第28回 アキバ化する日本の迷走

 自民党総裁選は、麻生太郎で体勢が決しようとしているらしい。

 自民党の元幹部だった野中務が、『時事放談』の番組中、<麻生が総理総裁になるようなことがあったら、この国はおしまいだ。私は命をかけても阻止する>というような趣旨の話を口角泡を飛ばし力説していた。野中が口角泡を飛ばすには、世間の知らない麻生太郎のあやしい実体を知っているからなのだろう。

 アキバで絶大な人気の麻生太郎だが、九州の炭鉱の歴史をわずかでも知っていれば、麻生という家が何を犠牲にして成り上がって来たかすぐにわかる。

 三井三池闘争など炭鉱争議で、やくざを使い、炭鉱組合を恫喝していたのは、麻生炭鉱を含む炭鉱会社だった。石炭から石油へとエネルギー資源が大転換する時代に、炭鉱会社は労働者の首を切り、とっとと炭鉱会社を閉鎖し、当時、新しい建築資材として注目を集めていたセメントへと移行しようとしていた。

 ご存知のように、炭鉱労働者には同和地区出身者や在日朝鮮人が多数働いていた。九州全般に、そうした人々への差別意識は根強いが、とりわけ、炭鉱周辺の地域では、露骨な差別が横行していた時代がある。

 ご他聞にもれず、麻生炭鉱も、炭鉱が隆盛のときは、体よく同和地区の人間を雇用し、同和地区の人間が戦争に取られた戦中は、朝鮮人を強制連行して、危険な炭鉱労働に従事させていた。

 石炭という資源を自分たちの生活の糧としながら、それを採掘してくれている人々を蔑視してもいた。「炭鉱もん」は社会からあぶれた、行き場のない人間の総称としても使われていたのだ。命の軽重は明らかで、朝鮮人、中国人の命は人間の命として扱われてはいなかった。

 その筆頭が麻生炭鉱。朝鮮人強制連行で一万人に及ぶ朝鮮人、連合軍捕虜300人を強制的に自分の炭鉱で働かせていた。この数字はすでに明るみに出ている。戦後、その賠償をしたのは国だ。麻生炭鉱ではない。麻生家はセメントに転じることで資産をより大きくしたのだ。いわば、同和や朝鮮人、中国人などの命を金に変えて肥太った成金である。

 そのせいか、麻生炭鉱という出生が誉められたものではないことを知っていたのだろう。麻生家は有名政治家や財界人と姻戚関係を次々に結んでいる。吉田茂の孫を標榜する麻生太郎もその一人に過ぎない。しかし、そこに吉田茂のような品格など微塵もありはしない。

 彼のこれまでの差別発言を見れば自明のことではないのか。

 アキバのオタク連中は、麻生太郎がコミックを読み漁っていると聴いただけで、あたかも自分たちオタクが認められたように、脳天気に感動し、彼の政治理念や心情、意識を決定している成育歴を知ろうともしていない。自分たちが強制連行でもされて、炭鉱労働に従事させられてみないとわからないらしい。

 麻生太郎本人が強制連行したわけではないではないか。というとぼけた反論は意味がない。政治家となるために必要だった資金、総裁選を幾度も闘うための資金、それらは、そうした出自であるがゆえに可能となっているのだ。

 ドイツなど自国の戦争犯罪人に厳しい国家であれば、麻生一族はとうの昔に解体され、その資産は没収されている。金に物を言わせて、政治の中心舞台に踊り出ることなど到底できなかった。また、麻生太郎自身、そした政治手腕は持ち合わせていない。

 安倍晋三というダメ首相が辞めたいと言っているを辞める必要はないと引き伸ばし、政治の混乱を導いたのは幹事長だった麻生太郎だ。その後の参議院選挙の大敗北の責任も彼だ。そして、福田首相の幹事長を務めながら、結局、途中降板を余儀なくさせられるのを抑止できなかったのも彼。

 それが見えていない国民はむろんだが、そうしたいわば自民党の戦犯を総理にする国会議員の能力は疑うしかない。いまや、自民党に良識というものはないと言っていい。

 一般市民の声でも、「麻生さんははっきり物を言うからいい」と麻生の背景にあるものを知ろうともしないで、彼の詭弁と演技に騙されている。
 
 自分の生活の中の狭い視野の中でものを考える、見るというのはオタク文化の一つの側面だ。

 石破は真性オタクだが、麻生太郎は演技としてのオタクに過ぎない。生活の中の狭い視野の中でしか、物を見られない人間が多いことをエセオタクの麻生太郎は知っている。そうした人間を凋落することが、現在の日本を動かす上で、有用だということもわかっている。

 かつて、アキバはキモい連中が集まる場所で、そこに集うオタクは時として差別の対象にさえなった。しかし、この5年ほどの間に、アキバ文化は日本の隅々まで浸透している。世界を見るのではなく、自分の生活だけ見る。自分のささやかな幸福感が重要で、他者への関心を削ぎ落とす。狭い、針の穴のような世界で、趣味趣向が一致することが大事で、広い視野で自分の生活をみつめようとはしない。

 他者への無関心もそうしたところから産まれている。

 加藤智大がアキバをねらったのには、いくつかの理由があるが、彼が直感として、自分を受け入れられない世界の象徴としたのがアキバだ。言い換えれば、アキバが日本そのものだと彼は理解できていた。この国ヘの復讐は、だから、アキバでなければならなかった。

 そのアキバが選ぶ麻生太郎とは、だから、いわば、いまの日本という国の象徴なのだ。

 戦争の責任もとらず、拝金主義の高度成長を生き、そして、経済が破綻すれば、弱者を切り捨てて行く。米国の言うなりに、イラク戦争支援を続け、給油活動の継続こそ、国際社会で認められる有効な手段だと世界が見れば抱腹絶倒の理屈をあたかも世界を知っているように語る。

 しかし、国民にそれを止める力はない。なぜなら、この国はいまやアキバなのだから。かつてのヒトラーが、大衆を操ったように、アキバ化した国は、教養や品格のない治世者によって、また、操られるだけだ。


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