それが彼女に言ってはいけない言葉だとずっと思っていた。それを言ったら、ボクらは、もうおしまいのような気がしていた。

 彼女のアパートへ帰るのは気が重い。部屋に入れてくれるとも思えない。だが、残念なことに、そこにはボクの着替えや仕事の資料が置きっぱになっている。彼女の短気な性格から言って、アパートの階段の下のゴミ置き場に捨てられている可能性は十分あるし、今夜わざわざ取りに行く必要もないのだけれど、どういうわけか、工具や着替え、撮影資料の詰まった重いポーターを肩に食い込ませながら、ボクの足は、彼女のアパートの方へ向かっている。ボクを自分の思い通りに動かしたいと願いながら、それができないことに苛立ち続けている彼女の下へ…。


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Nonsex    編集者Y子の場合

「で、どうしたの?」
「どうしたのって?」
「入れてあげたの?」
「口は聞かなかったけど」
「入れてあげたんだ」
「しようがないでしょ、どうせ、行くとこないんだから」
「ふーん…」
 サチが四日間もTの電話に出なかったのは、怒っていたからだけじゃない。怖かったからだ。短絡的で短気なサチのようなタイプは、爆発するときは凄いけど、爆発する相手が目の前からいなくなるとすぐにシュンとなる。しかも、そのときは、ズバリ自分の気持ちを言い当てられて、どうしていいかわからなくなっていたのだ。それこそ、Tのメールや電話に出たら、「別れよう」と念押しされるのが怖くてしょうがなかったのだ。本当にTがもう帰って来ないと思って、物凄く不安だったに違いない。Yは、サチの話を聞いてそう思った。
「なによ」見透かされたとでも思ったのか、サチはツンと食い下がる。
「わかるよ」宥めるような口調でYは答えた。
「なにがよ」サチは益々ツンとなる。カリカリしているときのサチはいつもこんな調子だ。
「うちも似たようなものだし」
「えっ?」
「そうでもないか。あなたみたいに男を殴るなんて、私にはとてもできないし。殴ってやりたいとは、しょっちゅう思ってるけど…」 Yは、薄く笑いながらそう言うと、皿のピクルスをひとつ取って、小さくかじった。
 腎臓病の持病を持つYは、食べるもの、飲むものが限られている。出版社の編集という仕事柄、著者との打ち合わせなどで酒席も多いのだが、持病を持つ者の知恵なのか、そうした席でも自分のペースで適当に摘みに箸を伸ばし、場の雰囲気を崩さぬように、温くなった一杯のビールをちびちびやる技を身に付けている。そういう場合、仕事とは言え、気の乗らない話や薄い話題に、普通、イラついたりするものだが、Yはそうしたことを気にする方でもない。今夜も喧嘩で揉める度に、散々、サチに聞かされている、同じような愚痴に辟易した様子を見せることもない。異常に近い潔癖性のサチにも問題があるだろうに、それを指摘するようなこともしない。ほろ酔いのサチの話に付き合いながら、先刻からまるで子猫のようにコップの縁を舐めている。

 Yには、事実婚のトオルという男がいる。事実婚とは言え、きちんと結婚式も挙げ、双方の家族からも祝福された仲だ。出会ったのは、Yが学生時代のことだから、かれこれ、付き合って十年以上になる。その間、Yは、トオルと何度も別れようと思ったし、実際、別居生活のようなこともやった。本気か浮気かはわからないが、トオルに他の女がいたこともあるし、自分も好きな人ができて、付き合ったこともある。それでいながら、いつか同じ部屋でいつもと同じように暮らしている。サチに言わせると「そんなことがあって、どうして一緒に暮らせるの? 信じられない!」ということになる。
 確かに、お互いどうして許せてしまっているのか、Yにもよくわからない。サチのように、恋愛や結婚に、こうでなくてはいけないという理想がないからなのか。そもそもそんなものを最初っから期待していなかったからなのか。もしかしたら、小さい頃から病気がちだったせいで、サチのように向きになって物事に執着する元気がなかったからなのかもしれない。
「ねっ、同じってなにがよ?」
 サチはとてもわかりやすい。彼とのことを何とかしたい。きっとそればっかり考えている。前の男とのゴタゴタと失敗が尾を引いているのだろう。いつ壊れるかと心配でしょうがないのだ。だから、他人のちょっとした反応を決して見逃さない。
「同じじゃないわよ。似たようなものだって言ったの」
「どっちでもいいけど、どこが似てるの? いろいろあったって、あなたたち、両親や親戚にも認められてるじゃない。そういうこと、彼、ちゃんとやったじゃない」
「あなたの彼だって、あなたの親に会ったり、自分の実家に連れて行ったりしてるじゃない?」
「そうじゃないわよ。ただ会えばいいっていうものじゃないでしょ。二人のこれからのこととか、将来の生活のこととか、そういうこと親が納得できるように話すってことでしょ」
 うーん。やっぱり、勘違いしてるな。と、Yは思う。
 トオルはサチが思っているような男じゃない。すべからく、マイペースで、世俗的なことを自分から進んでやるような人間じゃない。結婚のために、自分からYや自分の両親を説得し、積極的に行動するというタイプじゃないのだ。
 無口で、人付き合いは悪い。だから、何を考えているのかわからないところがある。でも、最初は、そこに魅かれた。トオルより年上で、肩書きのある人間に会っても、無口で何を考えているかわからないという態度は変わらない。地位や肩書きに執着してない、そんな態度ってステキ。そう思ったのは若気の至りだった。
 要は、徹底した自分好きだったというだけ。
 事実婚をYの親が渋々認めたのも、「何も考えていないように見えて、きっとこいつは深いこと考えているに違いない。そういう男はきっとでかくなる」などと錯覚しただけだ。何も考えていないトオルの姿に騙されたようなものなのだ。じっとしてれば、周りが何とかしなくてはと焦り出す。そういうことをあの男は直感的に知っている。ただ、計算かというと、そうでもない。そもそも、計算などする人間じゃない。自分が居心地がいいと思っていることをやっているだけなのだ。結婚式を仕切ったのもYの両親で、トオルは言われるままにそれに乗っかっただけ。世俗的なことに関心や興味はないが、それを好きだとか嫌いだかいう感情もない。トオルにとって大事なのは、自分の脳の中の世界だけだ。

「この世にある現実なんて、所詮、脳が作り上げた仮想なんだぞ。他者や外界の認識なんて個体の主観、脳が勝手にそう認識しているだけのものなんだ。普遍性なんてどこにもありはしない。そんなものに戦々恐々としていたって時間の無駄じゃないか。今日お前と会話しているこの時間だって、現実の時間じゃなく、この店の他の人間たちには存在しない仮想時空かもしれない。つまり、俺の本質もお前の実態も奴らには見えていないってことさ。脳は、すべて孤独なんだ。脳は自分のことしか見ていないし、考えていない。地上にあるのは、孤独な脳さ。孤独な脳の集合体、それが地球なんだ。そこにドラマがある。そこに神がいる」

 わけわかんねぇ。どうして、自分はこの人と事実婚とは言え、結婚したんだろう。トオルの脳の話を聞かされる度にそう思う。脳科学や哲学、宗教学の入り混じったわけのわからない話ばっかじゃなく、もっと普通の話しろよ。とYは思うのだ。しかし、それが、トオルに期待してできることではないのは、長い付き合いでわかっている。だったら、フリーター暮らしなんか辞めて、そういう分野に進めばいいと思うのだが、知識は凄いのに、そういうことにはまるっきり関心がない。Yから見れば、ただ脳と遊んでいるだけにしか見えない。その癖、他の女をつくったり、どっかにふらりと旅行に行って姿を暗ます。
「俺は脳の実験をしていただけだ」言い訳は、いつもそう決まっている。
 そんな生活を十年以上もやって、二人の間で「別れる」という言葉は出たことがない。心にそう思うのは、Yだけかもしれないが、Yはそれを口にしたことはない。ささやかな抵抗で、もっと普通の社会性のある大人の男がいいとふらりとなったが、どうしてだろう、何かが物足りないと思ってしまうのだ。

「お前らノンセックスだろ」
黒木監督にそう言われて、Yはちょっとドキッとしたことがある。
「ノンセックスで、だらだら一緒にいる奴らってなかなか別れられないよな。いま、そういう連中が凄い増えている。付き合い始めたときだけで、その後、全然セックスやらなくて。でも、別れるというわけでもない。いや、だから、別れられないのさ」
 Yの仕事にも関係する識者が出ている、ある教育シンポジウムにふらりと参加した。おもしろいことやってるなと声をかけたのが、映画監督もやっている主催者の黒木だった。共通の知り合いの学者や識者が多かったのと、話がおもしろいので、いまでも時折、黒木の教育映画やシンポジウムの告知の手伝いをしている。
「ノンセックスだとどうして別れられないんですか?」
「ひきこもりを見てみろよ」
「ひきこもり?」
 精神科医のSとよく仕事をしている黒木は、ひきこもりを扱った社会教育映画もたくさん創っていて、映像関係者の中ではひきこもりに詳しい方だ。Yの出版社でも関連する書籍をいくつか出していて、ひきこもりやニート、フリーターの話は黒木とよくやる。でも、男女の話が何でひきこもりと関係ある?
 黒木は、そのとき、いつものようにマッカランのオンザロックを飲んでいた。それを一口飲むと、意を得たりと話始めた。
「ノンセックスはひきこもりなのさ」
どういうこと? Yは、ちびりと舐めかけていたビールのグラスから口を離した。

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「あなたたち、ノンセックスなの!?」
 黒木の話を始めてすぐは、大して興味も示していなかったサチが、話の腰を折って、突然、聞いてきた。人の話を後戻りさせるのは、いつものサチの悪い癖だ。自分のことで頭がいっぱいで人の話をちゃんと聞いていない。聞いているのは、話の前後関係ではなく、関心のあるフレーズだけだ。
 上の空だから、聞いてすぐは素通りしてしまう。でも、何度か繰り返される内にやっと気づき、話の流れを無視して、フレーズを拾う。相手によっては、凄く不愉快な気分にさせられるに違いない。トオル的に言えば、自分の脳の世界で一杯一杯。孤独な脳の典型だ。男とうまくいかないのは、こういうところなんだろうな。と、Yは思う。そう言えば、サチには女の友だちもそう多くない。
「珍しいことじゃないでしょ」
「そう?」
「そうよ。私の周りの人、多いよ、そういうカップル。結婚してる、してないに関係なく…」
「それって、あなたの周りだけでしょ?」
「どこかの生活研究所が出した調査で確か、データが出てたと思う。実際増えているのよ。以前からあったんだどろうけど、そういうことってきちんと調査したりしないでしょ。でも、なんとなくそういう実感はあったんじゃないかな。それで、調査してみたら、やっぱり。そんな感じじゃない? もうずいぶん前から言われてることよ」
「ふーん。でも、それでうまく行くのかな、男と女って…」
 サチは少し、気を遣ったのか、「あなたたち、どうなの?」と単刀直入には聞いて来なかった。
 Yもノンセックスで男と女がうまく行くとは思えない。現に、自分たちがうまく行っているとは思えない。でも、うまく行ってるっていうのは、どういうのをそう言うのだろう。たぶん、その基準は、カップルのだれもわかっていないような気がする。「だらだら一緒にいる奴って、なかなか別れられない」。長く付き合ってるカップルの多くが黒木の言う通りなのだ。でも、そういう自分たちの関係のことをきちんと考えたことも、話し合ったこともない。それも、うまく行くということがどういうことなのか、その基準がわからないからじゃないのだろうか。あるいは、黒木が言っていたように、そういう曖昧な関係でいることに居心地のよさを感じているからなのかもしれない。

「いま若い男の精子が俺たち世代なんかと比べても極端に少ないらしい。精子の量と性欲に関係あるかどうかは知らないけど、セックス嫌いな男子も多いんだぜ」
 黒木は、ノンセックスがどうしてひりこもりなのかというYの疑問にはすぐに答なかった。
「女の子と付き合う前からセックスがメンドクサイ。女の子と付き合うってことは、セックスすることだから、そういう関係を築くのもメンドクサイ。それこそ、スノボーやったり、サーフィンやって男同士で遊んでる方がラク。そう考えてる奴って、意外と多いのさ」
「長く付き合ってるからじゃなくて、付き合う前からですか?」
「Yはどうなんだ?」
「えっ?」
「お前も、脳が大好きな彼も、付き合う前からセックスとかメンドクサイって思わなかったか?」
Yは言葉がなかった。黒木という男は、仕事柄なのか、生来の特質なのか、人と初見で出会ってすぐに相手の性格や特徴を見抜くのがうまい。黒木と出会ってからいままで、仕事のことやプライベートのことをまるで占い師のように言い当てられている。
「確かにそうですけど…」
「そもそもさ、出版系に行く奴とか、脳に夢中な奴とかが、元気なストリート系の奴らやどこかの脂ぎった不動産屋のオヤジみたいにセックスに夢中になるわけないだろ」
それは決め付けだろう。とは思うけど、当たっている。
 黒木は自分が見抜いた相手の性格や特徴をデフォルメして楽しむというあまり感心できない趣味がある。Yはそれも酒席の話題として不快感はないが、相手によっては不愉快な思いをしたり、傷ついたりするのではないだろうか。黒木が気づいているかどうかはわからないけど、この店の常連の一部にも、酔ってそんな話をする黒木のことを嫌っている者もいる。  しかし、決め付けと自分勝手な思い込みで人をデフォルメして表現する黒木の言葉には、奇妙に真実味があり、また、説得力もあるのだ。
「セックスって本能だし、人間の大切な欲求じゃないか。そこから徹底するっていうのは、要は他人との関係を濃密にしたくない、できないってことだろ。お前らみたいなタイプはカップルになるときだって、おずおずだったに違いないんだ。もともとは他人と濃密な関係を持つことは苦手。それを思い出してみろよ」
 自分だからいいようなものの、相手が相手なら「失礼ね!」とキレられるところだ。とYは思う。人は真実を言い当てられて、気持ちがいいものじゃない。
「でも、男と女はセックスだけじゃないと思いますけど…」Yにはこれくらいがやっとの抵抗だった。
「それは確かにそうだけど、重要な一部だろ。とりわけ、セックスって生理として片付けてしまうこともできれば、他者と深い繋がりを持つための重要なツールでもあるわけだよ」
 確かに…。
「そういうことがメンドクサイ、ウザイっていうのは、人と深い関わりを持ちたくなっていことさ」
 確かに…。
「もっと言えば、傷付くことがこわい。だから、最初っから撤退して同じ趣味の連中と攣るんでその枠から踏み出そうとはしない。オタク的にグラビアやアニメ、フィギアで満足しようとする」
「それって、アキバ系のことですか?」
「お前、ほんとにわかってないな?」
「えっ?」
「いま、日本中がアキバ化しているんだよ。気づかないのか? お前だってマスコミの端くれだろが」
 今度は説教かよ…。
 黒木の畳み掛けるような話し方はどこかトオルに似ている。自分好きの男の特徴だとYは思う。何か確証や理由があってのことではない。直感でそう思うのだ。自分の知識や体験を人前で話すのが好きで、それに相手が関心したり驚いたりする反応を見るのが楽しい。そういう男を見ると、きっと自分好きなんだろうなとYは思ってしまう。
 離婚暦のある男が必ずそうとは言い切れないだろうが、黒木は二度の離婚を経験している。Yの眼から見ても、黒木が家庭生活に向いているとは思えない。結婚生活を続けていくには、男と女のどちらかが、どこかで自分を諦めないとそうできないのではないだろうか。自分に強い執着があると他人との共同生活は難しいと思うのだ。Yは自分とトオルがだらだらと一緒にいられるのは、自分が自分という人間にあまり執着していないからだと思っている。
 黒木は話に弾みを付けるように煙草に火を付けると続けた。
「いま電車男がきっかけでアキバはすごいことになってる。でも、それはいままで表に出てなかったものがマスコミの影響で陽の当るところに出てきただけさ。実は、ずっと前から日本のアキバ化は進んでいたんだ」
「どういうことですか?」
「リアルからの撤退さ」
「リアルからの撤退?」
「セックスも人間関係もリアルそのものじゃないか。だから、自分の中で自己完結できるものを求めて行く。グラビアアイドルもフィギアも、コスプレも自分一人の幻想の中で好きなようにコントロールできるからね。ある意味、実際の女なんかより、ずっと淫靡で、清楚なのかもしれない…」
「それはそうですけど…」Yは、だからって、日本人みんながそうなってきてるって言い切れるんですか? という言葉を呑み込んだ。
「けど、何だよ」
「いえ…」
「だからって、日本人みんながそうだとは限らないだろ?」
 こいつは占い師、いや、読心術師か…。
「自分たちの関係よく見てみろよ。現にお前たちがそうだろう。二人の問題の核心を話し合うなんてことはしない。それどころか、程好く距離をとって、互いの関係を曖昧にしている。その方が居心地がいいからさ。だから、セックスのような、改めて二人が深くコミットしなきゃいけないことはメンドクサイ。ない方がうまく行くに決まってる。互いが互いの幻想をシェアしてれば安全だからな。そうだろう?」
 Yは、なんか頭に来ていた。それでいながら、黒木の話に妙にうなづく自分がいる。
「人の生活の表面的なところだけ掻い摘んでるからそういう疑問を持つんだよ。デリヘルとか、ケータリングのオネェちゃんたちの話聞いているとおもしろいぞ」
「何がですか…」そう言った後で、Yは自分の声の調子がいつもより荒っぽくなっていることに気づいた。
 しかし、黒木はそれに気づいてない。
「呼ばれた家に行くと、男が女装して出て来たり、ストッキングや下着を用意して待っていたり…」
「えっ!?」
「かみさんには見つからない内緒の場所に女装グッズを仕舞い込んでいて、かみさんが旅行とか出張でいない留守にそれ着て、オネェちゃん呼んでセックスするのさ。女装しないと興奮しない。誰かに女装している自分を見られないと勃起しない。けど、昼間の世界じゃ無理だろ? 昼間はまともなサラリーマンなんだから」
 Yは混乱し始めていた。黒木の話の流れが読めない。
「ストッキングや下着は、破くためのものさ。ストッキングフェチってわかるだろ?」
 Yは憮然としたまま、黒木の読めない話をただ聞いている。黒木は、やっとYのイラついた表情に気づいたらしく、要点を整理するような口調で続けた。
「だからさ。昼間、きちんとした会社に勤めて、普通に生活している、そこだけを見ていたって、人間はわからんってことさ。見えるところじゃなくて、見えないところの方が大事なんだよ。誰だってほんとはそうなのに、昼間の尺度で他人を見ようとするから、自分たちの生活の現実まで見えなくなる。そうじゃないか?」
Yは、それはそうだけど…。とモヤモヤしながら、黒木の言葉に反論できる自分の言葉が見つけらなかった。
「それはそうでしょうけど、先刻、黒木さんが言ってた、ノンセックスはひきこもりっていう話とどう繋がるんですか?」
 こういうとき、黒木に対してだけじゃなく、編集者のノウハウで、よく使う手だ。とにかく、話を一旦、振り出しに戻させる。そうすることで、自分の方へと押し寄せてくる話題の方向を変えることができる。
「ひきこもりってのは社会からの撤退じゃないか」
「はい」
「社会からの撤退っていうのは人間関係からの撤退だろ?」
「はい」
「他者との関係を避けて、自分の世界へ閉じこもる。傷つかないためにそうする」
「はい」
「つまり、ノンセックスだって、それと同じだってことだよ。セックスがないんだから、男と女の関係はどこかで解消しているのに、別れられない。別れることで傷つくのが怖いからさ。シェアしていたものがそうできなくなったとき、きっと喪失感の方が大きい。それに耐えられない。だから一緒にいる。母子密着の閉じた世界でひきこもりが醸成されていくのとそれは実によく似てるじゃないか」
「なるほど」
 きちんと相槌を返す。これも編集者の鉄則だ。そうすれば、話題はそれ以上広がらない。だが、Yの読みは甘かった。
「でもさ。現実はそれだけじゃないんだよな…」
 おい、おい、また広がるのかよ…。広がるのはいいけど、自分とトオルの関係を餌食にするような話はそろそろ止めて欲しい。他の客だっているのだ。Yは黒木の話を押し返そうと気合を入れるように、飲めないビールをぐいと飲んだ。


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Independent            MC  NAOKOの場合

「ねえ。あの人、だれ?」
「ああ…。ここの常連。どうかした?」
「ううん…」
 ナオコは、先刻から遠く聞こえてくる、黒木とYの会話がなぜか自分に向けて語られているような気になっていた。
 メグは、話の続きを聞きたいのか、ナオコに促すように聞いた。
「それで、どうするの?」
「うん…」
「このままじゃ、彼の暴力、どんどんエスカレートしてくんじゃない?」
「うん…」
「それそれ」
「えっ?」
「そういう煮え切らない態度がダメなのよ」
「うん…」
 ナオコは二年前、三十二歳のとき、三つ年上の智也と結婚した。友だちの結婚式の二次会で知り合って、何度か食事をする内に、流れでセックスして、そこから付き合うようになった。智也に対して心がときめくとかそういう強い感情があったからじゃない。しかし、毎日、電話をくれて、自分が会いたいと思うときに会いに来てくれる男がいることって、なんか暖かいなって思った。そういうごく普通の恋愛の経験がナオコにはなかった。
「あなた、まさか、まだ昔の男のこと、忘れられないんじゃないでしょうね?」
「まさか…。それはないわよ。あんな辛いのもう絶対イヤだし…」
「ほんとに?」
「ほんとよ」とナオコは、強く答えながら、メグのような女にはあの辛さはわからないんだろうなと思う。
 
 ナオコは、智也と結婚する前、六年間、付き合った男がいた。自分より二十歳も年上の妻子持ち。イベントの打ち合わせで知り合った、広告代理店の課長だった。年齢差はあったけど、仕事以外の映画や小説、音楽の話で意気投合して、一緒に飲みに行くようになった。初めの内は、自分が二十歳も年上の妻子ある男とそういう関係になるなんて想像もしていなかった。大して仕事もない駆け出しのMCの頃だから、飲みに付き合うのも打算だった。しかし、一度そうなってしまうと自分の気持ちがどんどん男に吸い付けられていくのがわかった。行く店も話しの内容も、そして、セックスもいままで付き合った歳の近い男たちとは全然違っていたし、一緒にいると自分が女としても人間としても凄く成長している実感があった。でも、その実感の深さと、不倫している辛さは比例していた。

「昔の彼のことが忘れられないんじゃないの。あのときの体験が辛すぎて、だから、智也のこと断ち切れない自分がいるの…」
「だけど、どっかで結論出さなきゃ、しょうがないじゃん」
「それはどうだけど…」
「仕事もできない、そんな顔にされて。どこまで我慢するつもり?」
 ナオコは、メグのその言葉に思わずかばうように、掛けているサングラスの縁を右手で抑えた。
 メグの言う通りだ。でも、カウンターの男が先刻から話しているように、そうできない男と女の方がきっとずっと多いのだ。恋愛の達人だの、恋愛指南だの、あれこれマニュアル本が出ている。そういうのを読む度に、その通りできればいいなと思っているし、そうするのがベストだとはわかっている。でも、そうできないところでみんな苦しんでいるんじゃないのだろうか…。

 智也がナオコに暴力を振るうようになったのは、結婚して一緒に暮らすようになってすぐだった。最初は、食事の支度が遅い、お風呂が沸いてない、掃除の仕方が悪いといった小言だった。気持ちのいいものではなかったけど、始めはナオコもそれには素直に謝っていた。しかし、しばらくすると、ナオコが仕事で昼間いないことや夜遅くなることをとやかく言うようになり、仕事の打ち上げなどで飲んで帰ることにも文句を言い出すようになっていった。果ては、いちいち仕事の内容や帰宅時間を聞くようになった。
「どうして、いちいち報告が必要なの?」
「俺に知られたら困るようなことでもあるのか?」
「あるわけないじゃない…」
「ないんなら、何聞かれたって平気だろ!」
 そんな調子だった。その内、仕事のことだけじゃなく、家の家電や生活品を買うときでも智也に前持って言っておかないと凄く怒るようになった。仕事がうまく行ってないからイラついているのはわかった。
 智也は中堅の食品メーカーで営業をやっている。この数年のリストラや組織の縮小で、仕事の量は増え、それでいながら、ノルマは高くなった。いつ自分が解雇されるかという不安とそうならないためにがむしゃらに数字を挙げなきゃというプレッシャー…。その辛さがわからないわけじゃない。でも、自分だって、外で仕事をしている。結婚前は、MCをやっているナオコの不規則な仕事時間や内容にあれこれ口を出すようなことは一度もなかった。
 それが結婚した途端、すっかり変わってしまった。そして、ある日、深夜に帰宅したナオコは、部屋に入るなり、突然、智也になぐられた。一瞬、何が起こったのか、自分でもわからなかった。殴られる痛みよりも混乱の方が先だった。それでも、智也の暴力から逃れようと部屋の中を逃げ回っていたような気がする。その後の記憶がなかった。気が付いたときはベットの上だった。涙で顔はぐしゃぐしゃだった。体を起こそうとすると重い痛さがあちこちにあった。智也は両手で頭を抱え、リビングの椅子に固まったように座っていた。
「すまない…」智也は両手で頭を抱えたままポツリと言った。泣いているように見えた。
 智子は言葉が出なかった。「どうしてこんなことするの!?」「ひどいじゃない!?」。心の中にいろんな言葉が浮んだけれど、どれもつまらない言葉にしか思えなかった。そして、なぜか「別れる」という言葉はどこにもなかった。

 カウンターの男と女の会話は続いている。
 メグの話も目の前で続いていた。
「だからね。別にお金とかなくても、役所とかで弁護士の人が無料相談やってくれるのよ」
「うん…」
「そういうとこ、行ってみたらどうのかな。そうすればさ…」メグは、語り続けている。
 しかし、ナオコにはメグの話が聞こえていなかった。ナオコには、なぜかカウンターの二人の会話がすぐ耳もとで聞こえているように感じていた。

「母子密着型の世界って、要は共依存の関係なんだよ」黒木は、深く吸ったタバコの煙を鼻から出すと大切なことでも話始めるよういに軽く咳払いした。
「母親はひきこもりになってしまった息子のことを自分が面倒見なきゃどうしようもないと使命感みたいなものを感じて、息子の言うなりになっていく。息子は息子で、母親は自分の体の一部みたいに思っていて、客観視するこができない。だから、横柄にあれこれ母親に指図する」
「母親を自分の体の一部みないに思うって、どういうことですか?」
「何を言っても、してもいい対象ってことだよ。自分の一部なんだから、自分の思い通りになって当たり前、ならなければ、どうしてなんだと怒りをぶつけられる。だって、自分の一部なんだから、自分で自分を傷つけようが、どうしようが勝手ということになるのさ」
「なんか、痛いですね…」
 黒木は、Yのその言葉に思わず吹いた。
「どうしたんですか?」
「痛いって、お前らも似たようなもんじゃないか」
 またかよ…。先刻の悪い予感は当たっていた。また、自分とトオルの関係に話を戻される。
「黒木さんね。確かに、ひきこもりの母子密着って、別れらない男と女の関係に似てるとこ、あるとは思いますけど、それがすべてに当て嵌るってわけでもないでしょ? なんでも一つの解釈で片付けてしまうのってよくないと思いますよ」Yは、アルコールの入った勢いで、いままで黒木に言わなかったことを一気にまくし立てた。
「ま、聞けよ。お嬢さん…」Yには精いっぱいの反論だったのに、全然聞いてない。
「ひきこもりの母親の多くが息子の暴力を体験している。でも、息子が暴力を振るうのは自分たち親の子育てが失敗したからだって自分のせいだと思ってしまう。だから、警察や専門機関に助けを求めることができない。父親は父親で世間体が悪いとひた隠しにする。でも、ほんとのところは、母親自体が、息子の暴力を受け入れられるのは自分しかいない。自分しかこの子を受け止められないと勘違いしていることに問題があるんだ。母親も子どもに依存しているんだな」
 だからって、自分とトオルとどう関係あんのよ。Yは、運ばれてきたお代わりのビールをもう半分ほど飲んで、かなり酔いが回っていた。このまま、黒木の話が続けば、キレそうな自分になっている遠い予感があった。
「息子が暴力を振るうのは、ある意味、自分への怒りさ。母親への暴力は女の子に多い自傷行為に似ている。思い通りにならない自分を自分で傷つける。全く、同じ構図なんだ。ひきこもりは圧倒的に男子に多いけど、社会性の強い女子は、他人から見たら社会性を維持しているような顔をして、密かに自傷をやったりする」
「黒木さん、全然違うじゃないですか」
「えっ?」
 自分の話に夢中になっていた黒木は、目元の赤らんだYの言葉に意外なという感じで答えた。
「全然、私やトオルとは違いますよ、そんなの…」
「あれ、お前、飲んじゃったの?」
「飲んで悪いんですか!」
「悪かないけど、お前、体、大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃないっすよ。大丈夫じゃないけど…」
「うん。大丈夫じゃないけど、ちゃんと現実を見るのがこわい。だろ?」
 Yは言葉がなかった。自分とトオルのことが話題になるのがイヤなのは、自分たちが曖昧にしてなんとかなくうまく行っているように見せかけている何かが壊されるのがこわいからのなのだ。それを、まんまと黒木に見破られている。
「いいじゃないですか、私たちのことは…」
「いいけどさ。安全なフレームの中にいるだけだと、見えないことがいっぱい出てくるんじゃないのか。いままでと違う目線で自分が生きてきたフレームをみつめるのはこわいかもしれないけど、それをしないと人って世界が広がらないし、新しい世界とも出会えない。安全なとこで、いい子でいようとしても、いずれそうはできなくなる。それが世の中っていうか、人生なんじゃないかな。だったら、早い内に、いい子でいることも、安全なフレームを壊すこともやっておいた方が自分の将来のためだと思うけどな、俺なんか。いままで自分が生きてきた価値観からは正しくないと思えるから、いけないことしてるとか、自己嫌悪になっちまうこともあるのかもしれないけど、それも大したことじゃなかったって思えるときがくる。て、いうか、それができないと、いつまでも一つの価値観しか持てなくてちっとも成長できない。そうじゃないか?」
 なんか、まともなことを言われているような、悪魔のささやきのように聞こえるような…。Yは頭の中がぐらぐらして、よくわからなくなっていた。何で今日、こんな話になったんだっけ…。
「ひきこもり家庭の母親も子どももいい母親でいよう、いい子でいようと精いっぱいがんばってきた連中なんだ。お互いが他の価値観を知らなくて、こうでなければいけないと思っている。ほんとはそうじゃないんだけどね。だから、違う目線や違う親子関係のあり方を持てない。同じところをぐるぐる回って、密着が進むから、暴力になる。暴力っていうのは、ある意味、セックスと同じなんだよ。親子関係自体がそもそもエロス的な密着した関係なのに、そこに暴力が誕生するというのはエロス的関係が濃密になっている証拠さ。それは、別れらない男と女の関係にも似ているし、DVでひどい状況にあるのに、別れられない男女関係にも似ている。ストーカーもそうだし、ストーカー被害を訴えずに必死で我慢している女の子の心情にだって、それはある。一度は家族のような関係になってしまった男と女だからさ」
 Yはなんか自分とトオルのことを丸裸にされていくようで、恥ずかしかった。

 離れたコーナーで二人の会話を聞いていたナオコは、知らない内に泣いていた。
「ナオコ…」
 メグは、ナオコの頬の涙に気づいて言った。
「辛いのはわかるけど、断ち切ろうよ。これから、もっといい男と出会えるって…」
 メグは、ナオコがなぜ泣いているのかがわからなかった。


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free sex    アパレル メグの場合


 メグは一人の男にこんなふうに執着するナオコのことがよくわからない。確かに、不倫をしてて、会いたいときに会えなかった恋の辛さはあったかもしれなし、わからないわけじゃないけど、暴力を振るわれてまで、男と一緒に居ようとは思わない。

 ナオコのようにはなりたくない。メグはナオコの恋の仕方をみていつもそう思う。
 メグは、ひたむきな恋愛とか、純愛ドラマや映画の世界にある恋の物語を見て、いい話だなと思う。感動もする。でも、そういう恋愛なんて人生で何度もできるものじゃない。そもそも、一人の人を一生出会ったときのまま愛するなんてことができるかどうか疑問を感じてる。
 男と女はどこかで覚めているところがないと長続きしない。そんな気がしているのだ。それに、ナオコのように不器用にひたむきになって、男に深入りすれば、傷つくのは自分だ。それよりも、そうしないで適当に付き合っている方が楽だと思う。
 この人という男がいないことは寂しいかもしれないけど、そういう男がいない方が煩わしくない。それに三十近くになって、ずっと一緒にいていいなと思う年上の男はほとんど結婚している。年下は遊びではいいけど、長く付き合おうとは思えない。同じ歳とか、二・三歳上くらいまでだと、生活力がなかったり、話をしていてもつまらない。友だち付き合いとしてはバカ言って、その時間は楽しいけど、恋愛とか結婚となると全く対象にならない。
 メグは、結婚したいとも思うし、子どもも生みたいと思う。でも、なんだかそういう男と出会ってないし、出会えないような気がしているのだ。とりあえずは仕事にがんばるしかない。もちろん、体が寂しくて男を求めることはある。またやっちゃったと後悔もするけど、別にそれで誰かが傷つくわけでもない。

「セックスってどうしてこんなに軽くなったのか、もっと知りたいと思わないかい?」

 二週間ほど前、渋谷のバーでたまたま隣に座った男は、恋愛ができないというメグの話を聞いて、変な口説き方をしてきた。
 そいつの話によると、日本は戦争が終わって、世界も驚くほどの経済的な発展をし、科学技術もすごい速さで進歩した。普通、一つの国の国民みんながそれほどの速さで何かをやるのは尋常なことではないらしい。それができたのは、脳を酷使してきた結果なのだそうだ。

「視床下部という場所は人間の本能が剥き出しになっている場所なのさ。ところが、あまりの技術革新で、前頭葉ばかり発達し、脳が悲鳴を上げ始めた。視床下部を圧迫して、人間本来の動物本能が表に出せなくなってしまったせいさ。それで、歪んだ形でしか性を発散できなかったり、性そのものの意味が無化してきているんだ。だから、セックスが軽くなったり、ノンセックスが増えたりしているのさ」

 最初、何の話をしてるのかさっぱりわからなかった。しかし、丁度、店に知り合いもいなかったし、ママは別の常連の横に座って、話に夢中になっていたから、何とはなしにそいつの話を聞いてやっていた。でも、聞いている内に、ややこしい専門用語や難しいことはわからなかったけど、奇妙に納得するところがあって、いつか自分からあれこれそいつに質問していたのだ。

「じゃ、まともな恋愛できる人がどんどん少なくなっていくってことじゃない?」
「そうさ。現に君だってそうだろ? 好きだ、かっこいい、云たら感たら言ってても、実は現実はそう簡単にこれって人と出会ないことはみんなどこかでわかっている。映画やテレビで純愛物が流行ったり、ハンディを持った人がそれでも真実の愛に出会うとか、そういったものに視聴率が行ったり、観客動員が伸びるのは、現実にそういう出会いがないから、古典的な恋愛に実は飢えている証拠さ。でも、それはやっぱり、映画やテレビの世界のこと、そういう恋と出会えたラッキーな人の話とどこかで割り切っている。古典期的な恋愛はしてみたいけど、いまの時代は古典的な恋愛ができるほど、豊かでもなし、人間にやさしい世界じゃない。それがわかってる。そうじゃないかい?」
 変な奴だなと思った。歳はそう変わらないと思うのだが、妙に冷静にいまの恋愛を分析していて、ちっとも自分がその同じ世界にいるという感覚が伝わってこない。
「あなたはどうなのよ? まともな恋愛したいとは思わないの?」
「したいさ。現実に事実婚の女性とも一緒に暮らしている」
「ふーん。じゃあ、自分はいい恋愛していて、人のこと、どこかゆとりで見てるんだ。だから、人事みたいに言えるのよ」
「そうじゃないさ。俺は自分の脳を使って、脳の研究をしている。こうしたいとかああしたいとか、何か建設的なことで脳を使うんじゃなくて、衝動的にこうしたいと思ったことにできるだけ素直でいるようにしているんだ。その結果、どういう気持ちになるかを確かめたい。いやな気分になるのか、いい気分になるのか、そういうことを知ろうとしてる」
 そのときまで、何言いたいのかさっぱりわからなかった。すると、そいつは、急に私の手を握って言ったのだ。
 「たぶん、君は、適当に紛らわせて、セックスにも執着がない振りをしている。体が寂しかったら、面倒くさくない男なら寝てもいいと思ってる。でも、それって、やっぱ建設的な恋愛を求めている裏返しだろ? そういうのじゃないエッチを俺と探してみないかい?」
 それから、不思議とその男のことが気になり始めた。その日は適当に話して、寝なかったけど、別れ際にそいつが言った言葉がすごく気になっている。

「フリーセックスの関係なんて、日本人のだれにもできやしない。できているような気になってるだけだよ。それは君が一番よくわかってることさ。視床下部に純粋に生きるって結構凄いことなんだよ。それができて、きっと本当の恋愛ができるくらいにね…」

 男の名はトオルといった。

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