第24回 日常の延長にある犯罪


 2009年5月から裁判員制度が始まります。
 この施行が決まった背景には、刑法犯に対する現行法への国家権力のジレンマがありました。

 周防監督の映画『それでもぼくはやってない』で描かれているのは、刑法犯捜査に対する警察・検察の威圧的、権威主義的体質とそれを支えている、裁判所の「力の圧力」です。

 日本の刑法事件では起訴された事案の9割以上で有罪判決が確定します。これは、告発され、警察の捜査で起訴が見込めると判断された事案のほぼすべてで有罪が確定するということで、どのような経緯、たとえば、人道的にやむなしとされる正当防衛などにおいても、その点の情状は斟酌されることが実に少ないということになります。

 情状酌量が認められるにせよ。有罪という枠内のことであり、基本は、「お前は悪い」が前提です。一旦、警察に刑法犯として逮捕されれば、まちがいなく前科者となる。それが現行の司法制度なのです。

 もし、仮に、減刑を求めるなら素直に罪を認め、改悛の情を示し、権力、被害者に対して徹底的に謝罪せよ。それが感じられなければ、極刑。あるいは重刑を覚悟せよ。いやいや、もし無罪だとしても、謝罪しなければ、告発された罪によっては、極刑、重刑になるぞ。だから、罪を認めて謝罪するか、徹底抗戦するか、どちらが得か、よく考えろ。

 まるで恫喝です。米国、中国を除き、死刑廃止が当然のヨーロッパ諸国、先進国家の近代法とは全く逆向きで、厳罰主義による威圧を背景としているのが、日本の刑法犯捜査・裁判の実態なのです。

 こうした傾向が特に強くなったのは、安倍政権下のことです。同じ時期に少年法の改正が進められ、件の裁判員制度も施行が決定されました。

 戦後レジュームからの解放を旗印とした安倍普三は、集団的自衛権を認める交戦権容認のための憲法改正、自衛隊を強化するための防衛省格上げなど、簡単に言えば、権力強化を政策の中心に据えていました。

 従って、当然の帰結として、司法権力を象徴する刑事事件についても、その関与を強化しようと働きかけます。

 しかし、身近な問題ではない、憲法論議に比べ、刑法犯に対する処罰の問題は、人権の問題、冤罪の問題など多くの地雷を踏むことになる。場合によっては、国民感情を逆なでする危険もあるがゆえに、一つの方策を立てました。

 司法へのテコ入れを進めると同時に、大衆心理、私が言う心情と正義のパラドックスを利用する制度を導入します。

 それが、裁判員制度です。

 国民の意思を裁判に反映させ、より開かれた裁判を実現するというのが当局のこの制度についての基本的な説明です。しかし、死刑反対論者の国民新党、亀井静香議員が異議を唱えるように、果たして、それだけなのか。

 司法当局が、自らの判断で死刑判決を下すことへの反論、つまり、反死刑論や反重罰主義の声を国民感情を巻き込むことで、無効にし、死刑を頂点とする重刑主義を正当なものとして、徹底させようというのがその真意としか思えません。

 司法・立法・行政の三権分立がほとんど機能していない、日本では、最高権力者とその所属する党派が一声かければ、彼らの思惑を三権に携わる官僚が先読みし、その意向を組んで制度変更させることはそれほど難しいことではないのです。

 そこには、冒頭に述べた、国家権力のジレンマがあります。

 「虐待防止シリーズ」の解説でも触れていますが、犯罪は高度化・国際化・知能犯化する一方、動機が不明で、病歴はないが、明らかに病的要因が強いと疑われる事件が増えるにつれ、これまでのように悪しき者の姿が図式的には描けなくなってしまいました。

 犯罪者が犯罪者的要素、時代劇風に言えば、人相が悪い、暴力的な人間、粗暴な性格など、犯罪者というレッテルを貼れる、自分たちとは違うどこか犯罪者らしい別世界にいるのではなく、普段、日常生活を共に生きている人間が、ある日、その生活の延長で犯罪に手を染める。あるいは、日常の誰かを巻き込まんでしまう。

 仕切り線のないところで、唐突に起きる犯罪は人々を不安にさせます。

 それが、いまの私たちの社会の現実です。

 その不安は、大衆にわかりやすい犯人像を要求させます。それを利用して、権力の強化を図りたい権力機構も意図してわかりやすい犯人像を暴き出そうとやっきになりす。少しでも大衆の目線から見たとき、それらしい犯人像の痕跡が認められれば、まず、それを拠り所として犯罪を見ようとする。

 かわいい顔して、夫をバラバラにし、遺棄する残忍な犯行を行った妻しかり。少年でありながら、母子殺害を行い、しかも、被害者をレイプしながら、心神喪失を演技する犯人しかり。

 まず、それだけ見れば、「こいつ、殺したろか!」と思える犯罪者です。こうした場合、犯人らしい犯人像を求める心情は、一層倍加します。それを増幅させるように、マスコミも大衆が喜ぶ格好のネタとして、これを提供する。

 つまり、大衆も、これを利用する権力も、まず、犯人らしい犯人がやったことという視点からしか犯罪を見ようとしないということです。

 つかこうへいの名作『熱海殺人事件』では、犯人らしからぬ犯人を刑事たちが一人前の殺人犯にしようとやっきになる姿をコミカルに描いていますが、まさに、つか芝居のように、裁判においては、「らしさ」を追求することに公判の大半の時間が割かれると言ってもおかしくはありません。

 動機不明とか、病的要因とか、成育歴とか、犯罪に至るまでの様々な要因は、個々の問題で、斟酌していては切りがない。しかも、誰にでも、時には、犯罪者になりかねない要素もあるだろう。それでもみんな道を踏み外さす、苦しみや困難に直面しながら、コツコツとまっとうに生きているのだ。だから、犯罪の背景となっているものよりも、実際に起した犯罪の質、量で罪を判断することが何よりも公平である。

 まして、その被害者でなければならないという必然もないまま、傷つけられた、あるいは殺害された人間、その遺族のやるせない心情はいかばかりか。

 よって、どのように論を尽くしたところで、犯罪は犯罪。罪は罪。犯行当時子どもであろうが、DV被害者であろうが、国民感情、心情からして、その犯罪に値する罪を受け入れよ。

 断わっておきますが、罪を贖うことは当然のことです。場合によって、極刑、重刑はやむえない場合もあるでしょう。そのことを否定しているのではありません。

 そうした判決に至るまでの過程、判断基準としているものが問題なのです。

 人が理性を失いそうになるとき、できるだけ理性的な判断へと大衆の心情を揺り戻し、法に携わる者自身が率先して、客観的な視点を持つ。それと同時に、犯罪の深層をきちんと検証し、犯人が憎いか否かではなく、いまの社会で人々の生活に何が起き、何が壊れているのか、犯人及び犯罪を取り囲む状況をみつめる鑑識眼が司法の当事者には求められているのです。

 その努力なくして、日常の延長におこる犯罪に対して、司法として有効な提言はできないばかりか、他の事案に対しても、強権力の正義ばかりを押し付ける判例を積み上げて行く結果になります。

 つまり、三権分立が意味をなさなくなってくるのです。

 犯罪は、常に、権力が法制化し、構成してる現行の社会的枠組みを揺るがすものです。犯罪自体にそうした意図はなくても、犯罪の深層を紐解く内に、時に、偶発的に権力のあり方を非難したり、改革を要求している場合があります。しかし、それを怖れて、強権力による弾圧を加速させてはならない。

 そうしたときこそ、その声を拾うことも被害者の声なき声を拾うのと同じようにやらなければなりません。それが司法に求められる客観性であり、独立性なのです。

 今年に入り、次々に結審していった社会の注目を集めた裁判結果は、あるべき司法の手続きとはあまりにもかけ離れています。

 検察側、弁護側双方の鑑定医の判断を完全に無視し、明らかにDV被害の実態に全く無知という「渋谷エリートバラバラ事件」の判決内容。「山口県光市母子殺害事件」での高裁差し戻しという被害者遺族にとってさえ、結審を長引かせた最高裁の判決内容。

 どれもが、その判決に何がしかの不服を言えば、「あんなひどい、反省のない人間の味方をするのか」という非難が付きまといます。

 問題なのは、判決の結果ではないのです。そう大衆にも、マスコミにも思わせてしまう判決に至る判断基準とその内容こそが問題なのです。

 それは、この国を覆いつつある、偏狭な世界観、社会基準を明確に予見させます。



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