第19回 日本をダメにする公権力の建前論



 中小企業経営者の方で、融資の申請をして、最近、銀行保証協会からこんなことを言われた方はいませんか?

 税金の滞納がある場合、基本的に融資の対象外だが、税務署と相談し、毎月定期的に滞納している税金を納め、一年以内に完済の見込みがある確証があれば、融資の対象として認めることはできる。が、そうした実績がない場合は融資の対象外である。

 税務署とどのような話し合いをして、双方に齟齬のないように支払い計画が進んでいても、「定期的な支払い」という上記の実績が認められない場合は融資の対象とするわけにはいかない。申し訳ないがゆえに、まとまった時期にまとまって金額を納めることが認められないならば、小口にしてダラダラ支払ってていもよいということになります。

 かつては、税務署と話し合いができていれば問題ないと言われていたものが、突然、定期的な支払い実績を示せという文言になっているのです。これまで同じ条件で融資を受けていた企業が突然、融資不可と言われる理不尽な体験をします。肝心の税務署だってそんな要求はしていない。企業を倒産させようとは思っていないからです。

 銀行保証協会は、いつから税務署も言わないような、強権力の税務署になったのでしょうか?

 ましてや税務署と電話や面談などで、定期的な話し合いを行い、支払いができるときはできるだけ多くの金額を納め、まとまった金額が納められるまでは話し合いで一時、支払いをしなくても数ヶ月は様子を見ようと税務署担当者が企業経営の実態を配慮し、支払い実績による信頼関係の中で、猶予しているにもかかわず、そうした双方の話し合いの内容を斟酌する余裕もなく、ただ、毎月の定期的な実績がないというだけで、苦境から脱しようと努力している、中小の力なき企業を、税務署と話し合いができているにもかかわらず、融資対象からシャットアウトする。

 また、これまで、審査が通れば、保証協会によって全額保証だった融資が、各銀行も自己責任だから、融資の8割しか保証はできない。残りの2割は各銀行が保証しろという動きになっています。

 そうなれば、銀行側の審査がこれまで以上に厳しくなるのは当然で、保証協会に申請が上げてもられない企業も増えることになります。

 いまこうしたことが当然のように銀行保証協会の融資の審査基準になっています。

 しかし、こうした実状が個々の中小企業に明確な文書なりで通知されたことは一度もありません。融資の審査基準の細部などが個別に通知されることがあるはずもないのです。

 それをあたかも知っていて当然というように押し付ける。押し付けるなら正規の文書をと言いたくなりますが、それができないのは当然です。個々の事情により融資審査はあり、その融資判断は一律ではないからで、建前を主張しながら、それができない実状も本来はわかっている。

 そもそも、融資審査などというものは、人間がやるものである以上、一定の基準はあっても細部に亙る明確な基準など本来はないものです。保証協会の融資においても、担当者によって、要求する提出資料の内容や分量も全く同じというものではありません。おおまかな基準はあってもそれは運用する人間の人間性や人格、また相手の企業の法人格や将来性などによるものです。

 ゆえに、それぞれの担当者の判断には個人の裁量が許される、自動車のハンドルの遊びの部分があるわけで、それが内規にある文書とまったく合致しなくてはならないというわけでもありません。それが人間の仕事です。

 この保証協会の事例に限らず、調査権、裁量権、審査権を持つ公権力の硬直化は目に余るものがあります。

 それはなぜか。

 マニュアル化したもの以外、判断の基準となるものを経験的、体験的に官僚的責任者たちが何ひとつ持ち合わせていないからです。

 上から「この特例はなぜ?」と聴かれて、それに答える言葉=経験値=人間としての幅を持ち合わせていないからです。同時に、何か問題があれば、責任を取らなくてはとこれも成果主義を要求しながら、自分自身成果主義の網の目に囚われている人間の一人だからです。

 マニュアルに従えば、問題は起きず、内部正義は担保される。そのために、弱き者が不遇を嘗めることがあっても、それは自己責任であるがゆえに我々が関与する問題ではない。

 こうした建前論で、「これが正義」という名で、いま私たちの社会から多くのものが切り捨てられていっています。

 日本の刑事裁判では、一度起訴されるとそれが無罪を勝ち取ることは至難だというのが、いまの法曹界の「常識」です。

 生活保護の認定基準もしかり。格差の定着によって生活保護世帯は増加の一途です。すると公金の大盤振る舞いをやっているのは誰だと行政内部から非難がでる。かくて、認定基準のマニュアルは強化され、これまで認定されていた人が認定を受けられなくなる。

 そればかりか、不当に生活保護を受けている輩もいるから、認定基準の見直しは当然で、生活保護世帯への支給額も検討すべきという、生活には困ってないが苦しい世帯の人たちのやっかみと言える世論まで形成されていく。

 そこには、公権力、及びそれに準ずる権力を持つ人々が誰によって、自らの権力を与えられ、誰のためにその権力を行使すべきかというそもそも論が抜け落ちているからです。あるのは、組織の建前論と自分の職務をどう過不足なく、支障なくこなすかという立場論だけです。

 他者を見据えた視点が完全に欠落しています。

 防衛省の汚職問題は、いまに始まったことではありません。国土交通省も同様ですが、各省庁の中でも防衛省と国土交通省は膨大な予算を持っています。ちょっとしたサジ加減で、受発注が変わるという体質は、業界内では当然のこととされていました。

 私の専門である教育映像制作に関連するコンペなどでも、特定の企業が猛烈な営業をかけ、入札以前に業者が確定していて、アリバイとしてコンペをやるといったことは決して珍しいことではありません。

 つまり、まじめに努力し、正攻法で進んでも不遇を嘗め、仕事がうまくやれないということが起きる。

 一方で、内規に基づく正義を金科玉条のものとして、そうした悪しき行為によって企業経営がうまく行っている会社を優良企業とみなし、安心な企業として融資を優先させる。

 とりあえず、建前論に合致していればそれでよし。

 こうした姿勢が続く限り、まじめに仕事をしようという企業や人は少なくなり、要領よく、影で姑息な手段を使ってでもうまく公権力を利用しようという人間は有象無象に量産されるでしょう。

 自分たちは正義を行っていると確信して、自分たちの足元にある、あやふやな正義の実体に気づけないのも、マニュアル通りであれば問題ないという想像力の欠如した組織依存の体質が言わせているものなのです。

 この国を本当に変えるために、人々が発しなければいけないのは、建前の「正義」ではありません。日本と日本人の未来を考え、人間らしき「勇気」であり、決断を示すことなのです。


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