新春特別号

第20回  クレーマー社会 −癒しという奈落−



 文化人類学者、上田紀行がスリランカの悪魔祓いを考察する中で、「癒し」の有用性を指摘したのは、いまから20年も前、1988年のことである。

 以来、癒しは、商品企画や開発などのマーケティングにおけるキーワードとなり、アロマ関連グッズからインテリア、衣類、生活用品雑貨、音楽、ホビー、旅行に至るまで、消費の対象となって来た。いま盛んに言われる、「ロハスな暮らし」「ロハスな生き方」というのも、その根底に上田が提起した「癒し」の概念がある。

 しかし、上田が鋭く指摘し、警鐘を鳴らしているように、癒しを商品化し、トレンドとして消費すること自体、上田が提起した癒し社会の創造とは程遠いものだ。癒しをあくなく消費することによって、「癒し」が人々を追い込み、新たなストレスの要因となっている。癒しに乗り遅れまいとする企画者とトレンドを追うために「癒し情報」に振り回される消費者の姿がそこにある。

 また、「癒し」の大衆化は、人々から耐性を奪い、癒されることが当然という社会図式を生んでしまった。ストレスに対する脆弱さ。提供されるサービスに対する過剰とも言える過敏さ。それらが生む、キレル現象。癒しは消費と結び付いたために、大衆は、満足度を肥大させ、それが満たされなければ、まるで子ども同然のクレーマーとなる。それでも、癒しを提供する側は、売上げのために、それに平身低頭するばかりだから、大衆の充足の欲求基準はとどまることがない。

 小泉政権以降、持ち込まれた市場原理主義によって欧米、とりわけ、アメリカ型の競争社会へと変貌した日本社会は、言い換えれば、クレーマー社会への変貌だったとも言えるのだ。

 それは不満社会の到来と言ってもいいだろう。

 皮肉なことに、人々は癒しを求めながら、自身のストレスの発散場として、クレーマーに変身している。癒しは与えられるものであり、施すものでも、自己犠牲によって自身が提供するものでもない。あくなき自己の欲求に応えるものでなければならない。

 しかも、これは入れ子構造になっていて、消費者というユーザーからのクレームを一心に受けているサービス提供者も生活者として一人の消費者となった途端、自身も他者のクレーマーへと変身してしまう。なぜなら、「オレが耐えているのだから、お前が耐えるのは当然だろ?」という理屈だ。クレームの連鎖。クレームのスパイラルが生まれている。

 だとしたら、私たちの社会のどこに心の平穏、癒しが到来するのだろう?

 昨年末、マスコミが総集編のキーワードとしたのは、「謝罪」。食品偽造問題がその血祭りに上がった。賞味期限切れを偽って販売したり、原材料を偽ることは許されることではない。企業へ社会的責任としてモラルを要求するのは当然のことだろう。

 しかし、市場原理主義が過剰な競争を招くのは自明のことだ。競争を凌ぎ、打ち勝つために、利益優先の裏マニュアルが生まれるのは、当然のことだとも言えるのだ。

 トヨタを始め、製造関連大手が生産ラインの簡便化に努め、工場労働者の賃金を抑えるために、派遣、パート労働の導入を進めたのも、正当な利潤追求のための内部努力という反面、低賃金、過重労働を担う雇用形態を生み出したからに過ぎない。一時代前ならば、激烈な労働争議となって当然の人権侵害のシステム変更を行っている。

 その背後にあるのも、欧米、中国・韓国などとの品質と低価格競争と大衆の貪欲さがある。

 かつて多くの日本人は賞味期限切れの食品を口にしていた。戦前、戦中、戦後の中で、特段の豊かさを持ち得なかった多くの日本人には、常に「もったいない」があった。ゆえに、味やニオイという生活経験によって食を確かめ、安全を担保していたのだ。

 時として、それが食中毒や腹痛などを引き起した。私の子ども時代、その件数は現在の比ではない。そして、腹をこわす子どももいれば、同じものを口にしながら、平気で元気な子もいたのだ。

 腹痛や食中毒を起してもよいと言っているのではない。異常なまでの安全性や完成度へのこだわりが問題なのだ。

 それは大衆が自らの耐性の弱さと生活経験の脆弱さを自覚している証でもある。数値やマニュアル、前例に頼り、それを絶対的なものと信奉することによってモラルは守られ、食や生活の安全は担保されるものだと思い込んでいる。そして、それが、過剰なまでのこだわりとこだわりを裏切った企業や個人への徹底したパッシングに繋がっているのだ。

 コンビニを中心に、日本は、世界の貧困層へ救援物資として送られる食糧とは比べものにならない量を廃棄している。その廃棄量は世界トップだ。

 一方で、廃棄処分にされるコンビニの食糧を格差によって生まれたワーキングプアや低所得層に配布しようという運動が、いま東京を中心に起ころうとしている。

 こうした運動が起こること自体が実におかしなことだとは思わないだろうか?


 「足りるを知る」という言葉がある。かつて、私たち日本人はそれを生活の基本としていた。余剰であること、過剰であることの品位のなさ。品格のさなを嫌い、食の原料である生き物たち、あるいはそれを育んだ大地や自然、それらを加工する人々への感謝が「もったいない」精神を日本精神の根幹に置いていた。樹木を神とし、森を祀る神道の原点となった、日本の古代宗教も「もったいない」という自然への畏怖と尊敬が生んだものだ。

 所詮、人は他者のいのちを傷つけ、奪ってしか生存し得ない生き物であるがゆえに、その罪の贖いとして「足りるを知る」文化が根付いた。人は、「足りるを知る」ことによって、耐性を養い、資源を守り、競わない、諍わない間を社会に築いていた。私がいつも言う、自動車のハンドルの遊びに当たる部分だ。

 許しや曖昧さは決して日本人の欠点ではない。そのことによって人々は癒しを得ていたのだ。

 2008年は不安要因を抱えたアメリカ経済の影響が色濃く日本経済にも反映すると言われている。地球環境問題がこれだけ叫ばれながら、原油を投機の対象として買占め、価格を吊り上げている輩がいる。石油に頼らない水素燃料などが普及できない背景にも、石油資本と結託した、オイルマネーを影で操る資本家グループがいるからだ。

 自己の権利要求と表裏一体に他者を排除するクレーマーではなく、要求して当然というクレーマーでもなく、人間がよりよく生きられる社会状況や環境を侵害する力に対して、クレーマー足らんとすることがいま、私たちには求められている。

 目先の情報や物質に左右されるのではなく、寄り添い、ゆずりあうことのできる単純な社会。人々が共通に少しずつの自己犠牲を率先できる社会。そうした社会の新たな創造なくして、到来するであろう困難な世界状況、社会状況を乗り越える力は生まれて来ないのではないだろうか。


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