第2回 人権と自由について             秀嶋賢人

映画『見えないライン』の監督に当たって
「全国人権啓発集会徳島分科会」フリートークよリ


           

 私はこれまで面々と制作され続けてきた、啓発映画作品を、映像作品としてあまり高く評価していません。中には、素晴らしい作品もありますが、基本的に、啓発映画の陥りやすい問題でもありますが、被差別者の世界を、被差別者の側からの視点のみで描こうとするために、作品世界に広がりがなく、閉じた世界を描いてしまっている。あるいは、その傾向が強いと思っているからです。それは、映画や映像が持つ訴求力、広く市民に訴える力をどこかで捨てていることにつながっているという認識を持っています。多くは発注元が自治体やその関連団体、教育委員会などであるため、制作に当たっての制度的な縛りがあるほか、様々な地域の人権団体の意見調整をしなければならないという側面から、常に自己規制に晒されているという一面があるためだと思っています。事なかれ主義と言っては失礼かもしれませんが、経験則に従順で、どこか無難な線で落とし所を見つけるという傾向が強いうように感じるのです。たとえは悪いかもしれまえせんが、運動会で駆けっこをやれらせておきながら、順位を付けないといった類の自己規制です。「だったら、最初っから駆けっこやらせんなよ」という話です。
 
 また、私たち現場の制作者の中には、啓発映画に命を賭けるといいますか、情熱を賭けていらっしゃる方がいて、啓発映画ばかりを創っているという方がいます。それは、それで素晴らしいことではありますが、かなり我伝引水の感があって、熱い情熱ばかりが先走った実験的作品というのは、啓発であれ、エンターテイメントであれ、これほど視聴者にとって、うざったいものはないと思うのです。重要なのは、制作者の思いではなく、一旦、その思いを棚上げして、冷静緻密に作品を構築する目が必要だと思っていますし、見る人々にどう伝え、どう訴求していくか、見せ方が重要だと思っています。世阿弥の言う、「離見の見」「見所の見」といったものです。簡単に言えば、劇場公開作品やテーマ性のあるテレビドラマ作品に見劣りしてはいけないと思っているのです。それは見る人の力を信じるということにも繋がることだと思っています。
 啓発だけでなく、教育作品を制作するときも、この思いは一緒で、私は、啓発映画だから、教育映画だから、こういうふうにつくらなくてはいけないという常識や固定観念がとても嫌いです。対象者が高校生だから、子どもだから、一般の主婦だからなどとった制作者の思い込みや決め付けが嫌いなのです。それは、制作者の傲慢さの現れの何ものででもありません。

それは、ある意味、視聴者の力をバカにしています。制作者の自己規制が問題なのです。劇場公開映画やテレビ放映作品と同じ水準でつくる。予算の関係などで、そうはなかなか行きませんが、啓発映画を甘く見んなよという気概で、いつも制作に当たっています。一言で言うと「閉じないぞ」という決意です。
 それは、これからお話することと深い関係がありますが、啓発映画と聞くと、それだけで、中学生や高校生、関心のない大人は見ようともしない。しかし、それは、見ようとしないことに責任があるのではなく、見たいと思わせていない、見たいとい思うつくり方をしていない、そういう宣伝の仕方をしていないというのが、私の制作者としての戒めとしてあるのです。

 これを前提にして、お話をしたいと思います。
 神戸の酒鬼薔薇事件の翌年ですが、1998年から2002年まで、『生きる力を育む教育シンポジウム』というのを年2回開催していました。その延長として、「OUT」という社会問題や教育問題を考えるWEBを立ち上げ、その編集長もやっていました。私が担当していた、ある教育番組で出会い、友人でもある社会学者の宮台真司や精神科医の斎藤環などを加え、かなり革新的な社会論、教育論、日本文化論を展開していたと自負しています。
 OUTというのは、はみ出す、脱ポジション、脱フレーム。もっと言えば、社会的にあやうい場所や行動を意味しますが、要は、既存の体系やこれまでの経験則を乗り越え、自分の内にある、自己規制と向か合う。それなくして、世界は広がらないと言いたいわけです。これは、保守系、革新系などという古色蒼然とした二元論が無意味であるとも言っているわけで、革新という名を借りた保守反動にも、反体制以外は保守だというわかりやすい分類をしたがる保守的革新にも双方に体系と経験則と深い自己規制があることを強く指摘しています。

もっと言えば、差別・人権などの問題を語るときに、同和、在日、障害、ハンセン病など、カテゴリー分けして語ることも体系や経験則によるものですし、それが返って、支配層の図中に嵌るという構図になっていると考えます。抵抗勢力というのは、分断支配することが権力にとってもっとも懐柔しやすい方法で、カテゴリー分けを自ら行うことはその図中にまんまと乗っかってしまうことに帰結する。アメリカの公民権運動のような広がりをこの国の解放闘争が持ち得ないのはそこに大きな要因があります。

 差別、人権、その根幹にある制度やシステムの問題を考えるとき、多くの人が、自ら呪縛されている自分自身のフレームを疑いません。違うフレームとフレームがぶつかるとそうした場合、ほとんど水掛論の議論になるか、政治に摩り替えられ、権利主張の問題だけになって、いま苦難にあえぐ人間は置いてきぼりにされてしまう。いわく、単純に「俺たちはこんなに大変なんだからもっと権利を」ということになりますし、あるいは、「それは権利の濫用だ」という議論に終わる。声を出し合う人間はまだいい。しかし、権利というのは強く主張して獲得できる者がいれば、その勝ち得えた権利によって、他の権利を奪うということも起きる。声を上げられない人間がいるわけです。社会資本には限りがあるわけで、富の分配によって社会資本はバランスを取っているわけですから、権利主張だけだとどこかに歪みが起きる。つまり、パイの奪い合いだけの闘いで、誰かが置き去りにされ、議論は終わってしまうということです。

 だからこそ、人権や差別の問題を考えるとき、注意しておかなければならない前提があります。有史以来、人は人を傷つけることで生き延びて来たという事実です。もし、人が人を殺すということをやっていなければ、人類は現在の繁栄を得ていない。とうに消滅しています。科学技術の進展もなかった。演歌ではありませんが、「あいつが浮べば、俺が沈む」。それを前提に人は諍い、争い、そして、力によってねじ伏せた者のいのちや人間として生きる権利を奪ってきた。


 それによって成長、発展という美酒に酔ってきた。ねじ伏せられた者は、制度やシステムの変革を憎悪や怨念で変えようとする。あるいは、金銭に執着することで、闇社会を形成する。世界を動かすユダヤマネーは、まさにその典型です。

 誤解を怖れずに言えば、私はパレスチナなど暴力闘争に向かわざる得ない、苦難にある人々の心情を否定しません。しかし、制度やシステムは憎悪や怨念、暴力で変わるものではありません。憎悪の連鎖に巻き込まれてしまうと、そこで、人権とは何か、自由とは何かの議論は棚上げにされ、テロやパルチザン闘争が生まれる。それはいまもひとつも変っていない。良いとか悪いとか、机上の正義を語っても仕方がないわけで、人は人を傷つける存在である。自分自身、そうした存在としてここにいる。その現実から出発しない限り、すべてがきれい事の話か、ブッシュのような大国主義者のエゴの正義になってしまう。

 ただ、暴力はいけない、社会の誰かが決めたフレームだけが正しい、あるいは、社会が悪いというだけでは、何の本質も語られない。いのちは尊いのだという言葉や人権は侵害してはいけないという深みのない言葉と形態だけが一人歩きして、その言葉もシステムも声にならない苦しみや痛みを抱えている人々の解放、共感に繋がっていかない。空っぽのフレームにいることで安住してしまうのです。そして、それがエセ正義へと変質してしまう。あるいは暴力へと拡変してしまう。援助交際や薬物をやっている中学生や高校生と話すと、私たち大人の法と道徳を混同した、きれい事の正義が何の意味もないことを学べます。

 権利とは何か。自由とは何か。その原理を語らず、自分のいるフレームこそ正しいとして権利主張をしてしまうことがいかに怖いことか。それを知ることがとても大事だと申し上げたいわけです。あるいは、果たして、それで世界は、社会は変ってきたのかという問いです。いくらシステムや法制度をいじっても、人権は侵害され続け、差別はなくならない。それはなぜか。そこには、根源的な問いをしないまま、権利主張や事なかれ主義が横行しているところに問題があると私は考えています。権力にとって、大きい声に取り合えず対応しておけば、多数派工作は簡単なのです。そこではまた多くの声なき声が抹殺されていく。

 かつて、話題になった映画に、『GO』という映画がありました。在日の高校生を主人公にした作品で、ご記憶にある方もいらっしゃると思います。その中にこんなシーンがありました。主人公の青年は、ある日交際していた日本人の女子高生とベットインすることになります。その女子高生は親や学校、社会の制度に対して生理的に拒否感を持っていて、もっと自由に生きたいと思っている。主人公は、そんな彼女なら理解してくれるだろうと自分が在日であることをカミングアウトします。
すると、それまで大人社会や制度に反感を持ち、反発していた彼女は大人たちの差別意識そのままに、彼が自分の体に触れることに恐怖を感じてしますのです。台詞では「朝鮮の人はこわい」という言葉になっています。それは、彼女が幼い頃から日本社会、地域社会の中で刷り込まれてきた、実体の見えない恐怖です。「好きなら国籍なんて関係ない」。それを共有してくれると思っていた彼はショックを受けます。彼女に刷り込まれていたのは、差別と偏見のコピーです。

 
それは一体、何か。

 それこそ、無知が引き起こす、未知への恐怖です。他者を排除する生理に常に付きまとうのは、知らないことへの違和感や恐怖が生み出す偏見と差別です。それを乗り越えるためには、先ほどお話した、体系や経験則、自己規制と向き合うしかない。自分の無知と向き合うしかない。「おれはこんな小さなフレームを全世界だと勘違いして、自分で自分の首を絞めていた」と気づかなくてはいけない。それは在日の彼も、そして、日本人の彼女も同じです。 あの映画といいますか、原作の素晴らしさはその点にきちっと着目していることです。だから、観客動員に見られるように市民への広がりを勝ち得た。窪塚人気ではないのです。良質のドラマをつくれば、観客はついてきてくれるのです。

 作品の中では使っておりませんが、実は、リストラやそれに伴うセクハラ、差別的処遇を受けた方々に共通してご質問したことがあります。それは、「あなたはこういう立場になる前、リストラされる人や派遣労働など非正規雇用で働く人をどのように思っていましたか」という質問です。多くの方が想像されるように、みなさんが異口同音に答えられたのは、自分のことではない、自分とは無縁のこと、もしくは、そうした境遇に立つ人は、その人の努力の欠如だと思っていたというものです。この映画に登場された多くの差別体験を受けた方々が、検証もなく曖昧に受け入れていた、日本人、日本社会の「ある状況」をこれらのコメントはよく反映しています。

 では、ある状況とは何か。
 多少、宗教的な言い回しになってしますかもしれませんが、仏教で言う、「無常」という言葉があります。この無常観の根底にあるのは、一切皆苦という考えです。人が生まれ、生き、そして絶命するいのちの時間の中に、楽ということはない。まず、そこから始めよと仏教では言います。その決意の中に人生の喜びや楽しみ、生きてここにあることの感動や感謝と出会え、互いを支え合えるのだと説きます。
 宗教というのは、仏教に限らず、非常に厳しいところから出発している。仏教もキリスト教もイスラム教も、いまよりもっと苛酷な格差、差別の時代に誕生しているからですが、その厳しさから根本仏教では、山川草木悉皆成仏という考えが生まれる。差別のない世界です。ところが、人はその教えの厳しさゆえに、簡単にそう思えない。いまある幸せは不滅だと思いたい。がんばれば報われる社会が正しい。そのために格差や差別があるのはやむ得ない。そのために他より安全で有利でありたい。そうあることが幸せにつながる。そう信じたい。また、逆を言えば、いまある不幸は永遠に続き、変えられないと思い込むことで、制度やシステムの歪みを承認したい。甘受することで制度に馴染もうとする。それは有史以来、人がやむなしとして苦渋の選択を強いられてきた姿です。


 人は変化を求めながら、変化を怖れます。無常を受け入れられない。旧来の価値観と経験則こそ金科玉条のものと思いたい。そのために、職場でも家庭でも、地域でも自分は安全なフレームの中で生きているのだと思い込みたいし、実際、そうしたフレームを頑なに守ろうとする。自分の子どもにもそれを無意識に強要する。
 なぜなら、そうすることが子どもの安全のためと錯覚しているからです。フレームを守るためには他者を排除し、フレームを乱す者は淘汰する。寄らば、大樹の陰…。
 先ほどからお話しているように、人権や差別問題を考えるとき、実は、この幻想としての画一主義とその刷り込みに、問題の大きな根っ子があるわけです。根本仏教で差別のない世界を説きながら、かつて既成仏教教団が死者に鞭打つように差別戒名を営々と書き続けたのも、こうした画一主義が背景にあります。

 一方、そんなことはない。安全なフレームはあって、そこを目指して生きることを否定しては個々の可能性や夢を奪うことだ。互いがフレームを尊重し合って生きていける社会はあるいというロマンチックな主張もあります。実は、これも既存の価値観や経験則から来たものに過ぎません。そうあって欲しいという願望は、自分自身がフレームやある固定した価値観に依存しているからこそ出てくる言葉です。

 先ほどからお話しているように、人は有史以来、よりよき明日の糧を得るために、より有利な縄張りを得ようと人を殺してきている。ロマンチックな理想論は、フレームはぶつかり合い、諍い合うものだという前提では出てこない発想なのです。

 たとえば、フランス革命で人は平等と謳われた。そのフランスで昨年、移民の暴動が起きる。日本政府が崇めている超大国アメリカで、低所得層の人々がカトリーナの被害で最大の被害者となってしまい、それを救済する対応ができない。しかし、それでもまだ、この国よりましな点がある。近代を市民革命によって、自らの血を流して達成した彼らには、富の再配分は当然であるという認識や税負担を含め、公共財意識が高い。言い換えれば、彼らは格差社会の中でいろいろなひどい差別や闘争があっても互いを同じ人間、同じ市民として見ているということです。
 それは格差が自明のもの。多民族文化の中で、人と人は一定の社会資本のパイを奪い合うものだという前提に立っているということです。だからこそ、市民に広がる闘争や運動が生まれ、支援を怠った政府への批判が国民的な意見、あるいは世界的な意見になり得る。不当な待遇は、どれも他人事では済まされないという基盤を持っているのです。
 つまり、フレームの中に閉じていないで、世界的広がりを持てる。自国の大統領に最終的に詫びを入れさせることができるのです。この国で、市民の声が首相に落とし前を付けさせて、詫びを入れさせたことが一度でもあるでしょうか?

 もうおわかりでしょうが、リストラを体験された方々は、かつては他人事としていた差別や不当待遇が自分のものとなったとき、帰属している企業や社会のフレームが幻想としてのそれであることに気づいたのです。いまの日本でなにかのフレームに帰属することがいかに無意味であるかを知ったのです。フレームに依存することが、人権を侵害されず、差別も受けないことのはずだったのに、そうではなかった。そのことに気づいたとき、フレームそのものの意味が無化してしまったのです。私は、彼らがどのようにひどい体験をしたかということより、体験を通じて見た、その風景の方が遥かに重要だと考えています。

 人は食べるために働かなくてはならない。しかし、働くということがフレームに帰属しなければならない世界だとすれば、自由であるためには、フレームそのもののあり方を変えるか、そこから退却しなければならなくなる。そのことに気づいたとき、いままで見えなかった社会システムの地平が見えた。フレームの中にいただけでは見えなかった世界が見えるわけです。つまり、フレームに依存することが、結果的に誰かの権利を奪うことであり、フレームにいることは自分自身の人間性を丸ごと承認していることではないということに気づく。序列化され、入れ替え可能なものでしかないという現代の社会システムの姿に行き至ってしまうしかないのです。

 ニートやひきこもりに批判的な意見が世の大勢だろうと思いますが、長く、ひきこもり問題と関わってきた人間のひとりとして言えば、ニートやひきこもりは、彼らが若いがゆえに、大人以上に社会のフレームの無意味さに敏感で、かつ優秀であるがゆえに、それに気づいているということを申し上げておきたいと思います。企業や団体に所属することも、何かの肩書きを得るために学校へ通うことも、よく考えれば、単に入れ替え可能なコマでしかないとしたら、そこに自分の自由なんてあるわけないと考えるのは当然です。ニートやひきこもり問題を就労システムの改革によって改善できるなどというのは、この社会の本質を見ていない。木を見て森を見ずの、付け焼刃の対策に過ぎません。少子化対策のために、出産費を無料にするというのも同じです。そんなことで、この国の少子化が止められるわけがない。未来への希望と保障のないところで子どもが生めますか。それがわかっていないところに、この国の政治家や官僚たちの生活実感のなさ、無知さが露呈しています。

 私たちが自分たちの置かれているこうした状況を打破していくためには、いまお話しているように、自分がいるフレームの狭隘な視点だけでは世界的な視座に辿り着けないということに気づくことです。無知からの脱却がないと、人は、開くことができない。人権侵害に対して、自分が受けた差別に対して、声を上げることも大事です。政治や制度に対して異議を唱え、改革運動を起こすことも大事です。しかし、それはスタートラインに過ぎない。それ以上に大切なのは、自分自身が慣れ親しみ、帰属しているフレームからの縛りからどれだけ自由になれるか、そのために、フレームの外にいる他者とどう深く関わり合えるかが重要なのです。また、自分がフレームに縛られないために、自由であることを保障される別の所属、別のフレームをいかに持てるか、どう通信し合えるか、その広さと逞しさが求められているのです。そのことによって、自らの無知に気づき、新たなコミュニケーション能力を獲得することができるのです。

 残念ながらと言うか、当然の帰結と言うか、社会学的に言えば、資本主義社会が成熟すれば、個々の格差や格差ゆえのフレームによる分断は益々加速します。みんなが同じ豊かさを保証されることはありません。作品の中で、斎藤貴男さんがふれていますが、格差社会の到来は、これまで、在日や同和地区出身者などの人々が受けていた差別の上にあった、安定そのもが失われいることを意味しています。 しかし、だからといって、それ見たことかでは済まされない。

 先ほどからお話しているように、それこそ狭隘なフレームの中だけで世界を見ようとしていることに他ならないからです。人はどのような立場、どのような社会的地位であれ、人として最大の尊厳が保障され、他者の権利を侵害しない範囲において、それぞれが望む自由を生きることができなくてはなりません。高い地位だから、低い地位だからが関係ないように、高い地位にあってもそれが奪われたことで、仮にその人の人権が侵害されるようなことがあれば、それは、低い地位の人が人権を侵害されたのと等価なのです。それを理解できないで、そんなの贅沢だということ自体が、人権とは何か、自由とは何かの原理を無視しています。

 よく戦前・戦後の生活の大変さを引き合いに出して、いまの子育ては母親が怠慢でダメだとか、子どもたちの生活を見て、こんなに豊かなのに何が不満なのか、贅沢だと批判する大人や行政のお偉いさんがいます。しかし、それは何の現実も見ていない。
 食に飢えているという飢餓感が満足したら、人は幸せになるのではありません。食が満たされた後に次の飢餓感がくる。物が溢れているがゆえに、人生の選択の幅が広がるがゆえに増大する飢餓感と絶望感がある。その飢餓感や絶望感と食のそれとは等価なのです。そこから出発しなければ、時代や社会状況の変化によって、人間の充足度を計るばかりで、人がそのとき必要としている生きる権利や自由というものを見失う。人間の自由を規制する側に立ってしまう危険すらあるのです。

 余談ですが、かのマザー・テレサがホームを訪れた人に「この方たちは貧しくて辛いのでしょうね」と問われて、「そうではありません」と反論した言葉があります。ご存知のように、「マザー・テレサ・ホーム」は死に行く人の家です。収容されている人のほとんどが死を前にしている。その上で、マザー・テレサはこう言ったそうです。「この方たちは、自分が貧しいから、病気だから悲しいのではありません。自分がそのことによって、誰からも必要とされていないことが辛く、苦しいのです」と語ったそうです。マザー・テレサがやったのは、死に行く人の手を握り、一人ひとりの名を覚え、その名を呼んで、「あなたがこの世に生きていたということを私は忘れない」と語り続けただけなのです。いわゆる、承認です。どのような立場であれ、あなたを私は人間として認め、あなたがこの世に生きていたことを証明するという決意を示したのです。

 ホモセクシュアルであろうと、レズビアンであろうとそれを生きるのはその人の自由です。そのことで他者から承認を受けられないということがあってはならない。ロリコン趣味や女装趣味、スワッピング趣味であろうと、それが他者の権利を侵害しない範囲において、法と道徳を混同したくだらない倫理観や正義感で裁断するのも文化意識が低俗だからです。お金持ちだからといって、すべてが悪ではないように、貧しいからといって、すべてが善でもない。その逆もある。成熟社会では、差別者、被差別者が、これまでのような二極対立構造では登場しにくい。そこに、いま、そして、これからの人権を考えていくときに多くのハードルが私たちに突き付けられるのです。

 しかし、問題なのは、そうしたアノミー状態の社会の中で、相も変らず、すべての問題を二極対立の構図で裁断しようとする、古色蒼然とした縛りが私たちの中にあるということなのです。

 市民意識の啓発という観点から言っても、それでは差別・人権の問題が市民の問題、市民同士の共感の土壌として醸成していかないと思います。そして同時に、市民同士の連帯というのは格差のない社会をつくろうという美辞麗句やお題目ではないと思います。
 
 

 先ほどお話したように、社会が成熟すれば、格差とフレームによる分断は否応なく加速します。これまで民間企業や自営業の方々が嘗めた辛酸は、昨年成立した法案や構造改革路線を見れば、今後、公務員や団体職員の方たちにも怒涛のように押し寄せるでしょう。無常です。社会のあり方は変らざる得ない。

 しかし、その中で、限られた社会資本を平等に分配し、格差の中で互いのフレームがぶつかりながらも共存できる社会とは何かを考えていかなくてはならない。そうしたこきにこそ、フレームが開いていなくてはならない。権利とは何か、自由とは何かの問いが深くなされていなくてはならないと思うのです。

 今年度のアカデミー作品賞・脚本賞を受賞した『クラッシュ』は、まさに、人が人を傷つける存在であるという視点に立って黒人差別と差別する人間関係の力動的な結び付きを実に人間的に描いていました。しかし、なおかつ、いままさに私が述べたように、互いのフレームがぶつかり合いながらも共存できる社会とは何かを鋭く問うています。

 イラク反戦の平和イベントをプロデュースさせていただいたとき、現地でアフガンやパレスチナ、イラクの子どもたちの救援活動をやっているNGOグループを取材させていただきました。また、9.11遺族会の中から反戦を唱えた、ピースフル・トゥモロウという団体の遺族代表にも取材しました。
 そうした生き死にの現場に関わっている人々の声を聞くと、みんなが自分たちの権利のあり方、自由というものは何かを深く自問し、語り合い、具体的にどのような行動が取れるかを真摯に模索している姿に出会いました。行動や考え方は様々ですが、共通していたのは、グローバルスタンダードというものの虚構性であり、その美名によって、アメリカと同じ同一性を求めることの違和感や抵抗です。

 日本人は、明治以降、常に西欧というモデルを選択してきた。戦後はアメリカンスタンダードをモデルとしてきました。その結果、出現した消費大国、成熟社会の中で、自分たち国民が本来持っている自己矛盾、社会矛盾を隠蔽し、場合によっては削ぎ落としてきた。自国文化のアイデンティティさえ捨てている。自分たちの帰属している企業や地域社会からダークサイドと言われる闇を見えなくする道を選んでしまったのです。その結果、差別の実態やそれを生む社会構造を益々見え辛くさせ、社会矛盾を描写することが難しくなっています。

 人は人を傷つける、人は人を殺し得る。生きるために、よりよい縄張りを得るために、他者を排除したり、陥れる存在であるという現実を隠蔽し、排除してきた。除菌、クリーンが社会の常識となり、そうしたキーワードを持つ商品がバカ売れする。つまり、帰属するフレームをより美しく、汚れのないものにすることに専念してきた。そこからドロップアウトしたり、競争に負けた人間を排除してきた。それこそ、自己責任という名の下に。そのことによって、さらに、体系や経験則、自己規制が強化されています。

 しかし、それは幻想に過ぎない。いま重要なのは、幻想にしがみ付くのではなく、自分たちの権利が自由が守られるためにはどういう社会を目指すのか、社会のフレームとどういう距離感を持って生きていくかを考えなくてはならない。それはとても怖いことだけど、そうしないと自分が他者の権利や自由を奪いかねないということに無知なままでいることになります。いまの社会を外側、OUTしたところから見直す。そこに、映画『クラッシュ』が提示している問への答えがあると思います。
 私が『見えないライン』を創ったのも、背景にいま述べたような問いと回答の要求があります。

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