第26回 特集 増殖する希望なき国の希望なきテロリストたち



 今回も前回と同じく「秋葉原無差別殺傷事件」についてふれたいと思います。前回とは少し視点を変えて、特集で、丁寧にこの問題を考えてみましょう。

 たとえば―

 がん治療などで、漢方薬剤の処方が患部の切除など外科的治療後の快復手段のひとつとして、積極的に取り入れられるようになったのは20年ほど前のことです。
 
 漢方、いわゆる東洋医療の考えを現代医学に導入するには、当初、医療の現場には強い抵抗がありました。そこには、現代医学に比べ、東洋医学は、論理や体系といった科学的根拠が希薄であり、客観的立証性に乏しいという現代医学側の東洋医学への蔑視があったからです。

 確かに、体質の改善によって人間の持つ自然の治癒力、人間が本来持つ、病気を克服する力を「取り戻す」ことを主眼とする東洋医学と化学物質による患部への対処療法や切除によって病気を「取り除く」、西洋医学を基本とする現代医学とはその根本の考え方が大きく違います。

 しかし、1980年代、アメリカの外科医、スチーブン・ローゼンバーグが人間の免疫機能に着目し、「養子免疫療法」という治療法を遺伝子操作によって開発してから、人間の持つ自然治癒力への東洋医学の視点が重視されるようになりました。

 その発見の発端は、何年も前にがんを患い、快復の兆しがなかったにもかかわらず、治療半ばで退院した男性を別の病気で再度、治療することになったローゼンバーグが、その男性からがん細胞が消えている事実に直面したことです。その男性は、その後、なんらがん治療を受けていなかったのです。しかし、がん細胞がきれいに消えていた。それはなぜなのか。その疑問から現在の遺伝子治療がスタートしたと言ってもいいのです。

 東洋医学の患部への直接的な対応ではなく、身体の働き全体の力、つまり、免疫力を高めるという視点を現代医学も無視できなくなったのです。

 また―

 分子生物学というジャンルの学問では、地球を物としてでなく、ひとつの生命細胞という視点でとらえます。

 今日では、環境問題への関心が高まり、地球生命体というこの考えは常識となっていますが、30年以上も前から、分子生物学では、人類を地球に巣食うがん細胞に喩えます。人類が豊かに生きるためだけの目的で、利己的に生態系を破壊し、バランスを保っていた地球の環境を破壊している。人類の増殖とそれに伴う文明の進展は、結果的に人間の細胞に巣食うがん細胞のように、地球という命、そして人類自らの命を奪いつつあるというのがその観点です。


 しかし、これらの二つの学術的な視点は、果たして、学術分野に留まるものでしょうか。


 私たちの国、社会、地域、家庭の姿にも、この視点は十分通用すると私は考えています。

 通り魔事件や児童の誘拐・拉致・監禁・殺傷事件が起きるようになって、地域に自警団を設けたり、犯罪防止のための監視カメラ設置が行われました。確かに、それによって、一部、歌舞伎町などの例で実証されたように、夜の繁華街での事件やトラブルが表向き減少しました。

 大阪池田小児童殺傷事件のときは、全国の学校で出入口を封鎖し、集団登下校の徹底や保護者による地域パトロールが実施されるようになりました。

 今回は、アキバの事件を受けて、歩行者天国の中止やイベント開催会場における警備強化が官民合わせて大合唱になっています。

 ですが、果たして、そうした局部への対応で、茨城駅で8人を殺傷した通り魔事件や今回のような事件を抑止することができるでしょうか。

 このコラムの「第3回幻想としての社会、国家、そして国境」でも述べているように、かつては成立した、社会の規範やルール、それを支える合意された倫理やモラルといったものが、情報化と多様化によって、一枚岩ではなくなってしまいました。

 倫理や規範なんてきれい事に過ぎず、それを示すモデルもなく、国家や大人だってそれを守れてはいない。だったら、そんなの大したものではないじゃないか。そうした認識が広がっているのです。つまり、社会そのもののフレームが脆弱となり、溶解へ向い、緩んだ桶のように、隙間から水が漏れ始めている。

 そうなると、一つひとつの水が漏れている箇所をとりあえず応急処置的に塞ぐことは必要ですが、それによって、水漏れを起している全体への対応を欠けば、また、別の箇所、別のところから水漏れは起きてしまいます。

 つまり、「桶が笑う」という状態が営々と続くことになります。
 長々とがんの免疫療法のたとえを引用したのは、このためです。

 モグラ叩きゲームのように、目に見える事件、事実だけを追ってそれを駆逐しても、目に見えない地下を流れる水脈、つまり、事件の根幹にあるものと向かい合わなければ、私たちは終わりなきゲームを続けなくてはなりません。どこかの無教養な法務大臣のように、死刑にしてしまえば、それで問題が終わるのではないのです。返って、終わらないのです。

 がん細胞の箇所をメスでいかに抉り取ってみても、再発する、あるいはリンパ節を通して、別の箇所に転移することを留めるのは、所詮、確率の問題でしかないのと同じなのです。東洋医学の視点から、生活習慣を根本から変え、それによって体質を変え、さらには心のあり様、持ち方を変えることでしか、改善できない身体のメカニズムがあります。

 局部を見て、全体を見ない。木を見て、森を見ず。それでは、問題の解決にも、犯罪の抑止にも本質的にはつながらならい。それが、いま、私たち大人が最も気づかなくてはならないことなのです。

 私たちの社会で何が起きているのか。この10年私たちの社会はどのように変貌し、それによって、どういう問題を抱え込んでしまっているのか。そこにある点と線を結び、文脈を見出さなければ、アキバの事件から、私たちが何かを学び取ることは不可能と言ってよいでしょう。

 学校の校長先生や大人たちが、こうした事件が起きると「いのちの尊厳」について語ります。「もっといのちの教育」をということになる。しかし、そもそも、子どもたちの尊厳そのものが私たちの社会、地域、家庭で果たして守られているのか。いや、年間3万人もの自殺者を出すこの国は、人の尊厳自体守られていると言えるのか。その基本的な問いをしないところで、いくら「いのちの教育」を叫び、押し付けたところで何の実効性があると言うのでしょう。前回強行採決によって通過した「教育基本法改正」における愛国心問題と同じなのです。

 あるいは、より強い力で圧力をかけ、そうした犯罪の因子を撲滅せよという発想が生まれる。さきほどの医療の例のように、より強い抗生物質をということになる。しかし、これもすでに医療の世界で判明しているように、そうした力による処置は同時に菌に耐性が育つことになり、いたちの追いかけっこをしなくてはならないのです。毎年、インフルエンザの菌が耐性を身に付け、猛威を振るうのと同じことなのです。


 1997年に神戸連続児童殺傷事件が起きたとき、多くの大人たちもマスコミも、それは特異な犯罪であり、子どもたちの心情に共通するものではないという見方をしました。しかし、社会学者の宮台真司が当時、緊急アンケートで、同年代の中学生に「酒鬼薔薇事件についてどう思うか」という調査をしたところ、7割近くで「あんなことをしてはいけない」という回答があったと同時に、3割近くも「共感できる」「気持ちがわかる」「かっこいいと思う」など賛同する意見があったのです。

 すでに、指摘され、多くの方がご存知のように、アキバ事件の犯人、加藤智大は、酒鬼薔薇聖斗と名乗った少年Aと同じ年齢です。しかも、すべてではありませんが、酒鬼薔薇と類似する家庭の環境がありました。

 郊外の住宅地に育ち、経済的な問題はなく、両親が教育熱心であり、とりわけ、母親は幼少期から長男に勉強ができることを強く望みました。体罰や暴力があったことも同じです。

 前回のコラムで述べたように、しかし、それは当時の特質した家庭の状況でもなく、程度の差はあれ、優秀な他の子と同じであること、いい高校、いい大学に進むような子どもであって欲しいという親の思いは社会の平均値だったと言ってよいでしょう。いまほど、格差が言われていなかった分だけ、そうした親の期待は、まだ手に届くところにあったのです。

 そして、この親の期待というレールの大きなポイントは、加藤や酒鬼薔薇のときと同じように、いまも思春期、小学校高学年、中学校の時期とぶつかっています。「ここで将来が決まる」。親も教師もそう思い込んでいます。レールをはずれた人生も、レールから降りて一休みする時間も許されないと考えている。格差が進行するほどに、その思いは益々強くなっています。

 私たち大人、そして社会が、酒鬼薔薇の事件を特質したあり得ない出来事としてしまった結果、私たち大人、そして社会全体が子どもの思春期との関わり方への反省を国民的認識として広げることができませんでした。

 社会学で言う、Cutting Operation、煩わし問題を自分たち自身の問題として取り込むことをせず、なかったものとして闇に葬る。あるいは、深く探求しない。社会的日常からそれはあり得ない非日常として囲い込みをしてしまうということを大人も、そして社会全体が行った結果、問題の温床は温存され続けていたのです。結果、またも同じかと思わせる、思春期の親と子のボタンの掛け違いから酒鬼薔薇と酷似した事件が続いているのです。犯人が口々に言葉にする、「人が殺してみたかった」も酒鬼薔薇と全く同じです。

 思春期のその時点では、親は子の将来のためと身勝手な思い込みをし、自分の行為の危険性を疑うことをしません。子どももわかって欲しいといういくつかの信号は出すものの、自分の中に増殖していく、怒りや憤懣、苛立ちをそれとわかるように表すことはないでしょう。そのため、「ちょっとした親子の行き違い」「いずれ大人になればよかったとわかる程度の諍い」。その程度の認識しか、親、大人たちに持たれていないのです。

 そして、現在もそうした認識で子どもを追い詰めている家庭は存在しています。不登校やひきこもりという形で明らかに親の手に負えないという症状が出ない限り、酒鬼薔薇や加藤のような思春期の子ども、あるいは思春期に危険なスイッチを植え込まれた青年たちは増殖を続けているのです。

 他者と関わりをうまく持てないという若い世代は決して少なくはありません。社会から孤立し、思春期に親や周囲の大人から尊厳を踏みにじられることによって埋め込まれた、憎悪というスイッチは、社会に出てからも肥大化させる環境が現在の日本には整い過ぎています。

 空気が読めない、周囲になじめない、笑顔が少ない、地味、一人好き…。それだけで、自分たちとは違うと排除される人間がいます。同世代だけでなく、上司や先輩から面倒な奴、疎ましい奴と煙たがられる人間は決して少ないとは言えないでしょう。そこに、小泉政権以後、急激にこの国の常識のようにされた、競争原理が拍車を掛けています。

 認められるためには、成果を上げよ。受け入れられるためには、みんなとうまくやれる人間になれ。できない、失敗する、うまくやれない、それらはすべてお前が悪いという自己責任…。いじめの温床となっている発想の基点もここにあります。

 こうした社会の空気は、思春期に傷を持った人間には、到底耐えられない。しかし、思春期の傷のことを持ち出そうものなら、「お前バカか」と言われるのが落ちです。そこで、しかたなく、仮面を被り、よい人、いい人を演じなくてはいけなくなる。生活のために糧を得なければならず、そのためには、かすかに残っていた自分の尊厳すら封印し、おどけてみせなくてはいけない。しかし、そこで芸をしたところで、自分の生活のステージが飛躍的に変わるわけでも、非正規雇用という壁がなくなるわけでもない。

 法律が変わり、派遣・パート労働者の正社員雇用が推進されていると厚労省や経団連は能書きを言っていますが、その実体たるや、給料は派遣・パートの頃と同じで、そこから雇用保険、社会保険料を引かれるというのが大半の実状なのです。しかし、そこで、異議を唱えたら、機会の平等を与えたということを盾に、雇用を打ち切られるという仕組みだから、大きな声が上がらないだけです。非正規雇用者という辛酸を知るからこそ、そこから脱却したく、力に甘んじているというのが実体です。

 思春期に落ちこぼれというレッテルを貼られ、親からは期待を裏切ったと揶揄され、社会に出てからもそのコンプレックスとレッテルをしょい続けなくてはいけない。みんなに合わせようと一生懸命背伸びしても、それが高く評価されることはありません。ただ、その居場所を奪われないだけです。

 それはどれほど人を疲れさせるか。どれほど希望を失わせるか。

 まして、格差の進展と定着によって、階層化が進み、レッテルによってコミットできない人間関係がこの国に生まれて来ています。縦断的横断的に他人とふれあう、出会うことすらできなくなって来ている。つまり、自分の孤立感や孤独感はより深まるようにしか生活ができないという状況になってしまっているのです。

 哲学者の東浩紀や芥川賞作家の平野啓一郎が、今回のアキバの事件は通り魔事件ではなく、テロであると論評していますが、酒鬼薔薇事件が起きたとき、その指摘はすでに、宮台真司や私にも共通してあった認識でした。

 連合赤軍や反日武装戦線のようなイデオロギーを背景とし、テロをやる個々の個人史の問題に依拠せず、世界革命を建前としたテロではなく、どこか軟弱で、極私的で、思想や決意といった凛々しいものでもなく、しかも、当事者すら、それがテロであるという明確な自覚もないテロ行為、それにもっとも弱い社会が成熟した今日の私たちの社会なのです。そして、そうしたテロリストを生んでしまうのが私たちの社会のあり様なのです。

 その自覚と認識。いまこそ、それを持つ努力、わからないまでもわかろうとする努力を私たち大人が一人ひとり率先してやらなければ、これからも希望なき国の希望なきテロリストは増殖し続けます。

 いま孤立し、極私的という枠組みの中で起きているテロ行為は、やがて、インターネットや携帯メール、掲示板などの媒体と結び付き、全国一斉にある日、蜂起することさえ視野に入れておかなくてはいけません。

 しかし、それは彼らにとって、大人たちが思う、非日常の特質すべき出来事としてではなく、彼らのありふれた日常の延長に、当然の終着点のように、そこにあるのです。


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