第17回 鏡の国の不安と不信


 ルイス・キャロルの童話、『不思議の国のアリス』に「鏡の国」の逸話があります。多面体の鏡の部屋に迷い込んだアリスは、自分の実体がどこにあるのか、自分の視界を過ぎる相手がどこにいるのかがわからなくなり、不安に襲われます。そして、出口を探しながら、右往左往し、さらに大きな不安に押し潰されます。

 一時期、舞台や映像の世界で、人間存在の不在感や不確実性、あるいは、生の喪失感を描くときに、この鏡の国の手法が演出としてよく使われました。

 そこに描こうとしたのは、私という存在は本当に「ここにある」のか。仮に、ここにあるとしたら、どの自己が本当の自己なのか。そして、自分がここにあるとして、自分の存在を承認しているのは、どの鏡なのか。言い換えれば、自分が存在する社会、世界はどこなのかという問いとその不毛性です。

 キャロルの「鏡の国」は、今日のような自己の存在証明の不確かな時代に、私たち人間は、個の存在や帰属する社会、世界をどう認識すればよいのかという問いを提起していたのです。

 人は自分の立ち居地がどこにあるのかという確認ができないと外界を認識できません。どこに歩めばよいのか、どう他者と関係を結べばよいががわからなくなります。簡単な言い方をすれば、中心点がなく、茫漠とした世界に放り出されてしまうのです。
 精神的疾患の多くは、この構図を持ち、あたかも鏡の国に迷い込んだアリス状態が脳の中に起きている現象です。

 他者との間合いが読めないために、他者とどの程度の距離があるのかを予測することができず、おずおずと様子を探るようにしてしか、意思疎通のための回路をつくることができません。いえ、そもそも、本当にその他者はそこにいるのか。自分はここにいるのか。それ自体に限りない不安と不信が生まれ、自己保全のために、外界とのコミュニケーションを遮断します。

 つまり、世界を認知することから撤退し、精神的疾患という形で脳の中に閉じこもるのです。

 では、脳の中に閉じこもらず、精神的に破綻することなく、日常生活を過不足なく生き、生活者、社会人として生きるために、この閉塞した状況を脱却するには、どうすればよいのでしょうか。

 いま、私たちの社会では次の二つの選択肢のいずれかを選ぶというのが当たり前のようになっています。

 一つは、鏡の国にいる現実を否定し、とりあえず、多数ある鏡の世界から1枚の鏡を選び、これが自己である、これが世界であると断定し、そうではないかもしれないという疑惑や疑念を遮断してしまう方法です。視野を狭くし、脇目をふらず、そこはかとなく感じている危機にも目を閉じる方法と言ってもよいでしょう。

 その典型がアメリカ主義。アメリカを日本人、日本社会を対象化するための鏡として選択し、多面的に広がる世界を見ようとしないことで、自己や社会に広がる混乱を回避するという志向です。

 テロ特措法の延長によって、自衛隊の給油活動を続けることしか国際貢献はないとする考え方も同じです。現実には、国際社会において、人道的支援として求められているものは、全く別のものでありながら、支援活動の現場の声を聞こうともせず、教育や技術支援では国際貢献ができないとする詭弁のもととなっているものです。

 もうの一つは、すべては幻想で実体などないのだと見極め、仮想世界を楽しむことで不安から逃れる方法です。

 アルツハイマー患者への差別発言をし、たいした謝罪もせず、安倍首相の退陣要求を強行に突破しようとして、結果、政局に大混乱を起した張本人でありながら、そこに自己批判もなく、時代が求める新しいリーダーの如く振舞う厚顔無恥な麻生太郎氏を自分たちの代弁者、スターとして祭り上げたのは、仮想世界に生きるアキバ族です。

 社会の現実、現実の向こうにある真実をみつめるのではなく、そこから撤退し、仮想世界に居場所をみつけ、その中だけで自己完結するというオタクたちが選択したのは、国家主義、アメリカ主義の麻生太郎氏だったのです。

 小泉政権以後、安倍政権の誕生の折、そして今般の総裁選においても、またぞろ、現実を直視する能力をもたず、政治のポピュリズムに翻弄される人々が多数、この国には存在し、あたかも政治参加、政治意識があるが如く錯覚しているという現実を露呈しました。

 多数の鏡に囲まれながら、自己の存在への不安や不信に負けず、多面的な価値、多面的なあり方を受け入れ行くためには、想像力が必要です。複眼的、多角的、立体的に自己を、世界をみつめられる多層の知識が必要です。それを獲得するための努力が必要です。
 
 しかしながら、自己の無知さに無自覚であることほど、この確たる世界を生き抜く上で便利な選択はありません。いずれにおいても、視野を狭くし、多くを見ない、見えない振る舞いをすることで、自分に迫る様々な現実を回避しようとする行為でしかないのです。

 自民党という官僚、財界、アメリカ政府の意向に支配され、改革を叫びながら、その実、独立独歩の自主性を発揮し得ない政党の中で、本来、リベラリストであり、バランス感覚に富んだ数少ない党内の優秀な人材であった福田赳夫氏が首相となって、その本来の人柄や能力を政治に反映させることが至難な理由もここにあります。

    
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