第31回 愛なき社会の愛なき自爆



 本来、人が何者かを愛するということの基本にあるのは、無償性です。他者に対して、何がしかの代償を期待せず、かつ、愛すべき条件や要件を求めないことが、その最低限の基準とされてきました。

 「無償の愛」を英語で、UNCONDITIONAL LOVEと呼ぶのもこの概念が背景にあるからです。

 これを象徴する愛情形態として、よく、母親の子どもに対する愛情が例に上げられます。これは、ひとつの肖像がその大きな要因となっていてます。いわゆる、聖母マリア像です。しかし、この表象は、キリスト教のそれに限定されたことではなく、母親が幼子を抱きかかえるというすべての表象によって、世界共通のシンボルとなっているのです。

 近代日本絵画の代表作といわれる、狩野芳崖が描いた「慈母観音像」もこうした表象の一つと言えるのです。

 母子像は、聖母マリア像や狩野芳崖の絵画に見られるように、宗教精神と融合することで、普遍的な、慈愛、慈悲といった他者への救済精神にも応用されるようになります。

 しかし、他者への救済精神の基本に、裸の幼子を抱きかかえる母子像が、なぜ、有用だったのでしょう。

 一つには、言うまでもなく、人が世界を知覚し、認知する過程において、肌のふれあい、触覚こそがもっとも重要な役割を果たしているからです。知覚や聴覚以上に、触覚は自己と他者、自己と外界との相違を直裁に、かつ、リアティを持って、脳へ、直接伝えます。その伝達力と認知力において、知覚、聴覚の比ではありません。発達心理学で、口唇期といって、幼児が母親の乳首の感覚を受容することの重要性を言っている理由もそこにあります。

 自己と他者、自己と外界を認識するということは、同時に、自分とは何ものであるかを認識することでもあるのです。いわば、己の個体性について自覚的になるということで、それが、自我の形成に不可欠なことです。

 しかし、これには、出現した他者の存在が、自己を受容してくれているという安全の保障、自己保全が犯されるという不安がないことが絶対条件としてあります。

 簡単に言えば、安心して肌にふれ、口にくわえてみるという体験がなれば、世界を認識し、かつ自己を認識する意識の形成が妨げられることになり、自我の形成において、歪さを促してしまう危険があるのです。

 世界を認識し、自分とは何ものであるかを自覚する初期段階で、こうした危険にさらされれば、形成される自我は不安定になり、十全ではなくなります。そのように形成された歪な自我は、遺伝子の欠損のように、本来、整然と配列されているべき、形をとらず、欠落した部分や空洞となった箇所を残し、これが、その後の対人関係や社会への適応力に大きな過不足を生むことになるのです。

 ゆえに、そうした世界や自己への認識を誤らせないために、慈悲や慈愛といった普遍的な愛を注ぐことの大切さ、尊さを母子像は語ることになるのです。

 それは、人がこの世に生きてあることの喜びや安心を得られることで、他者に承認され、慈しまれ、かけがえない存在であると認識される世界こそが、人々を平穏と安全へと導くのだという精神性、宗教的世界観に裏づけられた、メッセージです。

 しかし、私たちの社会、世界は、そのメッセージとは真逆の道を歩み続けています。

 そもそも、親から母子像に表象されるような愛を享受できないまま、成長し、大人自らが精神形成においてさえ、対人関係のコミュニケーション能力や社会適応能力を欠き、「自己中」といわれる世界観をその認識のないまま他者へ押し付けてしまっています。

 それは、虐待の連鎖に象徴されるように、自分の子どもへの愛情の注ぎ方においても、同じように、欠損した歪な自我の形成をさせることになります。

 しかし、いま、それが、特別な事情や環境を持った特異なものではなくなっていることに大きな問題があります。個々の家庭の特異な姿に留まらず、社会全体を覆い、「自己中」という病魔が広がるっているのです。

 そのため、いま、20代の若者の多くが、親から母子像にあるような愛情をかけれらず、親の都合のいい愛情のみを注がれて育ってきているため、彼らにとって、他者と結び付く、当たり前の友情や恋愛がうまくやれず、不器用とも言える失敗や過ちを繰り返しています。

 しかし、歪に形成された、寂しい自我は、欠落し、空洞化した箇所の空白を埋めるために、不毛で軽薄だとわかりながら、不毛で軽薄な友情と恋愛を積み重ねます。本音で語り合うことも、セックス以外の精神的絆を結ぶこともできず、軽口とセックスだけで他者と結びつき、それを、友情や恋愛だと思い込もうとします。

 けれど、それによって、さらに、心の空白を突きつけられることになり、その不安や恐れ、自己不信から、さらに、不毛、軽薄とわかりながら、同じような友情、恋愛を、さらに、真実のそれだと思い込もうとするのです。

 それは、愛なき社会の愛なき自爆です。

 満たされないものを満たしたいと願いながら、蜃気楼のように、幻影だけを追いかけ、不毛の時間だけが過ぎて行く。その姿は、いわば、自己破壊です。

 ちょっとした不満を大きなクレームにして、叫び続けるというのも、これと同じです。叫び続けることの徒労の果てに、現実は何一つ自分の思い通りにはならない、なったとしても、叫び続ける自分は、面倒臭い奴とだれからも承認されていない孤独感を痛烈に感じさせるだけなのです。しかし、その孤独感から逃れるために、再び、叫び続けるしかない。この姿も自爆です。

 いま、製造業を中心に、非正規雇用の労働者が相次いで解雇され、そればかりか正社員までも職を失うという、未曾有の不況が私たちの国、世界を覆っています。年明けには、より本格的に雇用調整が進むでしょう。

 こうしたことを起こしているのは企業ですが、それを決断しているのは、ごく少数の経営陣です。過去十年、バブル崩壊後の日本の企業経営陣の責任の取り方は、すべて、リストラか事業規模の縮小、統合、合併といったもので、経営陣自らが責任をとったことは、ただの一度もありません。

 「自己中」によって、働く人々やその家族に生活不安という皺寄せを押し付けてきただけです。サプライムローンの問題は、もう2年も前から言われていたことで、これに対して何の予防策も講じず、企業収益を挙げ、含み利益は膨大に保有しながら、それを放出することもしません。

 しかし、少し頭を巡らせば、雇用が疲弊し、失業者が増大し、景気が低迷すれば、さらに消費は落ち、将来不安や生活不安から消費行動は抑制される負のスパイラルが出現するのは自明です。

 そうした社会では、自分の生活が安定していれば安心という方程式は崩れ、いつ自分にそのお鉢が回ってくるかと疑心暗鬼となり、他者への不審が生まれます。また、世情は不安定となり、犯罪は増加します。

 企業の成長、発展は安定した社会、安全な治安のもとにあるのです。それを企業自ら、率先して破壊しています。これも自爆です。

 雇用調整をして凌ぐというこれまでの発想を変え、政治や地域に働きかけ、あるいは同業他社に、異業種に働きかけ、いま雇用できない労働力を、労働者の生活を守るためにフレキシブルに運用する、そうした知恵も創意工夫もありません。

 こうした至難のときだからこそ、難局を自社単独の力で、都合のよいやり方、一番簡単で、やってはいけないやり方に安直に頼るのでなく、日本全体、日本企業全体の総意を結集して乗り越えるべきなのです。

 ところが、財界人も、政治家も、彼ら自身が慈悲や慈愛に満たされてないがゆえに、こうした発想が浮ばないのです。

 私たちの社会、国が、この難局を生かすのであれば、もうこれまでのような不毛な施策、軽薄な取り組みをやめ、自己犠牲によって、他者を愛し、他者を救う無償の愛に挑戦すべきなのです。

 若い世代が軽薄な時間で貴重ないまという時間を消耗し、明日なき自分の未来と遭遇しないための、気づきが必要なように、日本を動かす知恵なき人々が、知恵なき自らの愚かさに目覚めない限り、愛なき社会の愛なき自爆はやむことはありません。


リストへ                  ページトップへ