第14回 気持ちの置き場所・伝え場所         


 花塾ワークショップテキストによる実践的な演技訓練と解説に入る前に、身体の基本的な鍛錬からみなさんが意図していなければならない点に付いてオリエンテーションをしたいと思います。

 丁度、現場の仕事で、そのよい事例がありましたので、実際の撮影現場での私のダメ出しを糸口に、話を始めることにしましょう。

 「他者に自分の心情や思いを語る」という演技をする場合、台詞は当然、長くなります。花塾のテキストの中にも意図して、独白の長台詞を課題として入れてありますが、こうした台詞を芝居として語るとき、みなさんはどういった点に留意するでしょう?

 私が第1回から12回に亙って、みなさんにお伝えしようとしていたのは、ひとりのよりよきパフォーマーたらんとするために、演技をどう観客に、あるいは視聴者に届けるか。その精神と身体のあり様でした。

 一言で言えば、世阿弥の「心より心に伝ふる花」です。

 ただし、ここで勘違いをしてもらいたくないのは、再三申し上げているように、感情表現を追い求めないということです。「この人はどういう思いでこの台詞を語っているのだろう」と想像し、手前勝手な解釈によって、熱い演技をしてもらいたくないという点です。

 では、どうやって「他者に自分の心情や思いを語る」という演技をすればよいのでしょう。

 今回からは具体的に演技指導をしたいと思います。
 
 まず、第一には、「台詞を大切にする」ことです。感情を込めて台詞をしゃべろう。感情が伝わるように表現しなくては。そう考えると台詞そのものを大切に語るということがおろそかになりがちです。

 「気持ち」という心に溢れる波に「台詞を語る」という技術が飲み込まれ、言葉そのものを大切にしなくなります。気持ちがあるから言葉が大切にされるわけではありません。極端な言い方をすれば、気持ちがなくとも、いえ、ないからこそ、言葉を大切にすることができます。

 「見所の見」「離見の見」を思い出しましょう。

 あるいは、「初心忘るべからず」という世阿弥の言葉を思い出してください。

 己が未熟なとき、人は、余計なことを考えるゆとりもないがゆえに、丁寧さ、丹念さを心がけます。「うまく、上手に伝えよう」という以前の問題に無心になれます。このとき、演技者にあるのは、感情をうまく伝えようではなく、言葉、所作を丁寧に演じようという純真な思いだけです。

 老練な俳優に比べてそれは、きっと未熟で、いわゆる「達者」であるとは言えないものかもしれません。しかし、丁寧に、丹念に台詞を語ろうというその姿勢は必ず人の心に伝わり、心を動かします。中途半端に技術があると、返って、感情を伝えるということを妨げることさえあるのです。

 第二には、台詞の感情をどういう目線と表情という「形」にするかです。

 いくら台詞の感情を理解したところで、それが見ている人々に伝わらなくては感情を理解したことの意味は失われます。

 これも極端な言い方をすれば、台詞の感情など理解していなくても、いえ、していないからこそ、「こうすればそのように見える」という形をつくることに純粋になれます。

 ここでは、私が演出の際によく言う「人間の生理
」が大事です。台詞のある部分は相手の眼を見、ある部分は自分の心に眼を向け、またあるときは、記憶を手繰るように遠くへ眼を向ける…。

 気持ちの置き場所、届け場所を見極めるということです。そこにきっちりとしたメリハリ、リズムを付けることです。

 これをどう形として、見せるか。見せることが有効であるかを考え、繰り返し鍛錬し、所作に入るということです。

 人間の生理に準じていれば、長い台詞を繰り返す内に、役柄の心情がつかめるようになります。また、そのようにつくられた演技は10人が10人、この俳優は役柄の感情を理解して表現しているのだなと謀られます。

 「俳優は、観客を謀り、欺く騙りの存在である」と学んだことを思い出しましょう。形として人間の生理に叶うものであれば、多くの観客はその形を通して、役柄の心情と出会うことができるのです。

 こうした気持ちの置き場所、届け場所への意識は、具体的に演技をする場面において鍛錬されるのではありません。

 花塾ワークショップテキストにある、実に基本的な身体トレーニング、訓練において、自分の身体、筋肉や関節、筋の伸縮を意識することから、そのトレーニングをみつめている演出など指導者や見学に来ている他者の眼を意識することから始まるのです。

 「身体をほぐすだけの運動だから」そういう心構えでは、ただの体育の授業です。そうではないという意識を持ち、稽古場に入ることからみなさんのワークショップは始まります。


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