第25回 美しい顔をした悪意


 2006年6月。奈良県での「家族3人放火殺人事件」。

 逮捕されたのは中高一貫校の進学校に通学する16歳の長男。

 父親は自分の書斎を学習室と名づけ、自ら長男の学習指導を行っていた。その教え方はスパルタで、時に激しく暴力をふるっていた。その恨みから父親を殺害する目的で自宅に放火。母、弟妹が死亡。外出していた父親は難を逃れた。

 2007年5月。福島県での「母親殺害事件」。

 自首したのは、県立進学校に通う17歳の長男。殺害後、遺体をバラバラにし、装飾をした。

 地元の中学時代は成績はトップで、スポーツも万能。人望もあり、リーダーとして尊敬されていた。母親もそれを自慢にしていた。しかし、県内屈指の進学校に進むと周囲は優秀な生徒ばかり。自分の実力が特別でないことに気づき、それまであった自信が砕け、不登校気味となる。学校にも馴染めず、友人もいなかった。

 その殺害方法から、1997年5月に兵庫県で起きた「酒鬼薔薇事件」との酷似が話題となった。「神」の存在を意識し、テロが起きればいいと思ったという加害者の志向性は明らかに「酒鬼薔薇」との共通点が見られる。

 2008年5月島根県での「老人夫婦殺害事件」。

 自首したのは自動車免許取得のために合宿寮にいた22歳の孫。

 長崎県内の大学を中退し、実家に戻っていたが、大学を中退した自分を批判する祖父母の対応に不満を持ち、その恨みから殺害。祖父の遺体の背中には包丁が3本刺さり、焼き殺そうとした痕跡も見つかった。

 祖父母は、大学まで行き、それをまともに卒業するのが当然とし、本人の中退せざる得なかった心情を理解しようとはしなかった。

 そして…。

 2008年6月に起きた「秋葉原無差別殺傷事件」。

 すでにマスコミでも頻繁に報道されているが、犯人は、いま述べた3件の殺人事件の加害者と実に酷似する思春期を送っている。後で触れるが、すべての事件が5月・6月に起きているのも偶然ではない。
 
 中学時代まで成績優秀で、進学校、エリート校へ進んだ。しかし、新しい環境に馴染めず、成績が落ち、いわゆる落ちこぼれとなる。

 それによって、親族を含む周囲の反応が変わった。幼い頃からの期待に応えなければとあがきながら、「優秀な奴はもっと普通にいる」という現実に直面した。その挫折によって、生まれて初めて、コンプレックスや羞恥心と出会った。

 しかし、それとどう向かい合うか。その術(生きる力)をそれまでの成長過程で教えられておらず、失意の中、悶々とする。にもかかわらず、依然として、期待感から、叱咤激励する親など周囲の声、視線に耐えることができなかった。それらは自分を追い詰める悪意としか写らなくなる。

 やがて、社会から撤退し、孤立した中で、歪んだコンプレックスが醸成され、それは暴力、殺人という行為となって噴出する…。

 この展開は、例に挙げた事案すべてに、あまりに酷似している。そして、思春期への理解が周囲に多少なりともあれば、容易に抑止できた犯罪でもあるのだ。

 詳細な捜査内容が不明なので、あくまでも予測に過ぎないが、これまでの少年犯の多くの事案と同じで、いずれのケースも思春期問題への親や関係者の不適切な対応があったことは否定できない。


 私は、宮台真司や斎藤環、尾木直樹と2000年に「OUT」という超教育ポータルサイトを開設したとき、記者会見の席上で、その趣旨として、以下のように述べている。

 「子どもたちの自尊感情と自己決定能力を育成するために、私たち大人が取り組まなければならない大きな課題は、青少年に対して、生き方の自由裁量権を与えるゆるぎなさ=生きる力です。

 共同体意識がもたらす画一性への絶対的信頼という幻想からどれだけ自由になれるかで、これは決まります。

 人は無知なるがゆえに、依存するものがない状態を怖れます。自由であることへの不在感と寄る辺なさが、法と道徳を混同した有形無形の呪縛をつくり出し、それが子どもばかりでなく、大人自身、社会全体を身動きのとれない、閉塞感に満ちたものにしています。

 OUTが提唱するのは、こうした私たち自身の中にある無知さや脆弱さからの解放です。はみ出すこと、異なることが受け入れられる社会への変革。それがOUTの思想です」

 平たく言えば、世間を基準とした大人自身の固定した価値観やかくあるべきという狭い視野を捨てない限り、子どもに自分への誇りや尊厳を抱かせることはできないと言っているのである。
 
 それによってしか、子どもが自分の意志で自分の人生を歩むという力強さも他者を思いやる心の自由も獲得できないと言っているのである。

 親の希望、親の都合、親が考える、こうすれば世の中、上手く生きていけるという方法論は、すべて親の経験と意志に過ぎない。しかも、その背後には親の見栄、プライドがあり、親自身が世間(共同体)に恥をかきたくないという思いがある。つまり、大人の身勝手な要求を子どもに押し付けているのだ。

 まして、親自身、終身雇用が終わり、現在のような実力主義、能力主義の競争社会で、自分たちが生きてきた安全に生きるルールや知恵が通用しないことは承知している。にもかかわず、崩れてしまった過去の価値体系を押し付ける。もちろん、親自身がそれしか知らないからだ。

 いまや、東大を出たからといって確実で安全な未来の生活などない。ヤンキーをやって、職人になったからといって不幸というわけでもない。子どもたちの前には、大人の思い及ばなかった多様性という海原が広がっているのだ。

 幼少期から思春期前期くらいまでは何とか親の決めつけた世間は存在しても、それを過ぎれば、親など足元にも及ばない情報の海に子どもたちは押し出されてしまう。親の知らない世間がそこにある。

 そこで、「シメシメ」と自分の自由を見つけ出せた子どもはいいが、幼い頃から親や周囲の大人に刷り込まれ続けた世間的価値基準は、大海原に放り出されてからも子どもたちを縛り続ける。調教されてきた子どもは調教なしの海原を泳げない。

 そのため、抱かなくてもいい大きな挫折感、もっと早くに子どもに自由を与えていれば、抱かずにいられたであろう不安やコンプレックスを抱え込んでしまうのだ。

 親や周囲の大人の意識や常識がもっと自由であったなら、思春期の挫折について、もっと寛容であれば。子どもの変化にも、もっと敏感でいられたら。すべては思春期というものへの大人の無知が招いたものだ。

 「お前も苦しかったんだな。ごめんな」「わかってあげられなくて、ごめんね」。そんな言葉が一つあれば、子どもは孤立もしなければ、苦しみを内に秘めて、憎悪をたぎらせることもないのだ。ささやかな、ありふれた一言。愛情を感じさせられる、ちょっとした気遣いの一言。それだけで、救われる子どもの心がある。

 賢明な福田首相は、事件を事件として捜査するだけでなく、社会的な背景など事件を生んでいる背後にあるものを徹底的に究明せよと異例の指示を出した。

 いつも言うが、防犯対策やいのちの教育を徹底させることが解決策にはならない。

 こうした犯罪は、彼らにとって特別な非日常として起しているのではない。普段の生活の延長の上に、ある日存在する出来事の一つなのだ。そのことに問題があり、日常の中で、日常的な装いをして犯してしまう犯罪のスイッチをつくらせない、入れさせない取り組みの方が遥かに重要なのである。

 また、思春期に性的なものとの出会いを上手くやれなかった結果として、性衝動を暴力や犯罪に転化せざる得ない成育や環境があったことも見逃すことができない。

 心理学を学んだ者なら誰でも知っていることだが、ナイフで人を刺すという行為には、明らかに性的な衝動が含まれている。これも思春期に性的なものとふれるチャンスがなかった。それを教えられる先輩や大人が周囲にいなかったことが重要な問題として指摘できる。

 今般の事件では、こうした思春期問題と同時に派遣工場労働という現在の日本社会で、最も劣悪で、不安定な労働環境を選択せざる得ない、派遣・パート労働の現実とそこでの就労環境のストレスがある。

 思春期に抱いたコンプレックスに、より拍車をかけるものとして、いま学歴格差、社会格差が機能している。

 そうした問題を乗り越えるのはコミュニケーション能力だとわかったように学者や評論家は言うが、コミュニケーション能力を育てる環境そのものが格差なのだ。親に素養や文化的教養がない家庭では、豊かなコミュニケーション能力を養うことは、現在、ほぼ不可能といってもいい状況にある。普段の生活のゆとりがないところで、どうそれを育てよと言うのか。

 かりにそうした経済的ゆとりがあったとしても、前半で述べたような強圧的な親のもとで、コミュニケーション能力が高められるわけがない。一方的に言うなりにされていて、会話能力を高める何が養えるというのか。

 被害に遭われた方々やその関係者の方々の痛みにかける言葉もないし、その死を痛む多くの人々の思いを否定するものでもない。

 しかし、今般の事件をまたいつものように、悪人像、犯人像をつくり上げ、加害者批判をするばかりで、問題の抑止はできるのだろうか。

 断わっておくが、いくつか列挙した青少年たちは氷山の一角に過ぎない。大人たちが、思春期の対応を誤って、彼らのように、歪んだ憎悪を秘める人間はまだまだいるのである。

 斎藤環が「社会的ひきこもり」を著したのはもう10年も前のことだ。そのとき10代前半の子どもは、今般の事件の加害者と同じ20代前半から中盤になっている。酒鬼薔薇ももう24歳の年を迎えている。

 当時の不登校・ひきこもり推定人口が80万〜120万人。それ以後も社会から撤退する人間は増え続けている。

 数十年前には、杉並の善福寺公園で白鳥の首が切り落とされる事件があった。そして、数年前、全国で多発した猫の首を切って飾るという猟奇的な事件があった。そして、いま、また白鳥や黒鳥の首が切り落とされるという事件が起きている。

 無差別殺傷事件の起きる前後には、決まって、小動物虐待の事件が起きている。これも、なぜかこれまでの例で5月、6月に起きる。

 入学や転勤、入社時期から数ヶ月後の5月、6月は、集団生活や組織内の人間関係が微妙な時期である。また、家族も新しい環境に遭遇する。こうしたときは、気候と同様、人々の心も不安定になる。防犯を言うなら、この時期のインターネット対策や主要都市警備対策をもっと真剣に考えるべきだろう。

 マスコミはいつものように、眉をひそめ、タレントや学者・評論家が犯罪心理や事件の分析をし、子どもが抱える思春期の闇に言及することはない。

 正義ばかりを唱え、自分たちは善良な市民であるという振る舞いの中に美しい顔をした悪意があることを多くの人がまだ気づいていない。

 私たち自身が生活の中で、見捨て、切捨て、排除し、追いやっている誰かがいることに気づかなければ、自分自身の中にある善良という仮面を被った、自覚のない悪意に気づかなければ、何も変えられないだろう。

 その気づきのない社会は、これからもこうした犯罪を引き受け続けなくてはならず、亡くなった方々の無念を晴らすこともできないだろう。


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