第3回 幻想としての社会、国家、そして国境

                                         
 一般に、社会が社会としての姿を保つためには、法制度や倫理観、道徳観などの社会規範によって、一定のルールが社会を構成する人々に自明のこととして理解され、認識される必要があると考えられています。しかし、見方を変えると、これは、仮想のシステムに過ぎません。なぜなら、一定のルールという共通の幻想を皆が共有しているだけのことで、それだけでは、何ら実体を持ち得ないものだからです。社会という枠組みは、本来、それほど脆弱で、社会的合意という幻想の下に、辛くも成立しているに過ぎないものです。 

 したがって、ある時代、ある時点で共有されていた一定のルールが社会を取り巻く諸情勢によって変更されることは当然起きますし、突発的な事件、事故、政治・経済状況の変化によって、社会制度そのものが変容するということもあり得ます。一定のルールを保ちながらも、社会に起きる諸問題から社会そのものがルール変更へと向かう。それができないとき、社会には様々な歪みや軋みが生まれます。幻想としての社会という認識を社会そのものが失ったとき、そこに危機的状況が生まれると言い換えてもよいでしょう。

 ルール変更というのは、当然ながら民意の反映でなくてはなりません。しかしながら、民意の反映が起きるためには、民度の高さが要求されます。社会が自らの矛盾に気づき、これを正す方向へとルールを変更するためには、それをさせる民度の高さがなければならないということです。そうではない形で、ルール変更が行われるとき、そこには治世者や権力を持つものの恣意と思惑、そして打算があると考えるべきですし、その社会を構成している人々の民度の低さ、学習能力の低さが批判されるべきです。

 つまり、社会や国家という制度的な枠組みというのは、極めて脆弱な基盤に成立しているものであるがゆえに、絶えず、民意による検証がなされていなければ、粘土の弱いコンクリートのように固形化できず、社会全体が溶解へ向かうということです。

 とりわけ、経済が成熟し、価値の多様性と同時に経済格差が生まれてくるとそれまであり得なかったような犯罪や事件・事故が頻発し、社会全体の縛りなんて大したものではない、いままで、承認されていた社会の枠組みなんて幻想に過ぎないのだという認識が有形無形の形で民意に跳ね返ります。それがさらに循環して、法制度や社会規範がなんら意味を成さない事件・事故・犯罪を生むのです。

 しかし、重要なのは、こうした構造は恣意性や意図によって起きるのではなく、なんとない感覚や社会的雰囲気の中で醸成されていくということです。そのため、検証することが難しく、原因究明とか、システムの検証とかいっていくら形式上、システム上の問題を探ってもそれが見えないというのが現実です。

 なぜ、このような事故が起きるのか。なぜ、このような事件が起きるのか。そうした問いを重ねたいのは人間としての「心情」に過ぎなく、これを背景とした問いに当事者は答えを与えてはくれません。当事者ですら、自明ではないからです。

 昨今のマスコミ、とりわけ報道の弱さは、キャスターも解説者も理論ではなく、心情を背景としたメッセージしか発していないからです。また、政治・経済・社会問題についての深い学習と見解を持っていない人々、いわゆるタレントがあたかも民意の代弁者の如く、狭隘な正義感を心情的にそうだからと振りかざし、民度をより低い方向へと誘導してしまっているからです。小泉チルドレンという自民党の正義を社会正義とする短絡した議員たちの浅薄さもそのひとつと言ってよいでしょう。
社会のこうした問題は、公民や公共財意識、国家への帰属意識のあり方にも強く反映します。公民意識や国家への帰属意識の根幹にあるのは教育ですが、現実には、家庭教育、学校教育、社会教育そのものがすでに溶解しています。

 先日、民主党とパイプの深いある方と宮台氏と私とで、かっての「生きる力を育む教育シンポジウム」を発展させ、政治・社会・経済問題を軸にしながら、社会変革推進のための新たなシンポジウムの立ち上げとそれを支える「賢人会議」を設立しようという下相談をしていました。そのときに、そのある方のお嬢さんが中学時代に不登校になったときのことをお話されたのですが、それが実におもしろかった。

 教師はまじめで、教育熱心な方だったのでしょう。なんとか学校に通わせようと再三お嬢さんを説得するために家庭訪問もし、学校でも相談をされていた。ところが、その方、お嬢さんの父親は、行きたくないというものを無理に行く必要はない。人生は長いんだから行きたくなったときにまた通学すればいいと話されたそうです。これは不登校の子どもへの処方箋としてはすこぶる正しい。けれど、その熱血教師は、自分の子どもを愛していないのかと激烈に怒ったそうです。その話を丁度、居合わせていた校長が聞いていたらしいのですが、それならそれでもよいと次のように言ったそうです。「生徒の中には腐ったリンゴがいる。その腐ったリンゴは取り除かないと他のまともなリンゴまで腐らせてしまう。だから、学校へ来たくなければ、来る必要はない。その方がありがたい」。長く教育の現状をリサーチしていた私や宮台氏はその言葉には驚きませんでした。しかし、父親としては、子どもの前でそんな言い方をするのはいかがなのものかと思ったそうです。それは、怒ったというより、そこにいるお嬢さんが傷つくことをすごく心配されたからです。

 ところが、彼女は全く平気でした。「お父さん、教師や校長なんて所詮そんなものよ。あんな奴らの言うことにいちいち傷ついたり、怒っていたりしたら生徒なんてやってられないよ」。

 子どもたちから見たらそのようにしか見えていない、教育者が公民や公共財意識、国家への帰属意識について語ってどれほどの説得力があると言えるのか。この話は、決してある学校のある不登校の生徒だけの話ではなく、どの学校においても、家庭においても、職場においても同質のものがあって、親や教師のきれい事の言葉や上司の保身に満ちた一本調子の言葉が届かない声となって飛び交っています。高い倫理観や道徳観を持てていないのは実は大人です。大人ですら、それに気づいているのに、敏感な子どもがそうした上滑りな社会の現状に気づいていないはずがないのです。

 にもかかわず、大人たち、政治家や識者と言われる人々が発しているメッセージには、社会や国家の基盤が揺らいでることを無視するように、辻褄合わせの言葉が多すぎます。つまり、社会や国家の縛りが緩み、溶解している現実にまともに向き合ってないか、この現実に無知過ぎるのです。

 社会が成熟し、格差が生まれ、これまで社会を支えていた基盤が変容し、国家形成が単独国家だけでは難しくなり、他国との密接な結び付きをより必要とされる世界で、その国にしか通用しない、「心情」としての社会性や国家のあり方を唱えることは無意味な時代に入っています。

 教育基本法改正案で「郷土を愛する態度」というよくわからない形で愛国心の問題に収拾を付ける自公連立政権もそうですが、千葉7区の補欠選挙で、「負け組みが一人も生まれない社会をつくる」と連呼する民主党もそうです。いずれも、実に日本的な心情を背景とした発想です。つまり、自民党を支える創価学会の大御所の意見との折り合いをつけ、落とし所をみつけるという日本的やり方と平等主義、画一主義を背景に、みんな一緒に仲良くという日本的村社会の発想は、実は根底は同じです。
社会の枠組みが溶解すれば、当然、国家への帰属意識は限りなく薄れて行きます。だからといって、愛国心教育が根付く社会の土壌がないところで、心情的にそれを唱えても意味がありません。それよりも愛国心の持てる社会をつくることの方が先です。愛国心を持つことが人々の生活にとって、他国との関係において有用であるという実感を社会に創造することの方が先なのです。そうしたときにこそ、旧来の愛国心とは異なる、国を愛するということの世界的な意味が浮上します。他国とのよりよき関係のために、自分の生きる国がどうあるべきかを考えよう。古典的な心情としての愛国ではなく、いま生きる時代、世界情勢の中で、自分の生活がどうあるべきかを考えよう。そう考える中で、他国に愛される国づくりこそ、愛国心の基盤なんだと気づけるのです。自分という日本人が愛され、信頼されてこその愛国心なのだという新たな発見と出会えるのです。それが、結果的に民度を高めることにも繋がります。

 しかし、残念ながら、いま政界やマスコミ、巷で議論されている中に、こうしたメッセージはひとつもありません。権力抗争の具としての愛国心であり、社会の建て直しであり、政治です。

 政治は政治のためにあるのではない。政治は人のためにあるのです。国は国のためにあるのではない。国は人のためにあるのです。この根本があって初めて、人々は幻想とはいえ、社会を維持する一定のルールを幻想としてではなく、承認し、公民や公共財意識、国家への帰属意識が持てるのです。

 一部企業の収益率のアップを見て、景気が回復しているなどとオチャラケを言っていては、疲弊した東京の下町や地方の実情を知ることもないでしょう。借金や多重債務の増加、自殺の増加に社会の溶解を見ることも、動機不明の犯罪の根源にある社会の歪みや無知を知ることもないでしょう。

 この国は人を大事にしていない。人優先の国ではない。そこに小泉政権の功罪とそれを抑止できていない野党に重大な責任があります。

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