第16回 無知と無恥のラビランス                                      

 人は変化を望みながら、変化を怖れます。
 新しい何かと出会いたい、新しい一歩を踏み出したいと願いながら、新しい地平の先にあるものに怯えを感じます。

 そうした感情や生理はどうして起きてしまうのでしょう。

 以前、このコーナーの『逆転のラビランス』で、私は記憶色の例を挙げ、経験に縛られた脳のエゴイステックで、独善的な働きについて触れました。それはとりもなおさず、自己保全、自己保身のために、脳が体験によって蓄積された「安全」や「常識」の範囲を超えようとしないからです。

 それは、人が安心して日々、生き、自己の生命維持のためには時には不可欠な機能です。無作為に自分の身体を冒険や危険に晒すことは決して賢い生き方ではない。人間は生まれながらにそれを備え、場合によっては、根性なし、臆病者、卑怯者と言われても、要領よく、それを回避することのできる人を「賢い奴」「逞しい奴」、あるいは「大人」であることの証としてきました。いわゆる協調性です。

 そして、そう生きるための作法を「処世術」と呼び、処世術に長けた人が、いまふうに言えば、コミュニケーションスキルの高い人と評価してきたのです。

 しかし、いま、こうした安全で安心な状況をつくることで安定したコミュニケーション環境をつくろうという意志が、排他や排除の要因になっています。

 みなと同じで、互いのコミュニケーションに齟齬のない関係を築くために、人がまず望むのは横一線の関係です。他者と同じであること、他者から見られたとき、自己が他者より前へ出ていないこと、それが最初の判断基準となります。

 ところが、一方で、社会が成熟化し、人々の生きる指標が曖昧になり、生き方そのものが多様性になってくると、画一的に横一線の関係であるためには、ある限られた人々の狭いコミュニケーションの輪がなければ成立しなくなっています。

 本来、こうした輪は、同じ嗜好、趣味、生き方の価値観を共有する人々によって成立するものですが、他者との関係性が希薄となり、他者への不信や不安を前提とした今日の社会では、それがどこまで等質、同質のものかに限りない不安があります。

 そこで、処世術が求められます。

 自分の意志に反していても、自分の望むものではなくとも、また、他者への限りない不安があるがゆえに、とりあえず、絶対数の多い輪の中にいるという素振りをすることで、安全、安心であることの保証を得ようとするのです。

 実は、これが、子どもたちの間に広がっているいじめのひとつの要素で、いじめを観客として助長する観衆、あるいは見て見ぬふりをする傍観者を生む感情なのです。

 しかし、子どものいじめ問題として語っていなくても、いままで述べてきたように、こうした安全、安心なコミュニケーション環境を求めているのは、大人である私たちの社会の姿であることは明らかです。

 自分たち社会の安心、安全を得るために、人が起す行動は、常にこうした矛盾が伴い、油断すれば、そうした人々の思いが格差や差別、それゆえの排除の原因となります。

 脳が認識する世界は、実は自己の狭い経験と認識の産物でしかないという自覚があれば、そこに、戒めも生まれ、他者との安全で、安心な関係とは、自分のいる世界の人々と巧みな処世術によって軽薄な対話を積み重ねることではないことが理解できます。それによって、自らが知らぬ間に、他者の安全を奪い、人権さえ蹂躙している事実に直面できるはずなのです。

 アルツハイマー発言で顰蹙を買い、秋葉原のオタク文化と協調しているように装う人間を党の幹事長に据え、依然として、岸信介ばりの国家主義を唱え、戦後レジュームからの脱却を言い続ける安倍首相は、こうした今日の社会が抱える問題に無知です。

 しかし、これは安倍首相に限ったことではありません。民主党の前代表でありながら、テロ特措法に反対するのはいかがなものかとあたかも自分には国際感覚があるがごとき主張をする軽薄な前原前民主党代表もしかりです。

 行政の中にも、企業の中にも、地域社会の中にも、いまの社会が抱えている生理的な感情を理解できず、コミュニケーションスキルが高まり、それによって、人々の輪が生まれれば、すべてがうまく行くものだと思い込んでいる人々が多く存在します。

 人は己の無知に気づかなければ、無恥のままです。

 同時に人は、どのような人であれ、仕事や生活を通じて他者へ影響を与えながら生きています。無知の集合体が無知を理解できず、それを正義の輪としたとき、私たちの社会、国家はまた何年か後、何十年か後、自分たちの国の生き方を恥としなければならないときがきます。


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