第27回 塀の中と外



 胡同と書いて、フートンと発音します。
北京オリンピックの報道などで、清朝時代の名残が残る旧住宅地の映像が幾度が流されましたが、いわゆる下町の庶民の住宅地で、路地が密集しているような場所をそう呼びます。

 主要スポーツ施設やプレスセンターなどは、何とか間に合ったものの、北京市街地では、ホテルやレストラン、ショッピングセンターなど、開催時までに工事が間に合わず、建築中の建物も多く、また、土地の買収は終わったものの、着工にまで辿り着いてないという市街地が残っています。

 それが現在の胡同です。

 報道でも度々伝えられ、ご存知のように、そうした工事現場や解体中の旧市街地が露出したままでは、みっともないというので、ここに高い塀を築いて、外国メディアの眼にふれいないようにという工夫がされたようです。

 東京オリンピックの頃も、塀を巡らせるというようなことはありませんでしたが、戦後の名残で、バラックやブリキ屋根の集落が区画整理で都心の主要道路の沿線から姿を消しました。

 中国の開放政策が始まって間もない頃、仕事で北京を頻繁に行き来きしていました。すでに、その頃から、旧市街地や住宅地が解体され、ビルの建築ラッシュが始まっていたのです。北京がオリンピック候補地に名乗りを上げ、シドニーに負けた年でした。その光景を初めて、目にしたとき、高度成長期に少年時代を過ごした、自分が目にしていた風景とあまりに似ているのに驚いたことがあります。

 あれから十年ほどが過ぎていますので、いまの北京は私が知る北京とは比べようもないほど、変わっていると思いますが、中国が歩むであろう現在の姿は予想できたのです。

 丁度、塀を巡らしたオリンピックが始まる頃、チベット暴動が起き、開催中には、ウイグル自治区での反政府テロが続発しました。実は、そのもうずっと前から内モンゴルとの国境近くなど内陸部でのバス爆破事件などは起こっているのですが、日本を始め、海外メディアはそうした報道を伝えることはありませんでした。中国政府が規制していたこともありますが、アジア情報や隣国の内情に関心が薄い、日本メディアの体質では、それを収拾することもしていなかったのです。

 しかし、オリンピックという関心が生まれたことで、否応なく、内陸部の実情にも目が向き、北京市街地の現実にも関心が持たれたもたれるようになりました。ところが、こうした報道もまるで他人事です。まだ、経済発展の途上にある中国は、食の安全、環境問題、そして、人権問題などへの認識が遅れている、先進国になれない、途上国なのだという冷ややかな報道です。

 つまり、それは、中国特有の問題で、国の未熟さは自分たちには関係がないというようなとらえ方をしています。そして、その開会式には、先進国を始め、多くの国の首長が列席して、祝辞を述べています。

 おそらく、多くの日本人が、それらの報道を目の当たりにして、感じるのは、以下のようなことです。

 いろいろあるのは、大衆の中国政府への不満だ。それはあって当然だろう。だって、中国政府はやばいことには塀を巡らし、蓋をして、いいところしか公開しない、そういう政府だから。しかし、それに比べたら、私たち日本は公害を乗り越え、中国ほどの格差を生まないでここまでやってこれた。中国政府のようにやばいことに蓋をしたりしないでやって来れている。都市は北京などに比べられないほど美しい。やっぱり、ぼくら日本人はすごい。

 北京オリンピック関連の報道を耳にしながら、そう感じた日本人は少なくはないでしょう。

 しかし、私にすれば、この間の「秋葉原無差別連続殺傷事件」を始め、青少年が起こす犯罪は、中国で起きている内陸部でのテロ事件と同じです。塀の中に囲われて、息苦しくなった人間が塀の外の人間への憎悪をたぎらせて起こした事件です。

 私たちの社会は、見えない塀があるだけで、塀自体がないわけではありません。

 都市化の波に追いやられて、シャッター街と変貌した地方の商店街は、まさに、かつては庶民が集い、情報交換のできる胡同だったのです。そこで、貧しいながら互いを助け合うという互助が守られていました。地域のあり方や行政に対しても声を上げるということができました。自分たちは一人ではなく、地域を支える仲間なのだという認識が暗黙のうちに形成される環境があったのです。

 そこには、癒しや互いを見守ると空気があったのです。子どもが大人から学ぶこともたくさんありました。

 中国の報道を見て、私たちの社会や国が抱える問題に気づけないのは、塀の内側にいて、私たち社会から失われているものが何のか。失われることによって、私たちの社会を成立させていた基盤、モラルが失われることで何が起きているのか。それを見ない、見ようとしていなからです。

 塀の中にいることの安全が塀の中にいることだけで守られているという信じているからです。つまり、社会に見えない塀を設けることがより安全だと考え、心の中にも塀を設けて来たのが、私たち社会の姿です。

 しかし、本当の安全と安心は、塀の外へ出て、安全のために設けようとしていた塀がどれほど脆弱で、危険なものか。それを外から眺め、知ることなのです。

 塀があることが、どれほど危険で無力なのか。中国の報道を見て、それに気づくことが、大切だったのです。塀を守ることを国家の威信を保つことだと勘違いしている現在の中国政府の姿に、多くを学ぶことが大切だったのです。

 私たちの社会、国が成熟化していからこそ、見えないだけで、実は塀の中と外の相克は、いまも続いているのです。


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