第4回心情と正義のパラドックス                       


 社会や国家の枠組みを形成している法制度や道徳、倫理観などの社会規範の縛りが弱くなると、そこに必ず、独善性の高い、「心情」や「正義」が台頭してきます。それは、基盤の弱くなった社会に何がしかの基盤を感じたい、拠り所となる基軸が欲しいという民意を背景にしています。

 粘土の弱いコンクリートのように、社会が溶解へと向かえば、人々に不安が増大し、不安を埋めるために、理念や論理ではなく、心情や正義が優先されるようになるのです。そこには、理念や論理で目の前にある、動機不明の社会不安は即座に解決できないという苛立ちと動機や原因が不明であることへの怖れがあります。

 そもそも、心情や正義というのは客観的な基軸を持つものではなく、突き詰めれば極めて私的な思い込みに過ぎないものです。それゆえに、理念や論理とは無縁のものであるにもかかわらず、あたかも理念や論理があるかのように錯覚され、それらを背景にしているかの如く語られ、それがいつか一人歩きを始めるのです。

 私は、それを社会のヒステリー症、つまり、パニック症候群のひとつだと思っています。

 社会に出現する様々な問題を心情的に解釈し、そこに私的正義を織り込むことは実はたやすいことです。そこには、世界的視野や地球的視野を持つための学習も、個人ではなく全体にとっての利益、全体にとってのよりよき未来のあり方は何であるかを体系的、論理的に構築するという能力も必要としないからです。無私の精神で冷静な議論を根気よく積み上げ、解決策を求めて行くという忍耐と努力も不要となります。いわば、私的感情の赴くままに心情を語り、それを正義と唱えればそれで事足ります。すなわち、私的怨念や恨み、偏見を正義とすることも容易なのです。

 これが個人的な見解である内は問題はありません。しかし、政治や権力と癒着したり、利益団体やマスコミに利用されるようになると民意を操作する道具として変質して行きます。しかし、心情から生まれた正義というのは、実はとても反論がしにくい。その心情が当事者の痛み、体験を通じて語られると誰も何も言えなくなり、共感を抱かないことが罪であるかのように人を沈黙させしてまうのです。

 そして、本来、所詮、制度は制度でしかないという限界を直視し、打開策を模索する、あるいは、制度の弱さを補完するはずのものであった心情や正義が制度そのものを無視し、制度や社会的な枠組みの意味性を破壊する、攻撃的、排他的、暴力的な意志となって増幅されるのです。

 9.11以後、アメリカのブッシュ政権が取った手法がまさにこれでした。

 かつてアメリカは国内において、黒人問題とその解放闘争、公民権運動が勃発する中で、白人純血主義のナショナリストと解放運動を推進する黒人やそれを支援する白人団体双方に心情と正義を拠り所とした自警団が結成され、テロと暴動の嵐が吹き荒れました。9.11後にブッシュ政権がアメリカの心情と正義を唱え、中東地域へテロの報復としてのテロを行ったのもこの構図と同じです。つまり、自分たちの心情こそ、正義であるとし、フレームに閉じることで異質なもの、不明なものの存在を理不尽な存在と見做し、世界からの排除を唱えたのです。結果、熱狂は暴力を承認し、力による解決の道を求めた。一見、論理とそれに依拠した正義の行使であるかの如く見えながら、実は民意や国際世論の操作としてのそれであったことは、いま明白となっています。  私は、9.11後にニューヨークを取材したとき、市民新聞INDEPENDENTの女性記者が9.11の瞬間、人が理不尽に命を奪われたという悲しみと同時に、強い不安が襲ったと語ったときの言葉をいまも鮮明に記憶しています。悲嘆の中に彼女を襲った不安とは、この国にパニックが起き、それが報復の暴力になり、より多くの人命が奪われるに違いないという怖れです。そして、彼女の不安は現実となりました。

 しかし、一方で、心情とそこから生まれる正義にきちんと疑問の声を上げ、自らの悲しみと苦痛を乗り越え、世界全体、人類全体に何が必要かを真摯に自問した人々がいます。

 9.11遺族会の中から生まれた、PEACEFUL TOMMOROWという平和団体です。妻や夫、子どもや親兄弟、親族、友人をテロによって失いながら、心情の赴くままにアフガン空爆やイラクへの侵攻に賛同するのではなく、ブッシュ政権が武力行使の正当性を国民に訴えたアメリカの正義をブッシュの正義に過ぎないと批判し、同じ行動を取ってはならないと反戦運動を推進した人々です。

 私はそこで、国内外の各地で無償で講演活動を行い、親族を失った悲しみ、そのときの経緯を涙ながらに語り、多くの共感を得ながら、それでも他者を傷つける解決策は自分たちが受けた悲しみを再び誰かに与え、そこに憎悪の連鎖が生まれるのだと強く警鐘を鳴らし続けるバレリーという初老の女性と出会いました。

 「自分ひとりの悲しみに縛られのでなく、それを乗り越え、この国のあり方をみつめよう。この国が中東に行ってきた歴史的事実と矛盾、その痛みを知り、それが中東の人々にどのように受け止められているかを知ろう。こうしたテロを互いが起こさないために、アメリカという国が世界にとってどういう国であるべきかを語ろう。そのためにできることを始めよう」。私は、悲しみの中にあって、出会う人々一人ひとりにそう語り続ける彼女の言葉に強く心を打たれました。そして、そうしたメッセージを発することができるのは、彼女が個人的な心情とそこから生まれる正義の危険性を深く認識しているからだと気づきました。

 彼女たちのような遺族の立場から個人的な心情とそれゆえの正義が発せられたら、誰一人、そこれに異議を唱えることができなる。それゆえに、狭窄した視野で個人的心情や正義を語ってはならない。当事者であるがゆえに、それには徹底した検証が必要なのだ。そうではないとき、心情と正義は共感という仮面をかぶった集団暴走へ繋がる。自分たちが受けた苦痛がどこから来ているのか、何が自分たちの苦痛を作り出しているのか。その本質を学び、知ることが二度と同じ過ちを繰り返さないためにとるべき行動なのだ。それによって、いまここで、世界で起きていることの真の姿が見え、発するメッセージのあり方も変わってくる。バレリーは、それを多くの人々に語りたかったのです。そこには心情と正義が持つパラドックスの危うさへの当事者ゆえの切実な自覚があります。

 北朝鮮拉致被害者の会が自民党安部晋三の支援で渡米し、公聴会で北を批判し、ブッシュ大統領と面接して世界に北朝鮮の非道な行為をアピールする。この構図に違和感を覚えるのはこうした私の認識があるからです。その席にはわざわざ脱北少女まで同席させています。ブッシュの政治的パフォーマンスの何ものでもない。

 拉致問題は日本人全体の問題として解決しなければならない問題です。国家主権と人権の侵害なのですからそれは当然です。しかし、総裁選を目前にし、ブッシュ政権の凋落が進むいま、明らかに政治を背景とした中で、劇場型のアピールを日米双方の権力機構の思惑によって推進されることに、私は明確に異議を唱えます。

 被害者の会の方々にとっての心情や正義がまさに政治に利用されています。本来、問題とすべきは、北の問題だけでなく、こうした拉致事件を抑止できず、かつ、拉致事件に対して過去の歴史認識を含め、世界を動かす明確なメッセージを発していない日本政府にその責任もあるのです。それが、こうした劇場型アピールで全く浮上していない。それどころか、日本政府には全く責任がないようなメッセージの発信です。これは、世界から見ても明らかにおかしい。自国の論理、自国の正義でしかないからです。

 拉致問題の解決に表向き中国や韓国も同調しながら、現実的行動となっていないのは何か、その背後にある真実をもっと追求すべきで、心情とそこから発する正義によって、暴力を容認するブッシュの力に依存することではないはずです。ブッシュは政治的に利用しようとしているに過ぎません。そのことにもっと敏感でなければ、世界的、アジア的世論を創造していくことは不可能です。治世者のパフォーマンスではなく、民意を動かさなければ、問題は政治の具となり、政治の動向にまたもや翻弄されるという事態を招きます。

 さもなければ、アメリカの暴力に期待しているのですかという問いになります。そもそも国内問題、アジアの問題である拉致の問題をアメリカの大統領個人の力によって解決しようとする与党の政治力のなさは痛烈に批判されるべきものです。いま、日本の首相が中国、韓国の代表者と面談さえできないという現実を直視すべきです。しかし、心情と正義が構造的に持つある特性を検証すると、実は、治世者や権力とこれらが密着しやすいというもう一つの構造が見えてきます。

 心情や正義を突き詰め、それを個人的信念として社会にアピールするためには、アピールの場が必要です。それを持つものは何か。当然ながら治世者や権力に近づく方がその場は提供されます。そこで、現体制や政権を批判することは、国内での法整備はもとより、外交交渉に置いても劣勢を余儀なくされる。ゆえに、現体制や現政権の不備を突くよりもそれを受け入れる中で問題の解決を探ろうとします。

 一方、政治の側から見れば、政党や政治家の社会的活動として、心情や正義をアピールする個人や団体を支援することは義務であり、同時に政治的パフォーマンスとして効果が高い。そこで両者は互いの利益という点においても連携しやすいという基盤があります。

 ところが、政治にとってもっとも警戒すべきものは、民意です。従って、政治は民意から警戒されたり、民意に反発を招くようなアピールについては、一定の距離を取ります。実は権力の現実とはそうしたもので、本来、日本の政治がイニシアティブを取り、解決すべき問題をアメリカに委ねてしまうという責任回避は、ストーカー殺人や集団リンチ事件で警察権力がまともな捜査をせず、そればかりか、それに対する責任を回避するのと等質なものなのです。そこに依存しても問題解決にはなりません。

 この心情と正義の持つ特性は、犯罪被害の遺族の発言にも見て取れます。死に対して死で贖うことを要求するのは法の問題ではなく、心情と正義の問題です。従って、法制度に対してこれを要求することに矛盾があります。法律や法制度というのは神が授けたものではなく、歴史的過程の中で人々にとってベストでなく、ベターの限りない選択の中で成立しているものに過ぎません。幻想ではあるが民意の承認としてあるのが法律なのです。つまり、人間が人間を裁くしかないという圧倒的な現実と限界の中で、選択されてきた基準であって、そこに透徹した普遍性を求めることは意味がありません。死に対して死で贖え、それができなければ加害者をこの手で殺すと要求することはリンチの承認であり、司法への恫喝であり、それ自体暴力です。すなわち、法制度そのものの否定です。にもかかわず、制度への不審を言うこと自体、制度への依存です。

 もし、そこまでの主張を貫徹するならば、この国の社会システムそのものをぶっ壊すべきです。心情と正義が履行されないならば、法も法制度も権力機構も無効だと叫ぶべきで、誰かを殺せばすむというものではないはずです。そもそも、動機不明、原因不明の事件を起こすような人格障害者を生み出し、放置し、かつ人権という名のもとに擁護することで、犯罪の抑止ができない国家のあり方こそ問うべきでしょう。システムを変えよ、でなければ殺すという狭隘な心情と正義のレベルでは、殺すこともできない。それどころか、本来あった、今後、こうした犯罪を起こさないためにいう一見、正義と思えるアピールが無効となります。

 愛する者を失った喪失感を埋めるための心情から出る正義ではなく、愛する者を奪う人間を生む社会のあり方、政治や教育のあり方、更正が不可能な人格障害を生む世の中のあり方に目を向けさせるアピールこそ、バレリーが世界に語り続けているメッセージです。
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