第15回 存在の耐えられない軽さ                  


 自分という人間の矮小さ、軽薄さ、歪さ、愚かさと出会うことで、人は、いまの自分を脱皮し、確たる何かを持てる自分になりたいと欲求します。

 人は自分の愚かさを知ることで、他者の弱さを受け入れ、理解することもでき、人間が人間であるがゆえの脆弱さをいとおしいとさえ思うことができるのです。
 
 宇宙の神秘や大自然の力、偶然の運命という見えない力の前に人は実に無力です。だからこそ、人がそこに生きているという事実は、それ自体が素晴らしいことであり、その生がどのようなものであろうと可能な限り、互いの愚かさを受け入れるという精神が必要になります。

 そこにこそ、人が集うことで生まれる軋轢や対立、紛争、諍いを解決できる基本的な道筋があり、その可能性を信じるところにしか、人の未来はないと言ってもよいほどです。

 しかし、この単純なことが、理解できない人々が増えています。

 宗教的な言い方をすれば、己に執着し、利己の心だけで他者や世の中を見ることしかできない人々です。

 もちろん、人間は本来利己的な存在に過ぎません。場合によっては、その利己心が人々を、世界を幸福に導くことすらあります。一人の研究への執着がいのちを救う新薬の開発につながるというように。
 
 しかし、そこにあるのは自分は人々の幸いのために、何かを犠牲にし、すべての責任を引き受けるという思いや人々が求めている幸をとは何かに謙虚に耳を傾ける気持ちが不可欠です。

 己は未熟であるがゆえに、我執のみに囚われてはいないかという気づきと振り返りが必要なのです。

 いま述べたようなことが世の中のすべての人々、とりわけ、政治や経済、教育などの分野で理解されていないのか。

 それは、市井を生きる私たちの声にならない心の声をそうした人々が聞こうとしていない、聞こうとしていても、無心になって聞く心を育まれていないからです。

 今般の参議院議員選挙では、さすがにこれだけ生活苦や疲弊した庶民生活の怒りが消極的ではありますが、政治に反映されました。

 にもかかわらず、安倍晋三首相は、頑なに政権に固執し、退陣しない自分の選択がいずれ国民のためであることがわかるときが来ると語り続けています。

 多くのマスコミや論者がそれを批判したり、また、消極的に擁護していますが、安倍氏の精神、思考の構造は、いま決して安倍氏一人のものではなく、私たちの生活の様々な場面で頻繁に出現している事象なのではないでしょうか。

 己の正しさのみを主張し、そこに自己を深く見つめ直す姿勢も、己の愚かさを知り、他者の愚かさに寛容になれる人間の絆を見失っているのではないでしょうか。

 きれいに整理され、汚いと思われるもの、臭いと思えるものを歪なものとして排除するいまの社会の姿そのものが、私には安倍氏の姿と重なってしまうのです。

 安倍氏自身が実は、自分も自覚できない心の深層で、自分の存在の耐えられない軽さに気づいているのかもしれません。それを前頭野で自覚できないのは、彼が幼い頃からそうした教育を全く受けていないからです。

 そして、その姿は、いま社会の中心にいる多くの大人たちにも言えることかもしれません。


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