11.22 MOVE!  斎藤 環×秀嶋賢人ミニトークショー


                「社会崩壊と思春期問題」
        
            秋葉原無差別殺傷事件を受けて―


 この文章は、2008年11月22日東京・青山で開催された『思春期の心をつかむ会話術』出版記念、シークレット・ミニトークショーの模様を加筆・訂正して掲載しております。本文中の誤記等表記の誤りは、FOR THE ONE PROJECTの責任によるものです。


1.基調発言:最近の犯罪の特徴と傾向


□実存の主張から匿名性へ


斎藤  秀嶋さん。この度は、ご出版、おめでとうございます。その記念の集まりで、今回、呼んでいただいたわけですが、最近の犯罪の特徴や傾向ということで、まず、話を始めたいと思います。

先ほど、紹介の中で、「酒鬼薔薇事件」が出ましたけれど、ある種、犯罪というのは時代を反映する、鏡になるというところがあります。

90年代は「酒鬼薔薇事件」が象徴していると思いますが、「秋葉原無差別殺傷事件」は、別名、0年代と言われる、2000年代を象徴する事件と位置づけられます。ということで、今回はムック本がぎょうせい社と岩波書店から相次いで出されるということで、これは社会学者とか評論家の方が様々な切り口から語っているのですが、みなさん、意見がバラバラなんですね。つまり、いろいろな人が自分の問題を投影するのに意味を持った象徴的な事件だったと言えます。

結構、多かったのは、「語るに値しない」という意見がありまして、語ると群発性を招くから黙っていた方がいいのではないかというものです。これはこれで、正当なんです。確かに、語られると目立ちたい人が、ますます、出てくるということがあるからです。

ただ、今回、秋葉原事件が時代を映す、象徴的な事件だと言われていますが、結構、続発しています。茨城の「荒川沖駅通り魔事件」とか、岡山の「ホーム突き落とし事件」とか、秋葉原以降だと「八王子駅通り魔事件」だとか、最近あった大阪の「個室ビデオ放火事件」とかも、殺人の意図は希薄であったとは言っても、通り魔的な事件で、こうした事件が続発していると言えます。

つまり、酒鬼薔薇事件のときのように、突出してそれだけの事件があったというよりも、続発しているというのが、一つの特徴です。また、加害者の置かれている状況が、結構、似通っていたりとか、一番定型的なのは、動機とその後の展開が霧散化しているんですね。

ネットの掲示板に有名なテンプレートがあって、そこに、「むしゃくしてやった」「相手は誰でも良かった」「いまは反省している」というのがあって、みんなこれをなぞるようにやっているところがあるんですね。

言ってみれば、動機も希薄化しているし、犯罪としての特異性も希薄化していると言わざるえないわけです。

酒鬼薔薇事件と対比すると、いろいろなことが見えてくるんですけれども、あのときは、まだ、「実存の主張」みたいなものがあったと思うんですよ。

あの事件は、凝りに凝った犯行声明文を出して、その内容が、すばらしいと言うと、語弊がありますが、文学的で、それが評価されるということあったり、特殊な神、「バモイドオキ神」に捧げるという、信仰みたいなものが書かれてあったりとかで、良くも悪くも、個性的であったと言えます。その個性的な部分に自分という存在の特異性みたいなものを掛けて、犯罪の中でこれを主張するということがあったと思います。

しかし、今回、0年代の犯罪者というのは、徹底して匿名的なんですよ。あくまでも、匿名的。

私が、NHKの「視点・論点」という番組で、まだ、秋葉原事件が起きる前に、「荒川沖事件」を受けて言ったことなのですが、彼らは、「誰でもよかった」というけれども、それは、殺される人間は誰でもよかったというふうにもとれるけれども、実際には、「この犯罪を起こすのはオレではなくて、誰でもよかった」という、つまり、互換性というか、取替え可能性というか、そうしたニュアンスがあって、もはや犯罪においても、自分の特殊性であるとか、個性であるとかいうものを主張する構図ではなくなりつつあるという傾向を感じます。いろんな意味で匿名的な事件になりつつあるなという印象があります。


□反社会性から非社会性へ


 それと、もう一つ特殊なのは、酒鬼薔薇事件のときは、まだ、社会に対する挑発みたいなものがあったと思いますね。反社会性と言ってもいいと思うのですけど、今回の秋葉原の事件は、反社会性はあまり感じられない。

自爆テロと言っている人がいましたけれども、テロというのは、自傷行為みたいな感じだと、私は、思うのですが、ただ、結果的にあれをやったお蔭で、違法な日雇い派遣が中止になったりとかして、テロとして有効だった面もあるので、自爆テロというもの妥当な意見という面はあるのですが、内向的な事件、社会を挑発するというよりも、自己否定的なニュアンスが強い。言い換えれば、非社会的な事件という言い方をしてもいいんですね。

70年代からずっと続いているんですけれども、若者の退行性が高まってきている、非社会性が高まってきているということが、統計的にもはっきりと指摘できることです。

犯罪統計を見ましても、犯罪のピークというのは昭和35年前後です。強盗とかは、警察の捜査で変わりますけど、典型的なのは、殺人の件数なのですが、殺人事件の件数は、この時期にピークになっています。昭和55年くらいから見ると、当時の4分の1とか、3分の1とかいう数字になって、微妙な増減はありますが、ずっとその推移で来ているんです。

だから、減少傾向を示しているわけです。つまり、統計的には、若者がキレやすくなっているとか、反社会的になっているということは言えない状況があって、どの先進国でも、だいたい、20代が一番凶暴なんですけれども、日本だけ違うんですね。日本で一番犯罪件数が高いは、30代、次が50代なんですね。次が40代で、その次が20代。つまり、ワースト3にも20代は入っていない。日本の20代はとてもおとなしい世代なのです。

一番凶暴なのは、団塊世代で、犯罪がピークだった昭和35年頃というのは、団塊世代が思春期の頃なんです。団塊世代は、青春期には全共闘運動というのがあって、当時は、学生仲間が、始終、死んだり、殺されたりしているというのがあったというのを聞いていますし、歳を取ったら、枯れるかと思ったら、今度は暴走老人になって、反社会的なスタイルは一貫しているわけなんすけど(笑)。それ以降の世代はおとなしくなってしまって、とても平和な世代です。

しかし、一方で、社会的な問題というのが出て来ているわけです。私の専門ですが、ひきこもりとか、ニートとかです。その数は、段々増えていて、非社会性の傾向は強まってきていると言えます。犯罪にも、非社会的な傾向が反映されていて、切羽詰って暴発してしまったところがあって、社会に何かをアピールするというよりも、さっきから申し上げているように、自傷的な感じでなされているところがある。


□「負けた教」の蔓延の危険性


彼の掲示板の手記などを見ても、自己中心的という人がいましたけれども、普通の自己中心的なものとはちょっと違うんですよね。

彼の掲示板を見ると、一貫して自分のことをブサイクと書いているんですね。「こんなブサイクな人間には、恋愛をする資格はない」みたいなことが、いっぱい書いてあって、常に自分を否定して生きているところがある。自己否定的な感覚が、いまの若者世代にすごく蔓延していて、私が一番危惧するところはこの点です。

私が看ている、いまの若い世代は、自分のことを好きになれないということなんですね。どうあっても、自分のことを愛することができないという問題を抱えていて、さらに問題なのは、自分を愛することができない状態を、変えられないということなんですよ。

この辺が理解を絶しているところで、私もいま47歳なんですが、一応、10代の気持ちがわかるつもりでいたんですが、この辺はなかなか理解できないところです。

つまり、「自分は未来永劫、どうしようもない」という確信ですね。ほとんど宗教的確信に近いものがあると私は思ったので、これは、「負けた教」ですね。一昨年くらいに『負けた教の真実』という本を書きましたけれども、ほんとに自分は負けちゃっていて、そんな自分は変えようがないという確信が、結構、幅広く広がっている。

秋葉原事件の加藤容疑者というのは、広い意味では、この「負けた教」の信者みたいなところがあって、自分は無価値な人間である、価値のない自分は変えようがないし、この先も未来はないし、だから、どうしましょうと、ずっと悶々としているわけですよね。

はたから見ていると、彼の置かれている状況は、かなり厳しくて、家族も頼りにできないし、置かれている雇用状況も派遣労働で、日雇い労働ではないものの、生活は不安定で、明日をも知れない立場のはずなんですが、それに関する悩みはほとんど書かれていなくて、ずっと、ブサイク、ブサイクって書いてある。もっと、自分のことで悩めと言いたいのだけれども、悩んでいるのは、結局、「ブサイクな自分」というところに、集約されてしまっているんですね。

これは、一つの象徴と言ってもいいと思います。なぜかというと、「ブサイク」って、何を意味しているかなんですよ。これは、私の解釈で言うと、コミュケーション弱者であるとことなんです。他者とのコミュニケーションにおいて、負け組であるということを「ブサイク」という言葉で表現していると思うんです。

加藤容疑者自身を見ても、並外れてブサイクと思う人はいないと思います。確かに、ちょっと背が低かったりとか、容貌コンプレックスはあったかもしれませんが、あそこまで執拗に、容姿に拘る必然性はないわけで、それを見ていると、「オレはもてませんよ」「コミュケーション苦手ですよ」と、いろいろなコミュニケーション弱者としての要因をブサイクという形で表現していると言えるんです。

実際には、このコミュケーションというのが問題でして、コミュニケーション至上主義みたいなものが、これだけ社会の至る場面に広まってしまいますと、コミュニケーションスキルが高い奴がえらくなって、弱い奴があらかじめ社会的弱者と決められてしまうという流れが、もう中学生くらいからあるようなんですね。

中学生でいうと、とてもイヤな言葉ですが、「スクールカースト」というのがあって、学校時代に身分制が決まってしまう。

スクールカーストの上位者というのは、コミュニケーションスキルの高い奴なんですよ。高い奴は、何ができるかというと、もちろん、しゃべるのが上手、笑いがとれる。さらに上級者は、人をいじって笑わせられる。こういうスキルですね。こういうコミュニケーションスキルの強者がカーストの頂点にいる。

ただ、こうしたカースト強者は、あまり勉強ができなかったりするので、学校を卒業してから、弱者に転落する可能性が付きまとってます。ですから、いまの思春期というは、生存競争的にも、保証がなにもないという点から言っても、みんなすごくリスキーな生き方になるなというのが実感なんですけれども、そういう中で、あらかじめ弱者的な意識を持ってしまった人は、自分のことをずっとブサイクと思い続けながら、最終的には追い詰められて、ああした暴発を起こしてしまうということはあるわけで、それは、潜在していたものであろうと思うんです。だからこそ、あれだけ続発したわけですし、今年の上半期だけで1年分の通り魔事件が起きているわけですからね。

しかも、大体、立場が似通っている。派遣就労者だったりとか、コミュニケーション弱者だったりとか、ニート的な生活スタイルだったりとか、そういう意味でかなり、似通った生活の背景を持っているところがあって、こうした潜在化したものがどういった表現で出てくるか、やっぱり、通り魔的なものしかないのか、あるいは、もっと別の表現になってしまうのか、その辺がとても危惧されるところなんです。


□酒鬼薔薇事件との連続性・非連続性


秀嶋 私が、今日おいでの斎藤先生や社会学者の宮台先生、教育評論家の尾木先生などにご協力をいただいて、「生きる力を育む教育シンポジウム」を以前やっていたのも、また、WEBで「OUT」というポータルサイトを立ち上げ、先生たちにご協力いただいのも、酒鬼薔薇事件の1年後くらいのことで、その意図にあったのが、どうしたら、こうした事件を未然に防げるかというものでした。あるいは、殺人という事件を起こす気持ちを別のところに持って行くことはできないのかということを、みんなで考え、探るといった目的でした。また、社会の閉塞感をつくっている、私たち大人のあり方を見つめなおそうという意図もあったわけです。

いま、斎藤先生の話のにあったように、酒鬼薔薇事件というのは、ある意味、芸術的と言ったら、文句を言う方がいらっしゃるかもしれませんが、ぼくはそう思うんですね。彼の犯罪は、一つの言い方をすれば、すごく芸術的であった。

それと、日本の社会が持っている、構造的な欠陥を突いている。つまり、私たちの社会は、「神なき社会」なんだということです。だから、どうしても彼は、幻想としての神を設けないと、ああした犯罪は起こせなかった。それくらい、酒鬼薔薇の時代には、犯罪を起こすことに縛りがあったとも言えるわけです。犯罪に対する抑止意識が、まだ、犯罪を冒す人間にあったということなんです。

神格化した何者かを設けない限りは、殺人を起こせなかったということが逆に言えるわけで、が、しかし、そこに眼を付けたのは、日本社会が構造的に持っている、日本近代以降の神なき社会のあり方に一つの警鐘を鳴らしているというのが私の考え方なんですね。

ところが、この秋葉原事件ほか、その前の諸々の事件は、違うんですね。

みなさん、2ちゃんねるなどにある若者たちのだみ声をネットで見るということもされていないと思います。宗教団体の方にはぜひ見ていただきたいのですが(笑)。それを読むと、明らかに自己完結的なんですよ。まるで、自殺を決意した人間が自殺に至る経緯を面々と綴り、自殺するように、しかし、他者を巻き込んで、自己破壊的に事件を起こす。

他者を傷つけるということは、そのときの目的意識としてあるんですが、他者を傷つけること以上に、そこで自分の人生に終焉を、ピリオドを打つということにすごく執着しているんです。そこで、なぜ、そのことに執着するのかというと、加藤の書き込みを読むと、四畳半フォークの世界なんですよ。

つまり、アコーステックギターを持って、「ぼくはこんなに寂しくて、キミのことを待っているよ」「ぼくはこんなに恋に失敗しているけど、いつかぼくをみつけてくれる人がいはずだ」とかね。「何も食べるものがないから、今日、カレーライスを一杯だけ食べたよ」とか。典型的なのは『神田川』という唄があって、「キャベツばかりをかじってた」といった、貧しさや挫折を強調するような唄が多かったんですが、それは、私小説的甘えの世界なんです。

海外にあるような私小説じゃなくて、日本的私小説ですね、そうした展開が四畳半フォークにあったんですが、それにちよっとニュアンスが似た感じがあるんですね。

結果、四畳半に閉じこもった世界で、他者を傷つけて、結果的に自己完結させていく。そういう点が酒鬼薔薇事件とは全く違う。

だから、これは、当然、連鎖するなと思いました。そうした四畳半フォークの世界に撤退しながら、しかし、憎悪をたぎらせている奴らがいっぱい、この国にはいるからです。

秋葉原事件をあまり語らない方がよいという意見が多かったと、斎藤先生の話でありましたれど、それは、逆に、社会とうまく付き合えなくて、付き合い方がわからなくて、「オレは一人取り残されているんだ」と思い、自分をそのように追いやった社会への憎悪をたぎらせている人間が、有象無象いることがわかっているからです。

しかし、それが反社会の酒鬼薔薇事件と全く無関係に起こっているかというと、そうでもなくて、酒鬼薔薇事件を契機に、ある想像力が若者に開いていっていると言うこともできるわけです。

酒鬼薔薇の犯罪の芸術性の高さで、非常に問題なのは、あまりに芸術的であるがゆえに、強い影響力があったということなんです。その後も、奈良で「老女殺害事件」というのがあって、コーラを買いに行くような感覚で、「人が殺してみたかった」という理由だけで、近所の老女を殺害するという事件が起きます。そのときに、加害者が酒鬼薔薇事件に影響を受けたというようなことをはっきり言っている。

形は違っているのだけど、最近の通り魔事件や無差別殺傷事件も、これと全く断絶したものとしてあるのではなくて、人を殺すということの重さ、意味性を失くしてしまったという点で、連続性もあるわけです。そのことによって、なにがしか、他者や社会、マスコミ、ネットの世界にメッセージを伝えることができる。この自覚は、明らかに、酒鬼薔薇事件以降のものだと思います。

それが唐突であればあるほど、脈絡が見えなければ見えないほど、「なんじゃ、こりぁ!」と世間を騒がせることができる。それは、非社会的ではあっても、日本的私小説世界の延長であっても、結果としては、反社会と同様の影響を周囲に与えることができるわけで、そこのことも、犯罪を冒す彼らは、酒鬼薔薇事件以降、わかってしまっているのです。


□共通する承認されない自分


また、これは斎藤先生のご専門の分野だけれども、さっき、斎藤先生の話で、自己否定という話がありましたが、ぼくが見ていくと、そこには、家庭での問題が大きくて、幼少の頃から承認されていないんですね。親からも承認されていないし、周囲の大人からも承認されていない。

斎藤先生といじめに関する仕事をさせてもらったこともあるんですが、斎藤先生から一連の話でありましたが、学校の中でもコミュニケーション弱者として承認されていない。つまり、生活のあらゆる場で、自分という人間を認めてもらったことのない人間が有象無象いるっていうことなんですね。

でも、思春期というのは、すばらしくごまかしがうまい時期でもあるので、承認されていない痛みがあっても、にっこり笑ってやり過ごしてみたり、「そんなこと痛くも痒くもないよ」と平気な顔を見せることができるんですね。内実が違っていても。

ということで、承認されていない子どもの痛みが親にも見えないし、教師にも見えないし、仲間内でいやなことがあっても、自分の居場所をみつけるためには、笑ってごまかすくらいの度量がないと、その場所にいられないというのもあるので、何とか、ごまかしてすり抜けようとするわけですね。がんばっちゃって。結果、だれにも心の傷を癒されずに、そのまま思春期を過ぎて行く。

すでに報道などでもふれているように、加藤の場合、酒鬼薔薇と非常に似た小中学生時代を生きているんです。

親が勉強をさせることに熱心で、暴力もあったというところです。酒鬼薔薇の家庭は高学歴の親の家庭でしたけれど、加藤の両親は青森の地方銀行の行員で、二人とも高卒だったということがあって、銀行というのは、いろいろな意味で学歴の構図なんですね。要は、学歴が役職につながり、バブル崩壊以降は、リストラを含め、競争が激しいわけで、そうした親の精神的なストレスが背景があって、子どもに強圧的に青森高校への進学を要望したということがあるんですね。

秋葉原事件の前に、2007年に会津若松で、ちょっと酒鬼薔薇に似た事件がありました。「福島会津若松母親殺害事件」です。お母さんの首を切って、腕を植木に差していたという事件です。インターネットカフェに、母親の首をバッグに入れていき、そこで一晩過ごし、翌日をそれを持って自首した事件ですが、この子も、加藤と同じなんですよ。

田舎の中学校にいて、成績がトップクラスで、スポーツもできた。ま、田舎ですから、チヤホヤされますよね。きっと近所のおばさんとかが言いますよね。「ああ、勉強ができて、いい子ね」みたいなことを。しかし、会津の例でも、その後、県下でトップクラスの有名高校に入っても、そこで成績が一番になれるわけはないのです。県内の優秀な子が集まって来ているわけですから。300人定員がいたら、その内に150番とか。

加藤も同じで、高校に進学すると、唯一、勉強ができるとかいうことで保たれていた、自尊心が支えられなくなり、箍(たが)が狂い、なおかつ、親子の力関係が逆転しちゃうわけです。親の威圧の中で抑え付けられていたものが、勉強ができなくなって、自尊感情を支えるものがなくなった途端に、家庭内暴力が始まるんです。それで親は、お手上げ状態になって、無視するようになり、ますます、承認の欲求が満たされないということが起きる。

この辺の問題を、親が、あるいは教師が、また、地域が自覚していかない限りは、自己完結的なこうした事件は、これからも起きるだろうと思います。

たとえば、後で、先生にも伺いたいのだけれど、5月、6月にこうした事件が、なぜ集中するのか、酒鬼薔薇の事件も5月8日なんですが、そうしたことも含めて、いま申し上げたようなことを考えていかないとまずいんじゃないかなと思うんです。そのために、何が背景にあるのかということを話し合って行きたいなと思います。


2.問題視すべき背景


□やさしすぎる日本の家庭


斎藤 いま秀嶋さんからお話のあった、5月、6月というのは、難しい問題があって、思春期問題が起きやすい時期の統計をとったことがあるんですけれども、節目っていうのがいくつかあるんですね。

連休明けとか、夏休み明けというのは、不登校が起こりやすい時期でもあるし、クリスマス、お正月前後には、うつとか、自殺が増えるというのがよく知られた事実です。

社会が何らかの形で動くときとか、新学期が始まる時期とか、連休が明けたときとかですね。そういう時期は、子どもにとっては、結構、クリミティカルな時期だと言えるんですね。5月病とかいいますけれども、少なくとも、生物的な変動を越えた、社会的なサイクルなものが動くときに、何かが関わっているのだろうなということは言えると思います。

特に、人が理想や希望に満ちている新学期とかですね。こういうときは、ひきこもっている、あるいはニートをやっている人にとっては、結構、厳しい時期だったりすわけで、そういう時期に気持ちが荒んできたり、荒れ気味になってきたりするということは、彼らに共通した特徴ではないかなと思うことはあります。

もちろん、人間は生き物ですから、生物的要因というのは無視できないところがあるとは思うのですが、暦というのは、かなり人工的な要因が加わっていて、週というのは完全に人工的な単位ですよね。週の曜日によって、人間の対応が変わったりするのは、いかに人間が人工的なサイクルに慣れ親しんでいるかがわかると思うんです。私も月曜とかに体調が悪くなったりするんですけれど、これも人工的な習慣によるものなんですね(笑)。

割と人間の身体性みたいなものも、人工的なサイクルに慣れ親しんでしまっていて、だから、5月、6月にそうことが起きるというのは、こうしたことに関連づけることができるのかもしれませんけれども、ちょっと詳しいところまではわかりません。

ただ、非社会性の問題というのは、これからも、ますます広がって行くと思います。実は、ちょっと気になることがあって、秋葉原事件の彼は、秀才であることやめて、全国を転々としているわけです。茨城にいたり、静岡にいて、派遣労働をやりながら、孤独な生活を営んでいたんですが、そこに見えるのは、日本の家庭の機能の失墜なんです。

日本の家庭というのは、実は、結構、偉大なんですよ。

いま日本にフリーターが400万人くらいいて、ニートが64万人くらいいて、ひきこもり100万と私が言って、それが定説っぽい感じになっていますけれど、私は誇張だとは思っていません。

国の調査でも41万世帯にひきこもりがいる。ここには二人以上ひきこもりがいる家庭は入っていない。ですから、これがいかに控えめな数字かがわかります。しかも、これは、訪問によるアンケート調査なんです。

いま国勢調査にも協力しない家庭が増えているのに、見知らない女性がやってきて、「お宅のお子さん、ひきこもってますか?」みたいな質問に、正直に答える家庭がどれだけいるかと考えると、それが41万もいたということは驚くべきことです。

この数字を見たときに、100万は絶対、固いと、別に賭けをしてわけではないんですが(笑)、そういう確信を持ったわけです。

これだけの人がひきこもっているというのが、まず驚きです。この100万人という数字は、つまり、20代前後以上がみんな家庭に抱え込まれているんです。世界的にはあり得ない話です。

イギリスでは、25歳以下のホームレズが25万人います。これが普通です。つまり、ワールドスタンダードとしてのヤングホームレス数です。それが正しいかどうかは別にして、それが世界的には普通なんです。日本の場合、働くことができるようになっている、100万という大人が家にいるということが問題です。

これができているのは、やはり、日本の家庭がやさしいからですよね。子どもの面倒はみるからと、食べられなくなっても、働けなくても、親が子どもを見放さないということがあるから、ヤングホームレスが少ない。

最近、ネットカフェ難民がじわじわと増え始めていて、これがだいたい統計で、5400人くらいでしたかね。統計ですから、実質は、1万人くらいいるかもしれませんが、そもそも、ホームレス自体が国の統計で15000人くらいで、その中で若い人は100分の1以下ということですから、海外先進国に比べて、とても少ないんです。

日本では、野宿者、いわゆる公園とかで青いシートを張って生活しているのような野宿者をホームレスといいますが、いまは、ネットカフェ難民なような、新しいホームレスが出ているのですが、それを入れても、まだまだ、世界の標準に比べれば少ないし、社会問題になってないと言えます、しかし、これは、いまの現状です。


□子捨て型の親の台頭


今後の兆候の象徴的なものとして、家にいられなくなった若者の事件という点で、秋葉原の事件があるわけで、家庭の機能が健全化と言っていいのか、劣化していると言っていいのか、難しいところですけど、家庭が大人になった子どもを支えきれなくなっている、支えなくなってきているという兆候の、一つの現われと考えていいと思います。

これは世代間のギャップですね。

私の見るところ、大体、50代以上の親世代は、子どもを必死で面倒見ようとする人が、まだ、多い。40代くらいの人は、どんどん、子どもを見なくなっていく傾向が強いです。

いわゆるモンスター・ペアレンツという世代がこれから増えていくわけですけれど、このモンスター・ペアレンツというのは、一見、子どものことでキレて、逆上して、クレーマーみたいになっていると思われるでしょうが、結局は、自己中心性の別の表現だと、私は思うんですね。

私も精神科医として、モンスター・ペアレンツに悩まされていますから、わかるんすれども(会場笑)。

すごいですからね。たとえば、かつては、子どもを精神科に入院させることにすごい抵抗を感じる親が多かったんです。入院というのは一大決心をして、すごく心配して、「そんなに毎日来なくても大丈夫です」と言っても、心配で心配で、毎日見舞いに来て、「それじゃ、家にいるのと変わらないじゃないか」と言いたいくらい、過保護的な親が圧倒的に多かったんですが、昨今、目立ち始めたのが、子捨て型の入院治療です。

「お宅に預けますから、後は何とかして」みたいに、預けっぱなしです。こういう親がちらほら増えてきていて、それは深刻な問題と言えると思いますね。預けっぱなしにして、我関せずみたいな親ですね。ただ、これはお金がありますから、何とかなりますけど、お金がなかったら、家から出すしかないだろうなと思います。

これは世代間の変化と言わざる得ないところがあって、あまり信じたくないんですけど、やはり、自分自身のことを振り返ってみても、子どものために何もかも投げ打って、面倒をみれるか。子どもに殴られても、蹴られても、ちゃんと世話し続けられるかといったら、ちょっと無理です、みられませんと私自身でも言いたくなる。私だったら、「すぐ出ていってもらいます」と言ってしまうところがある。

そういうひ弱さと言っていいかどうか、まともさと言っていいかどうかわかりませんけど、少なくとも、我々世代は、何をされても自分の子どもだから、やさしくしてあげようという気持ちがなくなってきているわけです。

そうなると、働かない子どもを抱えるという家が弱体化していって、はっきり言えることは、そうなれば、ひきこもりも減るわけです。家に囲い込みできなくなるわけですから、丸抱えできなくなって、子どもは早く家から出なくてはいけないということになります。

必ずしも、追い出すとは限りません。ネットカフェ難民の話を聞いても追い出された人ばかりではないわけですよ。家庭環境が苛酷で居づらくなって、なんとなく出てしまって、そのまま帰れなくなったという人もいるわけです。

それを考えると、必ずしも親が厳しいから、親が無理に追い出したからとは言えない。子どもがそれを敏感に察知して、親が出ていって欲しがっているというのを意外と子どもはわかっていて、それで出てしまうということがあるんですね。

子どもが出ていかないのは、親が抱え込もうとしているのがわかるから家に留まるわけで、子どもを家から出そうと思えば、簡単で、親がそう決意してしまえば、子どもは出てしまうんですよ。子どもがその程度には敏感だというのは、大事なポイントだと思うんですけど。


□弱まった家庭の機能はどこへ行くのか


その意味では、これから家庭の機能がだんだんと弱まっていくのか、それがまともな方向なのかがこれからの状勢を知る上では大切かもしれません。

日本の家庭が子どもを抱え込む傾向があるのは、韓国も一緒で、韓国でもひきこもりは多くて、韓国の精神科によれば、30万人くらいいるそうですけれども、人口比で言ったら、丁度、日本に該当するくらいの割合なんですね。

韓国は、いわば戦時下ですから、たまたま休戦しているだけですから、徴兵制がある。20歳後の男性には二年間の兵役が義務づけられていますから、20歳くらいの男性は筋骨隆々で、実に逞しいんですけど、それでもひきこもってしまう。

ニート、ひきこもり対策として、国が奉仕活動の義務化とか、愚かしいことをまだ言ってますけれども、これが全く無効なことは、お隣の韓国がすでに証明済みというわけです。

むしろ、兵役が終わって、立て篭もられたら、大変なことになってしまうわけですよ。出てこないですからね。暴力的に抵抗しますから。

もっとも、韓国のひきこもりというのは、オンラインゲーム中毒になることが結構あるので、日本のひきこもりとはちょっと訳が違うところもあるのです。日本はオンラインゲームはあまり流行っていませんから、そういった違いがあるとは思います。

一番、共通しているのは、家庭が抱えてくれるということです。

なぜ、抱えられるか。母子密着があるからですね。母子の密着関係が強いから。では、なぜ、母子密着が成立するかというと、父親が疎外されているからですね。

父親疎外と母子密着という構図は、日韓共通の構図でありまして、私はこれは、儒教文化圏の遠い影響があると思っていますけれども、それはともかくとしても、日本では単身赴任という形態があるし、韓国は何があるかというと、母子留学という形態があるんです。

母と息子、娘がワンセットで留学してしまう。韓国では英語ができないとエリートになれませんから、中学生くらいから英語圏に留学して、それで英語をマスターしてくる。あちらの教授とかはみんな英語ができますが、日本の場合は英会話力が弱い人が多いらしいですが、韓国の教授クラスの人はみんなネイティブ並に英語がしゃべれるということがあります。

そういう意味で、父親はないがしろになっているわけです。母子留学されて、お父さんは一生懸命、留学費用を送り続けるわけですけれど、それは「鍵パパ」というらしく、あちらには、鍵パパのセルフヘルスグループがあるんですね。つまり、メンタルヘルス的に問題があるから。

それくらい母子密着が強いわけですが、それが終わったら、次に何がくるのか。それは、まだ、だれも見ていないわけです。

欧米型になるのか、しかし、それは難しい。欧米型というのは、家庭の基軸が母子密着じゃなくて、カップルになっているということです。カップルがきちんと成立していて、それで子どもはお客さま扱いという形式です。後から来たお客さまだから、大人になったら、どうぞ自分で一家を構えてくださいと言えるわけです。

でも、カップルに戻るとは言えないと思うし、なかなか、どういうふうになっていくかを予測することは難しいと思われます。

そういったことで言えば、家庭を支援、サポートすることがこれからは大事になってくるわけで、こういう会話術の、コミュニケーションスキルを家庭内で鍛えましょうみたいなものは、どういうものか?という話もあるんですが、そういう家庭の中に誤解があったりとか、まちがったコミュニケーションへのしがみつきが起こったりすると、断絶が深まったり、悲劇的な結末を迎えるということが起こりますので、そこに至る前に、対応しましょうというのは、ある意味必要です。

こういう深刻な事態では、こういう本、会話術からマスターしましょうというのもありなのかもしれませんね(会場笑)


□家庭を破綻へ導く、コントロール不全な社会


秀嶋 ちょっと、本の批評と宣伝をして結んでいただきましたが(笑)。家庭の問題を先生がおっしゃいっていて、ぼくもそう思います。まず、カップル型の家庭は日本人はとってもやりづらいだろうと思います。なれないだろうと思いますね。

じゃ、その先には何があるんだろうと言うと、ぼくはもっと破綻した状態になるんじゃないだろうかと思います(会場笑)

かつて、宮台真司が流動性ということを盛んに言っていた時期があるんですが、家庭においてすら、流動性が高まるということが起きているのではないかという気が、ぼくは、とてもしていて、個衆化、個というか、ネット難民になってしまうものもそういうことの現われで、家庭という家族の群れからも離れてしまう人々が増大して、個としての世界に閉じこもる、あるいは個としてのみ社会とつながろうという人々が増えているような気がしています。

で、夫婦は繋がるのかといえば、子どももいなくなり、夫婦だけで生きていけるかというと、それぞれの欲求も異なり、子どもを中心にした生活で、カップルとして生きてきた蓄積がないために、それもできないということが起きるだろうと思います。

みなさん、よくご存知のように、特にこの店の常連の人はよくご存知のように、すべての人が愛を疑っている時代ですから(笑)、愛を中心にして、カップリングを維持していくというのはとても難しい。

ですが、だからこそ、家庭が基盤であるということはとても大事です。だから、こういう本も出したわけですが、母子密着型になったり、お父さん不在型になったり、子どものプチ家出が当たり前になったりして、それに対する縛りがないというのはどうしてなのかということを少し考えてみたいのです。本には書けなかった社会的背景も考えて。

私がお世話になっているプロデューサーの方が、昔、少年野球の指導者をやっていたのですが、指導者を引退して、いまは、地域の後輩のお父さんがその後を継いで、指導に当たっているらしいのですが、指導者の悩みが変わって来ているらしいのです。

昔は、少年野球チームで野球の練習をして、昼の時間にかかれば、お茶の係りだとか、お弁当の係りだとかをお母さんたちが話し合って、役割分担で協力するということがあったわけです。

話を聞いて、おかしかったのですが、いつものように練習をして、後2時間、練習するはずだったのですが、雨が降ってきて、そこで練習を止めたそうなんですね。子どもたちを帰したんですね。ところが、そのコーチのところに親たちから電話がかかってきて、「なんで帰すんですか?」とクレームがあったそうなんです。

「後、2時間練習するはずだったでしょ。私にも都合があるのよ」という言い分です。つまり、少年野球が保育園化しているんですね。それを当たり前のように言っているわけです。

試合があったら、その後、打ち上げをやるというのが普通らしいのですが、そういうときも、お母さんたち同士で話し合いをして、食事を用意し、その費用を会費で割ったりとかしていたわけです。しかし、子どもの分の会費は払うけれど、自分の分は払わないということを平気でしてしまうそうなんですね。

そういうことが起こっていて、家庭→地域の結び付き&子どもを中心にして周囲の大人が繋がるという連帯や共同性がなくなってきているということが一つあると思うんです。

それは蛇足ですが、こうしたことが起きてしまうのは、コントロール不全になっている社会がいまぼくたちの前にはあると思うんですよ。

一つひとつ、つまびらかにしなくとも、たとえば、各省庁で不祥事があること、企業を始めとして、責任不在の事件、事故が起こること、それと政治のイニシアティブがないこと、つまり、コントロールがきかなくなっていることですね。


□不安が何をやっても許される社会を生む


これは、いまに始まったことではなくて、もう10年くらい前から、総体的に桶が笑う状態に私たちの社会がなっていて、しかし、それは、だれかが「桶が笑っている状態でいいじゃないか」と言い出して始めたわけではなくて、何とはなしに生まれている。

だけど、社会が緩んでいるなとわかっていて、みんなの中で、桶が笑って、基軸がないことを知っていて、だから、「何やってもいいじゃん」といった状態が、そこはかとない感覚で、社会全体に広がっていることが問題なんですね。

法制度だとか、秩序だとか、社会規範というのは、みんなの合意のもとに成り立っているわけです。社会的合意としてあるだけで、普段から箇条書きにして、成文化されたものを見て、そうしているわけではないわけです。なんとない、みんなの合意事項として共有し、その中で生きることで漠然と安心感をえている。

ところが、これは、ある意味、架空の合意なのですよ。想像として、みんなが共有しているものであって、実態としては法律の条文だったりするわけですけど、それを信じるか、信じないかは生活者たちの意識の問題なわけです。

じゃ、この合意のもととなっている、法制度をつくっている人間はいい加減じゃないのかとか、倫理や道徳を語る学校の教師は、いい加減じゃないのかといったら、小学校の担任の先生が女子児童の更衣のときに写メをとって、それをインターネットに公開しているとかがわかってきて、そうしたものが崩れてしまってことがわかると、「何やってもおかしくないじゃないか」ということが起こってくる。

桶が笑えば、何でもありの社会になって、その中でいろんな問題が起こってくるだろうと言えるわけです。

そういう状態になっていますから、なんとかそれを立て直さなくてはいけないということで、たとえば、そこまで意識はしていないけれど、バブル以後の破綻を社会制度を操ればなんとかなるかということで、小泉政権以降、新自由主義が導入されてきて、今日、雇用労働が専門の共同通信の川井さんもきてくれているけど、格差問題というのが生まれて、雇用労働の問題でも大変な時代になってしまったわけです。

しかし、これもやってみれば、今回の秋葉原事件の犯人が派遣労働だったとか、斎藤先生がおっしゃったニートの問題だとかを生んでいて、非正規雇用労働者が増えたことによって、社会生活の不安が、また、蔓延するということを招いてしまったわけです。

こうした人たちの中には、こう思う人が出てきますよね。桶が笑っている状態で、自分たち非正規雇用の人間が何かいったって形になるわけではない、ということで希望がなくなる。あるいは、悲観的になるということが当然、起こるわけです。

では、昔のように、規制緩和をせずに、日本的村社会的な談合モデルで物事進めていけるのか、既得権に縛られることが人々にとって幸せなことかどうかと考えれば、いかがなものかとなってくる。人々の幸せがどうかということより、特に世界経済に対応できないということがあるので、そういったことを排除するということになってくる。

そうすると、どこ行きゃいいんだ、どっち行けばいいんだとブレる。いまの私たちの社会というのはそういうところにきているんだと思うんですね。

護送船団方式でだめだ、新自由主義でもだめだと。アメリカでオバマが勝って、明らかにブッシュ政権とは違う政策に転換するということはわかっているわけですが、そうなっても、たとえば、日本の社会にオバマ的な夢や理想を語って、1ドル募金を集められるだけの政治家がいるのかと言えば、それはない。

そうなってくると、私たち自身はどこへ行けばいいのかというのがわからないので、当然、行政は何をやってくれるんだろう、政権は何をやってくれるんだろうと不安で、桶が緩んだ中で、いい加減であってもいいんじゃないかと思うし、報われないんだから、希望なき社会なんだからと、荒川駅沖や秋葉原のように、刹那的にもなってしまうということが起きていると思うんです。

そうした社会で、いくらシステムさわっても、あるいは制度をさわっても、基本的には何も変わらない。

それは、斎藤先生のご専門のひきこもりにしたって、ニートにしたって、家庭の意識変化、世代の変化で減少に向かえばいいけど、非社会へ導く要因がこのように社会にある限り、そう簡単に減少しないと思うし、非正規雇用が今後増大することはあっても、減少するということは考えられない。まして、昨今のような株価の状況ではですね。


3.解決へ向けた模索


□社会に新しい基軸を持つ


秀嶋 そうなってくると一体何が大事かというと、結局、「人間力」だけになってきちゃう。システムや制度をいじっても何も変わらない。だけど、それを突破しようとすると、後は、人間力になるんですが、家庭教育は崩壊し、学校における教育は崩壊し、企業内においても人材を育成する教育システムが、景気的な問題を含めて、成立しないような状態になってきていると、教育による人間力の回復によって、いまの社会問題を変えていくということができない。

そうなると、ますます崩壊の方へ向かっていくしかなくなってしまうわけです。

そういう社会の状況で、思春期の子どももそうですし、データで出ていますけど、非正規雇用でしか働けない子どもは、20歳〜24歳の間で、50%弱いるわけですね。増えているわけです。いまの思春期連中のその時代には、もっと増大すると予想できます。

みなさんも振り返ってもらいたいのだけど、20代の前半の頃って、一番、人生で夢を描きますよね。仮にそれが実現できなくとも、夢や希望を持つものですよ。しかし、そういうことが、もう半分くらいが持てないという状況になっているわけです。こうした社会になっていることに大きな問題があります。

そこのところを、個人の力では難しい部分もあるわけですが、制度を大きく変えていかないといけない面があるので、政治的に提案していかなければいけないことだろうとは思います。

同時に、社会がそういう状況だからと投げやりにならないで済むような、人間力を構築するような教育のあり方だとか、システムのあり方とかを見直す必要があると思います。

ぼくは、よく言いますが、談合は決して悪くないと思っている人間で、タクシーがこんなに増えて、タクシーの運転手が食えなくなっている方がはるかに問題だとよく言っているわけですが、日本的共同体社会のいい面というのは、確かにあるわけで、そこまで否定してしまって、果たして日本人は生きていけるのかと思うわけです。

先ほど、先生からお話があって、カップリングを中心にしたものに、日本の家庭が移行できるのかと考えて、なれないだろうなと思うのも、日本的共同体意識というのは、いかんせん、抜けがたく、我々の中にあるし、それを改革の中でやるなら、精神性は保持したまま考えていかないと、こういった問題を回復していくチャネルが見つからないのではないかと思うわけです。

だから、さっき、冒頭にちょっと言いましたけれど、酒鬼薔薇事件のときに、日本社会の弱さを痛烈に突いてきたというのは、私たちの社会に基軸となる何かというものがないからなんですよ。

たとえば、近代以前の日本にはあったんです。みんなが意識していたかはどうかは別にして、漠然として天皇というのがあったし、それは神であった。

ヨーロッパであれば、ギリシャの時代には土俗的な宗教神話というのがあったし、キリスト教が出てからは、カトリック教会がヨーロッパにおける基本的な基軸になるわけですね。で、アメリカはプロテスタンティズムが基本になるわけです。中東ではイスラームが基軸になっていた。

宗教的理念がしっかりある国においては、法においても、制度においても宗教的普遍性が現実に関与できるのですが、日本のように無宗教国家の場合には、何か一つ箍(たが)が崩れてしまったときに、揺り戻すための基軸がどこにもないんです。

そういったところで、いろいろな問題が起きると、社会が溶解する、とろけていくような状態に簡単になってしまう。

溶解してしまうと、それをどこに戻せばいいのかという道筋が見えないんですね。宗教だけが必要だといっているのではなくて、つまり、普遍的にみんなが合意できる何かがないということです。それを持たないと立て直すのはなかなか難しい。

じゃ、それに代わるものを何かつくるとなると、恣意的、意図的にやれば、それはいろいろ問題もあるわけです。

ぼくとか宮台さんは、天皇教の再利用というのが必要だといろいろなところで言ってますが、そういうことも含めて、どういうふうにすれば、基軸の取り方ができるかということを考える。


□アメリカ大統領選挙・デジタルネイティブの世界に学ぶ


今回のアメリカ合衆国の大統領選というのは、一つのヒントをくれていると思うのです。

オバマの選挙資金力は、募金によるものですが、それは、デジタルなネット空間の中で口コミ的に増殖したものだと言われていますし、選挙前にはだれも注目していなかったオバマがここまで人気を上げた背景には、彼を支持したデジタルネイティブの存在とそれを取り込んだ、オバマの戦略があったと言われています。

いまデジタル化の中で、デジタルネィティブの話が一部ささやかれていますけど、デジタルネィティブというのは、秋葉原の事件を起こすような携帯に依存した人間の巣窟でもあるけれども、一方においては、エイズ撲滅運動のために、デジタルネィティブの連中が連合して、ある日、ニューヨークで大規模なデモ行進をしたりできるわけすよ。

最近の例でいくと、京都のIT企業なんかが、かつてのIT企業と違って、上場しない。上場すると300億とか500億くらいの金が経営者個人に入ってくるわけだれど、しない。それよりか、ITを通じていろいろなネットワークをつくることによって、人を幸せにするための仕事がしたいという若い起業家も出てきているわけです。

デジタルネィティブというのは、そういう側面もあるわけで、そういう形の中で、新しい共同体をつくっていくというのは可能じゃないかとぼくは思っているわけです。

そういう取り組みを政治とか、地域とかが応援していくとか、あるいは、家庭の中とか、学校の中で、そうしたことを学習していくというか、そういうチャネルとして、デジタルが使えていくんだよと教えていくことで、日本的共同体のいい面を残していくことができるのではないかと思っているわけです。

村社会的な日本的共同体の悪い面というのは、同じ顔をしてて、血縁もあって、そういう人が有象無象集まっているから息苦しいわけです。じゃ、そこをなくして、たとえば、デジタルネィティブがやってるみたいに、まったく国が違う人だとか、海外とか地域の違う人たちとネットワークしていくことで、わずらわしさが少なくなるということがあるんです。

その辺のところをもう少しヒントにして、いま私たちの社会がやっている、秋葉原の加藤のように、ネットに絡みとられる、つまり、網の中で孤立して存在するようなあり方ではなく、あくまでも、他者と繋がるという意味でのネットワーク化がされていかないといけないだろうと思います。

そこでのコミュニケーション能力は問われるでしょうが、その辺は私のこの本の会話術で学んでいただければと思いますが(笑)、斎藤先生はこの考えをどう思われますか?


□日本におけるデジタル共同体の難しさ


斎藤 あまりナーナーだと思われるといけないので、主に異論の方をお話した方がいいと思いますが、まず、デジタルの方なんですが、私は、それは期待が難しいかなと思います。

というのは、デジタル上の共同体というのは、日本では難しいからです。日本のデジタルサービスというのは非常に特殊らしいんですよね。

たとえば、SNSサービスであるとか、2ちゃんねるのような匿名性の掲示板であるとか、あるいはニコニコ動画というリアルタイムで書き込みができる、動画サイトとかが受けたりしていますが、こういう現象は、どうも日本特有のものらしいんです。

つまり、匿名で参加して、盛り上がることは、とてもうまいんだれども、名前を出して何かを主張したりするのが苦手で、名前を出さないというのは、つまり、関係を持たないということです。関係はもたずに、主張だけはしたいというのが特徴です。そういう傾向が強くて、それが果たして、共同体形成に結び付けるのかなという懸念がちょっとある。

たとえば、「セカンドライフ」というバーチャルコミュニティがあって、アメリカ、ヨーロッパではすごく流行ったわけですけども、日本では、いまいち、うまくいかない。「セカンドライフ」でいえば、いわゆるリアルライフ、つまり、我々の日常生活とそんなに変わらない世界を構築して、その中で人生を生きるという遊び方なんですね。

それが、いまひとつ、そのおもしさみたいなものが、普及しないという面がある。

じゃ、オンラインゲームならいいかというと、オンラインゲームもいまいちなんですよね。オンラインゲーム、確かに、少しずつ浸透していますけど、中国や韓国みたいには流行っていない。なにしろ、あっちでは、夢中になり過ぎて、死人が出ていますから。

韓国でオンラインゲームが流行っていたのは、おそらく、私の推測ですけど、開発費用がなくて、アーケードゲームができないからなんです。オンラインゲームというのはソフトが一つあれば、それをつなぐだけでやれる。

向こうのゲーセンいって驚いたのは、向こうのゲーセンにはパソコンがあるんです。日本にはアーケードゲームのりっぱな機械がありますけど、韓国はパソコン置きっぱなし。ひどいところはプレステが置いてあったりする(会場笑)。これはないだろうと。

これは、ま、経済的な問題だと思うんです。だから、そういうものを開発する余裕がないので、一番効率がいいのはオンラインゲームなわけで、ソフトがあれば、各家庭にパソコンがあればそれでいいわけですから。だから、ネットカフェで夢中にやる奴が増えてもいるわけです。

オンラインゲームは全世界の人と楽しめるのが売りなわけじゃないですか? ここにいて、それこそ、どこかの片田舎の、オハイオ州のどっかの人と一緒にゲームができればおもしろい。普通、そう考えるのだけれど、そのようには考えないんですね。

韓国のゲーセンにいったら、仲間でつるんでやってきて、それぞれのパソコンに向かって、仲間でゲームやっているんですよ。それなら、別にわざわざここにこなくてもいいじゃないかと思うんだけれど、それが楽しみなんでしょうね。顔の見える奴とやるというのが売りなんでしょう。

つまり、デジタルといっても、日常において関係性がある人間との間で展開するのが一番強い。携帯もそうですよね。携帯のプロフとかいっても、結局は、日常で知り合っている人とコミュニケーションするためのツールであって、日常の関係を上書きするためのツールとして使われているわけで、バーチャルな出会いになると途端に弱くなってしまうというのがあります。

特に日本の場合は顕著で、つまり、すでにあるコミュニティに参加できている人はデジタルにも強いけれども、それに参加できていない人には、デジタルというのは無味乾燥で、おもしろくないものになってしまう可能性があって、関係性を上書きできる人とできない人がいるというところが、分岐点になってしまうところがあると思うんです。

この辺のところをどう解消してくれるのか。もし、その答えが出てくれば、デジタルの中にも出会いの機会も生まれてくる。

ただ、私も、以前は、ひきこもっている人はネットやったりとか、ネットで人と知り合ったりすればいいのにと思っていましたけども、やはり、日常生活において関係性を維持する意欲とか、エネルギーがない人は、そういう意欲が、まず最初からないんです。それができるというのは、日常性においてもアクティブで、他人と関係性のある人なんですね。

なので、ひきこもり、ニートの救済としてのバーチャルというのは、非常に難しいところがある。これをどう乗り越えて行くかというのが課題と言っていいと思うんです。

ちょっと違う話をすると、統合失調症というのがありますよね。昔、精神分裂病と言いましたけれど。こういう人たちというのは、バーチャルメディアが、結構、救いになっているんです。バーチャルな空間では、受け入れられたりとか、没頭したりとか、没頭しているうちは、あまり、変な妄想とかになったりしない。

バーチャルというのは、その意味でおもしろい。あまり、妄想が出てきにくい。日常生活の中では、妄想的なことを言ってる人がバーチャル世界ではそれなりに過ごすことができる。治療とは言わないけれど、進行性の病であるんですが、それをある程度、抑止する効果はあるのかなと思ったりします。

それは余談ですが、バーチャルコミュニティに話を戻しますと、生身性が保証されない中で、我々がどの程度コミュニティを形成しうるのかというのは、かなり難しい問題ですね。


□世間体という宗教


もうひとつは、秀嶋さんが宗教なき民族の問題として、指摘されている点は同意できるんです。

しかし、規範はないのかというと、結構、強力な規範があるのではないかというのが私の問題意識なんですね。

これは、何かというと世間体です。世間というのは、ものすごい強力な規範で、宗教の代わりになっていると思います。世間というものの縛りは、ものすごく強くて、メディアも巻き込んできていますから。

世間の力を意識するのは、どういう瞬間かと言うと、イラクに行って人質になってしまった、三人の若者へのバッシングですね。こういったときの世間の力には、ものすごい結束力を感じましたね。みんな同じことを言うわけです。自作自演とか、みんな一斉に同じことを言うんで、びっくりしましたけどね。

世間というのは宗教なんだなと思いましたね。

もう一つ、世間の力を感じたのは、亀田三兄弟のときですね。そもそも、こういう連中が何で大衆に支持されるんだろうと思ったんですが、世間というのは、基本的には家族主義なんです。家族愛があると世間というのは、もうすっかり籠絡されてしまうところがあって、亀田みたいなヒールを売りにしている連中でも、実は、父と息子の絆は深いと言われちゃうと、あっさりとやられてしまって、熱く支持したりする人が出てくるわけです。

通常の価値観とは違う軸で世間というのは動いているなと感じるところがあって、それが、私は、世間というのは家族主義的なところだと思っていて、それは、あと、100年くらいは変わらないだろうなと思うんですね。そういった点では、世間に支えられて、日本の家族主義というのは生き延びていく可能性があると、ちょっと思っているかもしれないところがあります。

これは、希望とも言えない希望みたいなものですけれども、そうしたことを感じるところがあるんですよね(笑)。

だから、世間というのは、あまりに強力な規範なので、ここに宗教が入ってくる部分は、かなり小さいと言わざるえないと思うんです。

もう一つあるのは、オウム以降の流れですね。カルトに対しては潰滅的な影響があったと思いますね。その代わり、いまは、オカルトなんですよ。カルトからオカルトなんですね。江原某みたいな。

ああいうオカルト的なものが受け入れられて、日々の生活の基軸を占いに頼ってしまうとか。前世に頼ってしまうとか。霊に頼ってしまうとか。でも、霊を絶対視しているわけでもないんです。風水をちょっとやるみたいな、そういうニュアンスでオカルト頼みになってしまう。

オカルトというのは、そのように全面的に没頭しなくても、生活の基軸を模索する点では、世間体の論理と結構、噛み合いやすいところがあるのかなと思うんですね。

だから、大きな軸はないんだけれも、理性的秩序といって、アノミーに耐えられる人はいないわけです。アノミーに耐えられないから、何かがしかの価値基準に頼る。それが、いま、たまたま、事後的、自生的秩序として登場する世間体とか、オカルトとかが、結構、強い力を持っていて、基軸がないのに、人々がこんな不自由な思いをしているというのは、そういう空気感というか、閉塞感とか、そういったものの縛りがすごいからだと思うんです。

一回、風穴を開けるとしても、オバマ的な盛り上げを求めるとしても、世間というものがある限りは、たぶん、かなり無理があるんではないかと思うんです。

我々のリーダーを見るにつけ、オバマとの差に愕然とせざる得ない今日この頃ではありますけれども(会場笑)。やっぱり、人々が支持してしまったわけですから(会場笑)。その付を払っていかなくてはいけないだろうなと気がしておるわけですけれども(会場笑)。


□目的意識、生き方の共感による新しいデジタルネットワーク


秀嶋 私も後半のとこは、同感です(笑)。先生がせっかく、盛り上げるために異論を言っていただいたので、これに対する私の考えを申し上げると、もちろん、デジタルネィティブ、デジタルネットワークの中で、いわゆる理想的共同体をつくるということは、日本人にはなかなか難しいということ、匿名性の中でしか主張てきないという点はご指摘の通りだと思います。

京都でIT企業やってる30代の社長とか、エイズの撲滅運動やってる若い連中を見て、ぼくがおもしろいと思っている理由は、おそらく、デジタルネイティブの悲観的な部分ではなくて、ぼくらの想像のつかない彼らの時代、いまの20代の連中とかですね、もちろん、ニートとかではなくて、比較的いい条件の中で、デジタルにふれられる世代、人たちですね、その彼らの良心的な取り組みというのは期待したいなと、願望的に思っているからなんですね。

彼らがやっている中で、とてもすばらしいのは、先生が言った、匿名性の中でというのは、匿名でなければできないネットワークの中にいたいということなので、ある意味、逃げ込みであったり、その中での暇つぶしであったり、シック的な、病的な執着であったりするわけですが、デジタルネットを使ってつながっている奴というのは、目的を持っているということなんですよ。

こういう目的をみんなで共有しようということで、まず、テーゼを出しているということですね。趣意があるということですね。それはイデオロギーとか、つまり、政治的なイデオロギーではなくて、「こういうふうに生きていった方が気持ちいいじゃん」ていうものなんですね。

簡単に言えば、車やめて、自転車のっちゃおうぜとか。いま若い世代が車を買わなくなっていますけど、もちろん、そこには経済的な理由というのもあるけれども、大手の自動車会社なんかだと1年間に50人もの自殺者を出している会社があるんですね。兆の付く利益を出している会社が50人もの自殺者を出して、命を犠牲にして成り立っている。それを知ったときに、じゃ、その会社の車は買わないんだという主張もあるわけなんですよ。

そういったことは、個人のささいな感情で終わることかもしれないけれど、要は、自分が、よりよく生きるために、じゃ、自転車にしようとかいう感覚を意識するってことなんですね。それをなんとなく、ネットワークの中で未知なだれかに伝えていく。別に環境問題とかを意識してとかではなくても、かっこいいから自転車にしようとかですね。

そういうレベルのことが、実は、すてきなんですよ。それがまた、博報堂とか電通のロハスとかいう言葉で、マーケティングの操り人形になってしまうのも好きではありませんが(笑)、そういった生き方がしたいといったときに、質感のある、手ざわりのあるもので、自由に生きていくというのは楽しいじゃないかというふうに考えられるようなネットワークの中に入っていくと、そこでは匿名性でなくていいわけですね。

というか、匿名だとできないわけですよ。そういうことがとても必要だと思います。

卑近な例で言うと、ここのオーナーのY君というのがいるんですが、人が集まっても盛り上がらないようなときに、呼び出しがあるんですね。私以外に、年下ですけど、ハマちゃんというのとイガちゃんというのがいて、盛り上げ役として駆り出されるわけです。

それで何だろうと思っていくと、インターネット上でのきちんとした審査もある出会い系のSNSのオフ会なんですね。

ネットにいる連中だから盛り上がらないだろうからと盛り上げ役で呼ばれて、それで、私は必死で盛り上げたんですが、そこで、とりあえず、わっと、「かんぱーい!」ってやって、その後は、それぞれ話で盛り上がるだろうなと思っていると、その後、「シーン」なんですよ(会場笑)。

「男は何やっとんじゃ!」と腹の中では思ったんですが、それだけコミュニケーション能力が低い、弱者なのかもしれませんけども、そういう連中ではなくて、目的意識、生き方としてどうあるべきかということを考えて、つながりを持ってくれるといいかなと思うんですね。


□世間という宗教性の背後にある天皇制への依存


それと、もう一つは、世間体のことを皮肉たっぷりに、斎藤先生からご紹介いただきましたけれども、確かにそれは強い。しかし、世間というものの力が強いというのを逆打ちしてできないかなと思っていることがあって、みなさんご存知のように、日本人というのは、天皇家の報道にすごく弱いんです。

「皇室アルバム」という番組が、昔あって、いまフジテレビが時々特集でやるくらいしかないですけど、雅子さまがこうしました、愛子さまがこうしましたというとすごく視聴率が上がるわけです。どこかに外遊されているとか、内遊されているときに、道行く人が「愛子ちゃーん」とかいって、おばさんは自分の孫のように声をかけるということがあるわけです。

これ、さっき先生が言った、家族主義と世間が一緒になってるいる話に象徴的で、日本人は天皇制をみながら、家族をつくってきた過程があるんですね。精神性の部分で。昔、よく田舎の家にいくと、おじいちゃんとおばあちゃんの写真が仏壇の上とか、鴨居の上とかに飾ってあるわけですよ。そのおじいちゃん、おばあちゃんが天皇、皇后の代替であったりしたわけです。

天皇制がそういう使い方をされてきたという過程があって、その中で、おじいちゃんが見てるから恥かしいよとか、こういうことしちゃいけないよねとか、いわゆる、当り前のしつけとかが成立したいうことがあるわけです。

私は大嫌いですが、TBSの『渡る世間は鬼ばかり』という番組がありますけど、私の嫌いな橋田寿賀子という作家が書いているわけですけれども、あれが、日本を悪くしていると私は思っていますが、しかし、高視聴率をとっているわけです。

なぜ、そうかというと、それは、家族のドラマで、ありがちな嫁姑の問題だとか、夫婦の問題、親子の問題をありえないほど、家族が延々と議論したりするわけなのですが、あの空気感というのは、かつて天皇を見ながら家族を形成してきた日本特有の家族関係を描いていて、それがぼくはイヤなんですけど、それが高い視聴率をとるくらい、まだ、日本人の中にそうした価値観が温存されている。

その間隙をぬって、世間が人々の基軸となるなら、それはそれでいいじゃないですかと逆手にとって、意識形成を変えていくことはできないかと思っているわけです。

いま、先生からイラクでの拉致事件でのパッシングの話が出ましたが、私の仕事で関係している東映では、ついこの間、『相棒』という映画が公開されたんですが、普段、東映の映画作品やテレビの2時間ドラマを非難している私を知る、周囲の人には仰天動地だったのですが、絶賛したわけです。

それは、なぜかというと、あの作品は、イラクで斬首された香田君の事件を作品の中心にすえて、あのとき、ものすごいパッシングが起きて、一人で危険地帯にフラフラいった香田君が悪いという報道やパッシングが世間を覆ったわけです。その世間に対する復讐としてのテロを描いていたんです。

それでいながら、観客動員もできていて、復讐を決意する父親に、あれだけ香田君事件のときはパッシングしていた大衆が同情と共感を寄せているわけです。つまり、復讐する父親の家族主義を利用しながら、作品の中で、こんな世間っておかしいだろうと世間の基軸を否定し、同時に、世間の基軸に頼ってる社会や国のあり方、大衆心理を痛烈に批評していたからなんですね。作り手がそこまで意識していたかどうかは別にして、ぼくにはそう読めた。

ですから、世間という基準をかしこく使っていくということができればいいなと、私なんかは先生の話を聞いて思いましたね。


□天皇への求心性の喪失


斎藤 天皇の求心性というか、宮台さんが一生懸命盛り上げようと活動されて、宮台さんの中で一番評判の悪い活動は何かというと、この問題で(会場笑)。動員しようとして失敗したわけですから。

やっぱり、無理があると思うんです。若い世代に対する天皇制のアピール性というのは、はるかに低くなってきていて、我々世代ほども訴求性がないというか、ただ単にかわいそうな人たちになってしまっているわけで、だれもあの立場に成りたいとは思わないという、気の毒な人々になってしまっているのではないかという懸念が大変あります。

知れば知るほど、ああはなりたくないわと思ってしまうわけで、公務がみっちり詰まっていて、その間隙をぬって、わけのわからん宮室祭事を務められて、しかも、その宮室祭事が伝統における根拠が乏しかったりする。ゴジップのネタにされるようなこともあるわけで、非常に苛酷な環境の中で、厳しい、ストレスッフルな中、がんばっておられるところがあると思うんです。

突然、話が変わるようですけれでも、昨今の医療崩壊とか見ていましても、ある意味、権威的なものに対する被害感みなたいものが高まってきていて、権威ある人を敬って、その分の何か責務を要求する。イヤな部分を担ってくれているのだというところがすっかりなくなってしまっていて、責務だけを要求するということが、あらゆる面でそういう傾向が出てきていると思うんです。だから、雅子妃バッシングもそういう責務を要求して、それに応えてもらえないという大衆のストレスを感じます。

彼女の場合は、病んでくれたおかけで、皇室への注目度が上がったというが言えるわけで、これはバッシングだけでは済まないことがあるんではないかということを感じますしね。

天皇家が家族を象徴するとおっしゃいましたけど、雅子さんの病状というのは、特に若い人たちに広がっているうつ病の症状を代表しているようなところがありますから、そういう啓蒙として役立ってくれてもいいじゃないかと思ったりもするですけど、なかなか医師団が病状を説明してくれてないんで、いまだに誤解が蔓延しているし、いまなんか、ほんとの病名を知っている医者が出てきたりしていますけれども(会場笑)、そういう怪しげな人も含めて、いろんな意見が飛び交っている状況で、大変、困った状況になっているという感じがするんですが。

そういったことも含めて、象徴的な存在になっているというのは、大変、お気の毒なことであろうかなと思います。これは、海外に逃避して、半年くらい過ごしてもらうしかないかなあと思うんですけれども、皇室典範があるので、なかなかそれは難しいということがあると思うんです。


□求心力、連帯の困難さ


ですから、求心性、価値観を主張するのは、難しい状況になってきていて、これはもっと言えば、敵の不在ということが大きいと思うんですね。やっぱり、敵と思われるものの存在があるから、人々はまとまることができるわけで、いまのようにいろいろな害悪がシステムの問題と見なされる世の中では、システムというのは人格がありませんから、敵というのは、人格がないと、やっぱり、敵対できないんですよね。

システムというのは人格がないので、システムが悪いと言っても、人々がそれでまとまるというのはなかなか難しいと思います。権力も、権力者がいるというよりも、環境管理型権力にどんどんなってきている。

みんなが統制化に置かれるような、環境のアーキテクチャーができてしまって、その中で、みんな同じようにコントロールされるという状況になってくると、「まあ、同じだからいいじゃん」みたいな感じになってしまって、本当は敵になるかもしれないんだけれど、みんな平等にコントロールされるなら、それもありだなと。「楽でいいじゃん」というところに慣らされていくみたいなところがあって、こういうものといかに対峙していくかというのが大きな問題で、最強の敵と言ってもいい。

つまり、敵対しようとしても、連帯できないわけです。だって、便利に思っている人がいるんだから。たとえば、みなさん、アマゾンなんかで買い物すると思うんですけども、あれも一種、不気味なわけで、ボーっとしてると、ある日、お薦め商品とか勝手に送ってくるわけですよ(会場笑)。

イヤだと思うけれども、便利だからいいと思う人もいるわけだし、イヤだと思わないところを突いてくるところがあって、しかも、利便性が高い。Googleだって、そのうち何するかわからないけれども、ストリート系なんてものは、結構、便利なんですよね。目的地に行くとき、この会場にくるときだって、すごく役に立つ(会場笑)。どんどん、見ちゃうんですね(会場笑)。

この便利さと引き換えに、プライバシーを売り渡していることを考えると、敵もどんどん巧妙になってきているわけで、もはや、Googleけしからんというのが、野暮ったい言葉になってきてしまているというのが一部あるわけです。

「いや、そんなこと言ったって、便利だから、みんなで使えばいいし」と、別に人々をコントロールするような求心的な人物がいるわけじゃないということがポイントになっているわけです。

人格化されない権力に対する意識みたいなものは、持ち続ける必要はある。ただ、それは、やっぱり、個々で持っていくしかないもので、強い連帯になかなかつながらないという難しさはありますよね。

だから、どうやって、連帯意識を生み出していくかということが難しい問題で、若い世代の連帯というのが、いま、かろうじて、ニート、あるいは、プレカリアートみたいな、雨宮処凛さんがやっているような不安定就労者を中心としたまとまりみたいなものが、一部、生まれつつあるというところもあるんですけれども、いま、難しいのは、そういうことやっていると、当事者は、まさにそれに対して、突っ込み入れるわけですよ。

やれ、新実存主義はかっこいいねと揶揄するみたいなことになって、それで、また総崩れになってしまって、後ろから撃つ人がたくさんいる世の中で(会場笑)、闘い続けるというのは難しいことだなという感じなんですけれども。

そこで、強力な敵がいるから連帯できる、それから、宗教的なものがあれば連帯できる、宗教じゃなくても、天皇的な求心的な人がいれば連帯できるというのが、全部、ダメなんですよね。全部、ダメなところで、連帯するのがいいのか悪いのかもわかりにくい状況があったりするんだけれども、ぼくとしては、若い世代が連帯から活力を導き出して欲しいとは思っているわけです。

70年代のシラケ世代からずっと、お気楽モードに入ったまま、若者というのは、一回も日本社会で元気になってないんですよ。基本的には、お気楽モード、アパシーモード。非社会的行動に入ったままですね。一回も反動が起こってない。特徴的な反動はあるんだけども、みんな潰されてしまうということがあって、全体に波及しないんですよ。そういったことは、ちょっと寂しさを禁じえないんですが、連帯はどうしたらいいんでしょうか? 会場のみなさんの教えを受けたいです(会場笑)。


□日常の中でつながりをつくる


秀嶋 非常に難しい問題です。私は、斎藤先生よりちょっと上で、宮崎学さんなんかよりちょっと下という世代なので、非常によくわかるんですね。

全共闘の活動をまじかに見て、新左翼、過激派と言われる時代に、ぼくらは無理やり投げ込まれというのがあって、さっき、団塊世代の犯罪件数の多さを斎藤さんが指摘されましたけれど、ほんとにどうしようもない奴らがたくさんいるので、ここにこられている方の中でも、団塊世代に苦しめられている方がたくさんいるのではないかと思うわけです。

頭、柔らかそうにしていて、頭、固いし、新しいことが好きなようで、保守的であるし、革新的でありながら、実は、すごく反動的であるという、どうしようもない世代とそうではない世代とを見ているので、団結とか、連帯とかいったときに、若干の留保を持つのは、ぼくもあるんですが、ただ、そうしないとできないことがいっぱいあるなというのがあって、斎藤先生はおわかりだと思うんですけど、個々の力の中でできれば一番いいんですけど、実際にはできない。

たとえば、2年前に格差の映画をつくらせていただいて、いまでこそ、官公庁にデモ隊が集まるということが起きていますが、そのときは、まだ、なくて、当時は、「何でデモしないんだよ」ということを、私は取材しながら、ずっと思っていたんですね。これだけ人権を蹂躙されていながら、その苦しみに耐えているのに、連帯しないんですね。

それが最近になって、それなりに組織化されるようになって、その組織化のあり方がそれでいいのかどうかという問題もあるとは思いますが、少なくとも何がしか、集団で権利を主張するようになって、それによって、内実はないですが、派遣法が変わったり、労働法がちょっとさわられたりということがあるので、全く前進しないよりは、ましかなと思うわけです。

ただ、今回、問題になっているニートだとか、ひきこもりの世代の人たちに対して、意欲的な連帯のしくみというのは、悲観的な意見で申し訳ないですが、ちょっと難しいなと思うし、彼らが納得できるような連帯のあり方というのが出てくるのかというと、今後、その可能性は薄いのではないかという気がします。

私のような映画をつくっているような人間から言わせると、「天岩戸」をやっちゃった方が早いと(笑)。天岩戸というのは、何かというと、楽しいことをやってみせるということで、「オレたちは、恥も外聞もなく、こんなに楽しいぞ」と見せるということなんですね。天岩戸というのは、要はストリップショーをやっていたわけで、みんなが「わぁ〜。おもしろい!」と騒いでいると、なんか閉じこもっていた人がおもむろに天岩戸を開けて、太陽が戻ったみたいなことになる話なんですね(笑)。

冗談みたいに言ってますが、そういうことをいろなんところでやっていくのが大事かなと思っているわけです。それは地域のお祭りでもいいし、デジタルネットワークの中で、ちゃんとした目的を持ってやれる集まりがあって、それがとても楽しいぞというものをアピールしていくというか、つくっていくということをやっていく必要があるのではないかと思います。

社会全体が総体としてそれがやれる、やっていくという方法ではなくて、分散でよいので、それをやっていくことでしか、糸口はみつからないんじゃないかと思うわけです。

だから、こういう少人数の集まりをやっているのもそうなんですが、「ちょっとお話をしますよ」と言ったときに、「ああそれなら、いってみようか」と集まってくれる人たちのつながりみたいなことだったり、そうしたことを一つひとつ大事にしていくしか、解決の道はないかなと思います。

もう一つは、この本もそうした趣旨で書いていて、斎藤先生にもお言葉をいただいたんですが、結局、「一人一殺」というね(笑)。天誅組ではないですが、一人一殺的なことをやっていくしか、とりあえずはないんじゃないかなと思っているわけですね。加藤のような人をつくらないために、こういう生き方のモデルを考えているだとか、こういう価値の体系を持っているとかですね、そういうことを一人に伝えることが必要だろうと思ってます。

ただ、希望的には、斎藤先生からご批判、ご指摘を受けておりますけれども、基本的には、個人的に三島由紀夫ファンだったりすので(笑)。天皇教、宗教的理念に基づく基軸があればなというのは常に願っています。しかし、私が天皇制の問題を言うのは政治的とかではなく、また、宮台さんとも、少し違っていて、宮台さんは社会学者としての立場で言ってると思いますが、私の場合は、もう少し、文学的といいますか、三島が古典的秩序に美を求めたように、そういう統制のとれた、三島の文体に見られるような美しさを見て見たいと思っているのです。

そう言う、擬似的なものが、この国にあったら、いまよりはるかにビューティフルだなと思っています。誤解のないように、付け加えておきますけど、「楯ノ会」をつくると言っているのではなくて、いま流行っていますけど、江戸のいろいろなしぐさとその心の部分を書いた本が売れていますけど、席がちょっと空いていたら、詰めて席をつくるとか、困ったいた人がいたら手を貸すとかですね、そういう当たり前のことですね。当たり前のことを成立させる、日本人的倫理観、あるいは美意識みたいなものを、何かうまく再生できればなと思っているわけです。


4.質問とまとめ


秀嶋 ちょっと、時間も迫ってきてしまいましたので、終わりたいと思うのですが、今日は、みなさんに斎藤先生と私のだべり場を見ていただくということもあったですが、いままでの話の中で、これ聞いときたいとかですね、全く別に、斎藤先生は文芸評論家でもありますが、精神科医でもありますので、私、こんなことで悩んでますというのでもいいので(笑)、何かご質問があったら…。

男性 仕事の中でクレーマーに悩まされているのですが…

斎藤 クレーマーというのは、カウンセリングして欲しいんだと、ぼくは思うようにしていますけどね。寂しさとか、孤立感が、たまたま、そういう形で噴出してきているという理解で向き合って、時間がある限り、話に付き合うとか、話を聞くとか、それ以外に手はないんじゃないかなという感じですね。それによる自分の疲れはどうするかというとうまく気持ちを切り替えるとかしか私もないので、それについては、私も同じように悩んでいるということで理解いただければと思います(会場笑)。

男性 私の回りでもひきこもりの家庭の親の方がいるのですが、家の外のときと中でひきこもりをしている子どもと接しているときの態度が違うようなのですが…

斎藤 ひきこもりの問題で一番必要なのは、当事者支援よりも家族支援だと思うんですね。家族をサポートすることでなんとかするしかない問題だと事実上考えていますし、本人は後から支援を求めてやってきたりしますけど、本人がやってくる時点でかなり達成されていますので、まずは、家族を支援するしかないというのが基本的な考え方です。

家族を支援するときは、家族を批判しても始まらないし、むしろ、家族の苦労を労いながら、取り組むというのが大事です。家と外との態度が変わるというのは、家での対応が不適切なわけすよ。本人にかなり、ストレスッフルな対応をするかもしれないわけですから、こういう本などを通じて、コミュニケーションのあり様みたいなものをちょっと見直していただくとか、本人との会話が成立しないとかの状況が一般的になっているわけですから、そういう状況を変えていくための道へ誘導してもらう必要があります。

コミュニケーションというのは、実は本人も求めているところがあるので、表面的には拒否していても、粘り強く話しかけることで、だんだんと会話が出てくるというようなことがあるわけです。要するに、親の心が折れてしまわないように、回りがサポートするとか、そういう親同士で家族会ですね、集まりを開いたりとかして、支え合うというにもあるでしょし、そういった意味で、団体の力というのは大きいと思いますね。

秀嶋 そろそろまとめに入りたいんですが、いまクレーマーについての質問がありましたけれど、ぼくのHPの「OUT」というコーナーで増大するクレーマーについて取り上げたことがあります。また、次の質問の要因になっているのは、世間体に縛られて、同調圧力が強い家族がいるので、内と外の顔が違っているということだろうと思います。また、自己中の代償としてのモンスター・ペアレンツも増えているだろうと思います。

が、やはり、とらえ方の視点を、この辺でもう変えていったらどうかなと思うんですね。この本の提案でもそうだし、今日、斎藤先生と天皇制を含めていろいろな話をしましたが、一番重要なのはそこじゃないかなと思ってるんですね。

斎藤先生とは付き合いが長いので、いろなんな話を聞いていて、先生と仕事をしていているときには、自分の子どもとの付き合い方を考えさせられたこともあるんですよ。いま、斎藤先生からもあったように、視点の取り方っていうのはどういうことかというと、結局、いまみんな寂しいんですよ。ストレスも多い、仕事もうまくいかない、人間関係も昔のように緩やかではない。タイトになってきていて、しかし、そうしないと生きられないとか、生活が安定しないとか、あるいは、生活が安定しないがゆえに、家庭が荒れるとかいうことが起きているんですね。

前回の宮台さんとのシンポジウムでも話ましたが、足立区、葛飾区、北区とかだと、小中学校の世帯の半数近くが生活保護世帯、就学援助を受けているとか、地方と都市の格差どころではなくて、東京の中で格差が厳然としてあるわけで、そういったところにいけば、当然、教師もギスギスしちゃうし、どうしていいかわらかない状態に陥るわけです。いまの文科省の方針というのでいけば、教師の就労条件というのはとても厳しいわけで、いじめについても、子ども同士のいじめばかり問題になっていますけど、教師へのいじめもあるわけですから、教師がいじめにあって、うつ病になるとか、ごそごそいるわけすよ。

それくらい、だれかを傷つけないといられないような社会になっていて、それに向かうときに、「一々、ムカついていてもしょうがねぇじゃん」という視点が必要かなと、ぼくは思うんですね。だから、もうちよっと違う視点に立って、みんな寂しいんだと、みんなつらいんだと、だったら、そのつらさを表現しているルートを、ナイフを隠し持っていたとか、はたから見るとクレームとは言えないような、何かクレームを言ってきたとか、それが尋常じゃないといったときに、目先の言葉とか、表情にとらわれれば、腹も立つし、殴り返そうかなと思いますし、いろんなこと思うけでも、「これは寂しいから、つらいからそうしてるんだ」。オレもそうだ。本来の自分もそうだと。だったら、つらいものだけをぶつけるんじゃなくて、その背景にある気持ちで共感できないだろうかというふうに、視点を変えていかないと今後の生活の中の問題というのは解決の糸口が見えてこないんじゃないかと思うんですね。

以前、斎藤先生と仕事をしたときに、先生が診療中で、隣の部屋で、待っていたんですね。すると、ま、わがままな患者さんなわけです。しかし、先生は、いつものように、顔の表情を変えず、この鼻にかかった声で、「うむ、うむ」と話に付き合っていて、すごい仕事だなと思ったことがあるんですね。とても自分には、こんな仕事はできないと(会場笑)。

そういう気持ちですね。忍耐づよく、痛みを聞き、共有するという。しかし、それは宗教的な達観しているとかいうレベルはなくていいと思うんですね。意図的に、そういう演技をする。していくっていうことが、大事なんじゃないかなと。そういうようなことから始めていくと、形からでもいいから。ぼくは演出をやっていて、役者にも言うのですが、とりあえず、形だけやっていくと気持ちが入ってくるんですよ。

形だけなぞっていくと、それに気持ちがだんだん付いてくる。そういうふうな取り組みの仕方を日常的に起こる問題に関しては考えていくしかない時代にきてしまっているのではないかなと思います。

斎藤 秀嶋さんが形の話をされましたので、私は、あえて内面の話をしようと思いますけど、私たちとって、祈ることというのは、結構、大事なことなんですよね。祈りとは言っても、宗教的な祈りとは限らないわけで、たとえば、私が尊敬する精神科医で、中井久夫と言う精神科医がいます。

精神科医はよく、オカルトが好きな人がいるんすけれども、この人はオカルトはあまり関係ない。

これは、余談ですけど、「医は仁術」って、よく言いますよね。この言葉の意味は、医は算術じゃないという意味じゃないんですよね。医術というのは、オカルトではありませんよという意味なんです。オカルトとは違う体系で動いています。ただ、完全に科学と言えないところもあって、薬の効き目なんか考えてもブラシーボ効果というのがありますよね、偽役効果と言います。飲んだ気になったら、治っちゃったみたいなことです。

そういう世界が医学の中に厳然としてあるので、たとえば、がんにサメの軟骨エキスがどうのってありますけど、治ればいいやっていうのがあるので、けしからん金儲け主義のものだと言いつつも、一部、それで治る人がいれば、それもありじゃないというところで、医学は動いているところがある。

中井さんの話に戻しますと、中井さんというのは、理論家でもあるのですけど、たとえば、精神科の薬というのは、出すときに、何とか利きますようにと思って出すときに利きますよみたいなことを言うんですよ。でも、これは私は、あると思うんです。

やっぱり、そういう気持ちの問題というのは、精神療法では、いろんなところに反映しますので、無意識的なところで、何か作用しているようなところがあるかもしれない。必ずしも、何かテレパシー的なことだとか、オカルト的なことを介さなくても、この祈りの持つ力というのは、結構、あるように思うわけです。

いまは、なかなか、射程の長い啓蒙とか、布教とか、説得とかは難しい状況になっていますけど、形から入るというのは、そういった意味で、短いストロークで生活の結果を残していこうという、言ってみれば、習慣レベルに働きかけるというものだと思うんですけど、私は、ちょっと、自分の変化を祈ること、期待すること、こういう習慣みたいなものも、割といま、変化を信じられなくなっている若い世代には大事なことではないかなと思うところがあります。

仮に、宗教心なしで、信仰してもいいと思うんですね。大江健三郎さんが、自分の息子の光さんがしゃべったときの話を講演でしゃべっていますけど、大江さんが息子の光さんを肩車して、森を散歩していたら、突然、上から声が聞こえるわけですよ。クイナですっていう声が聞こえるんですね。

クイナですっていうのは何かというと、鳥が鳴いているわけで、その説明をしているですね。それは、光さんがNHKのラジオをずっと聴いていて、知らぬ間に、アナウンサーの真似を上手にするようになって、だから、鳥が鳴くと、つい、解説してしまうということをしてしまったわけです。知的障害のある方なんですが、オウム返しは得意なので、そっから話せることに気づいたというんですね。

クイナですというのは、大江さんは、最初、幻聴だと思ったらしいんですね。でも、ひよっとしたら、光がしゃべったかもしれない。それで、次の言葉が出るのを、私は自然と祈ってましたということを言っている。こういう祈りっていうのもあるんじゃないか。必ずしも宗教的ではない、祈りの例として紹介されていましたけど、実体験だけに、非常に説得力もあるし、こうしたものは、これからも大事なものではないかと思うところもありますので、形と同時に、内面的なそうした変化も、ちょっとでも広がって欲しいかなということを申し上げて、締めくくりとしたいと思います。


  2008年11月22日東京・青山にて開催

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