蜃気楼の彼方へ                   秀嶋賢人


 脳が認識する世界は主観の産物でしかない。記憶は自分が自分であるために自ら創り上げた幻想でしかないのだ。だとしたら、ぼくらはどこに真実を見出せばいいのか…。

 
 石黒圭一(53)は妻の文子(50)、娘の由梨(17)と箱根に来ていた。旧道を歩き、ケーブルカーに乗り、遊覧船で遊んだ。そして、湖に臨むホテルのレストランで食事をした。圭一が退院して、初めての「家族」の外出だった。


 文子と圭一が結婚する前、由梨が幼かった頃、よく出掛けた場所だからと文子は説明した。文子はカメラが趣味らしく、当時撮った写真まで用意していた。証拠を突きつけられるような息苦しさはあったが、医師にこうした体験をさせることが圭一の症状の回復には有効だと示唆されてのことだ。しかし、圭一に家族の記憶は蘇らない。

 こうやって食事をしていると自分たちはどこにでもいる普通の家族に見えるだろう。圭一は、周囲にそう見られることに気後れを感じた。そして、外出を心から楽しんでいる二人の姿がまぶしく、心苦しかった。
 
 隣のテーブルに座る家族連れは、幼い子どもに手を焼いている。目が合って、文子や由梨が笑顔で返す。「由梨が小さいときもあんなだったものね」。懐かしそうに振り返る文子の言葉に反応できない自分がいる。その家族の向こうにホテルの庭園が広がっている。見ると一本の白木蓮が大きな花をいっぱいに咲かせていた。なぜか、圭一の心はそれに惹き付けられていた…。

 圭一は、その鮮やかな風景をどこかで見たような気がした。そのとき、いきなり自分に向かってシャッターが切られた。

 目の前にカメラを構え、あの女が座っている。20代の後半くらいだろうか。長い首に色白で面長の顔立ち。深い色をした大きな眼と印象的な眉と唇。華奢な肩から鋭角に切れ込んだ、薄いニットのブラウスの谷間から、形のいい乳房の谷間が覗いている。

 「いま、すごい深刻な顔してたよ。口、こぉーんなにして。あの、なんだっけ、魚? こぉーんな口した」。圭一が答える。「アンコウ?」「そう。そう。あれみたい!」と、女は外見とは裏腹に10代の少女のように笑い、またシャッターを切ろうとする。「やめろよ…」。圭一がそう言った瞬間、女は消えていた…。

 事故の後遺症で、意識が戻ってから現実の時間と違う一瞬が圭一を襲う。いつも現れる女は同じだ。しかし、それが誰なのか、圭一にはわからない。

 「どうしたの、お父さん?」。由梨が聞いた。「いや」。圭一がごまかそうとすると「生きてるっていいわよね。あんなにきれいな白木蓮を見ることもできるんですもの」と文子がしみじみ言った。そして「ね。あの木の下で写真を取りましょうよ」と立ち上がった。圭一はいつもなら自分の変化を見逃さず、「大丈夫?」と声をかける文子が何も訊かないことが気にかかった。そして、「あの木の下で写真を取りましょうよ」と言ったこの場面を以前にも体験したような気がしていた。


 圭一が事故に遭ったのは3週間ほど前のことだ。高速道路のトンネルの中だった。トラックの荷台から滑り落ちた資材が原因で起きた七重衝突。衝突と炎上で死者3人を出したその事故から圭一は生還した。衝突のときの衝撃で、意識を失っていたが、頭部打撲と鞭打ちで済んだ。奇跡的な生還だった。


 だが、目覚めた自分に突きつけられたのは、石黒圭一という男の現実だった。妻子がいることも、飲料メーカーの宣伝部次長という肩書きも、自分が53歳であることも自覚にない。あるのは10代の頃までのおぼろげな記憶だけだ。
 これは、ベッドに横たわる自分が昏睡状態の中で見ている夢ではないのか。自分は誰なのか。何をしてきたのか。そして、あの女は誰なのか。

 夜、寝ていると夢を見る…。

 迫ってくるトンネルの闇。衝突の瞬間、何かが自分に覆いかぶさる。救出に来る消防隊や救急隊の姿。ストレッチャーの上から、変形した自分の車が見える。自分が座っていた運転席に倒れている人間がいる。あの女だ! 車が炎に包まれていく。あの人を助けなくては…。それが声にならない。

 「また、夢を見たんですか?」。うなされて、ベッドから起き上がり、街灯の明かりが差し込むリビングで立ち尽くしていると文子が心配そうに声をかけた。医師から睡眠薬をもらってきているが、圭一はあえてそれを飲まなかった。

 「フラッシュバックや夢の中で、失った記憶の断片が幻覚のように襲ってくるということがあります」。医師はそう言った。圭一はそれが記憶の手がかりなら、不眠や幻覚に悩まされていいと思っていた。


 圭一には文子が広げる古いアルバムや色あせた手紙が語る現実と幻覚や夢に出てくる判然としない記憶がある。圭一は、自分の状態に気づいてから幻覚の断片を拾い集め、記憶の糸を手繰り寄せようと決心していた。それをしないと永遠に自分と出会えない気がした。

 「ぼくは本当に一人で事故に遭ったんでしょうか…」。それは幾度も文子たちに尋ねてきたことだ。圭一は、事故のとき、誰かがかばうように覆いかぶさって来た感触がある。もしかしたら、自分はあの女と一緒だったのではないか。しかし、誰もそうだと言う者はいなかった。
「明日からあちこち訪ねてみるっておっしゃってたでしょ。体を休めておいた方がいいわ」。文子は圭一の肩にカーディガンを掛けると質問に答えず、寝室に戻って行った。その問いが文子を傷つけるものだということを推し量れるだけの記憶がそのときの圭一にはなかった。


 「じゃ、悪いが、仕事があるから。後は石倉君が案内してくれる」。松居陽介(57)はそう言うとレシートを掴み、宣伝部の石倉一樹(30)を残し、喫茶店を出ていった。


 圭一と営業部長の松居は、大学の先輩後輩で、親しい関係にあったらしい。松居は、入院中、何度か見舞いに来た。圭一の症状を知ってからは、失った記憶が戻ればと圭一の部下の鴇崎由美(35)や石倉を連れて仕事の資料を見せに来てくれた。だが、それも効果はなかった。

 記憶が戻らない自分が会社に復帰できるわけがない。それでも会社を見れば、何か糸口がみつかるかもしれない。そう思い、仕事に復帰できる状態でもないのに、松居に無理を言って、圭一は職場を訪ねた。圭一にとって手がかりはそこにしかなかった。圭一が使っていた携帯電話やシステム手帳など、個人の情報が詰まったものは事故のとき、焼失していた。

 「退院の挨拶ということにしておこう」。松居はそう言って、上司や同僚、部下たちへの挨拶回りに付き合ってくれた。社内の人間たちの態度は余所余所しい。気遣ってくれているのはわかる。だが、圭一にはそれが一層居場所をなくさせた。松居はそれを察して、圭一の机にあったものを石倉にまとめさせ、喫茶店で話そうと外に連れ出した。

 松居が去ると石倉は持ってきた資料を出し、「同行します」と言った。石倉は代理店や制作会社のリスト、付き合い先の名刺類を持って来ていた。それから数日間、圭一は石倉に案内され、発注先や行き着けの飲食店を訪ねて歩いた。

 圭一は、慌しいスピードで働いている石黒圭一の仕事の一端にふれ、ふと、自分はこの日常をどんな気持ちで生きていたのだろうと思った。満員電車に揺られ、打ち合わせに追われ、人に追われ、時間に追われ、夜、歓楽街でささやかに疲れを癒し、夜遅く1時間かけて郊外の家へ帰る。その繰り返しの毎日をどう思って生きていたのだろうか…。

 歩いていると、泉谷しげるの『春夏秋冬』という歌がどこからか聞こえていた。♪季節のない町に生まれ、風のない丘に育ち、愛のない人に会う。やっとみつけたやさしさは、いともたやすく、しなびた…。

 石倉が、それは圭一が仕事の打ち上げなどでよく歌っていた唄だと教えてくれた。そして、鴇崎たち女性スタッフに決まってル・クプルの『ひだまりの詩』や高橋真利子の『ごめんね…』という歌をリクエストしていたと言った。どんな歌だと訊くと石倉は、「女性の悲しい恋の歌です」と答えた。圭一には記憶がなかった。

 繁華街の街を歩いているとそれまで以上に女の幻覚と出くわした。


 突然、自分の前に立ちはだかり、「ね。ここでキスして」と声をかける。圭一の足が止まる。「なに? 恥ずかしいの?」「恥ずかしくなんかないさ」「じゃ、して」。圭一が女を抱き寄せようとすると「いやよ」と言って体を引く。「なんで?」「あなたの困る顔が見たかっただけ」。そう言って、腕に手を回し、やはり少女のように笑っている。

 自分はこの女と街を歩き、共に時間を過ごし、深い関係を持って生きていたに違いない。しかし、その女とつながる確かな痕跡はどこにも見つけられなかった。


「どうだ。気は済んだか?」。しばらくして、松居から呼び出された。石倉をこれ以上付き合わせるわけにもいかないらしい。松居は、家で療養することを勧めた。「わかりました。後は、自分ひとりで…」。その言葉に松居の表情が険しくなった。「文子さんや由梨ちゃんとの時間を大切にした方がいい」。言葉は穏やかだが、その語気は強かった。そして、もう圭一が職場に復帰できる可能性はないのだからと続けた。圭一の処遇が決まったらしい。

「これからの生活のことを考えろ。いつまでも幻覚や夢に振り回されるな」。確かに松居の言う通りかもしれない。記憶はないにせよ、本来はそれが夫としての勤めなのだろう。だが…。


「定年が近づく俺たちの歳になれば、どこかに忘れ物をしてきたような虚しさがないわけじゃない。だから、いろんなことを考える。すべてを捨てて、何か別の夢をみたくなるときもあるさ」。松居は何か言いたげに見えた。「だからって、いまを投げ出すわけにはいかないんだ。人間はいくつもの人生を生きられるわけじゃない。だから…」。松居はそこで口を噤んだ。
「松居さんは、何がおっしゃりたいんですか?」。そう圭一が訊くと、「けなげにお前を支えている文子さんのことが可哀想なだけさ」とだけ答え、それ以上は語らなかった。

 警察から連絡があったのは、それからしばらくしてのことだ。火災で焼けたと思われていた、圭一のバックが解体作業中にみつかった。連絡を受けたとき、文子は写真サークルのグループ展の準備で留守にしていた。圭一は書置きをし、警察へ向かった。炎上したのは他の車だった。だが、圭一の車は事故調査のため3週間も保管され、解体作業へ回されたらしい。シートの下深く滑り込んでいたバックはすぐに発見されなかった。

 ワイシャツなどの衣類。髭剃りや歯ブラシ。携帯電話、仕事関係の書類、システム手帳、パスポート、財布、使い終わった上海への往復エアチケットの控え。そして、国際郵便の小包封筒…。

 その中には、マンションの鍵らしいものとDVCのビデオのテープが入っていた。パスポートをめくると出入国欄には、事故に遭う数日前まで上海に滞在していたことを証明する刻印がされていた…。


 封筒の宛名は圭一宛てだったが、住所は会社になっていた。圭一の会社は上海にも営業所がある。その関連のものかと圭一は宣伝部に連絡を入れた。電話に出たのは鴇崎だった。「次長が上海に出張で行かれたたことはありません」。「じゃ、休暇で行ったんでしょうか? 誰からもその話は聞いていないんだけど…」。鴇崎は圭一の問いに沈黙した。

 鴇崎との約束の場所に行くと石倉もいた。「実は、次長…」石倉が切り出し、鴇崎が続けた。「次長は、事故の前、1週間ほど無断で欠勤されていました。奥様もそれはご存知なかったみたいで…」。石倉が松居をかばうよう言った。

「松居部長から欠勤についてはふれないようにと言われていました。後で病欠扱いに操作した関係もありますが…。次長を気遣ってのことだと思います」。会社の人間が余所余所しかった理由が理解できた。鴇崎は、「上海に行かれていたことは誰も知りませんでした。部長も奥様も。それは間違いありません」と断言した。そして、鴇崎は圭一が欠勤する少し前、パル方式のビデオを業者に言ってNTSC方式に変換させていたことを教えてくれた。
 圭一は部下に愛されていたのだろう。二人はビデオが観られるスタジオまで案内してくれた。


 圭一はオフラインブースで一人、ビデオを観た。予測していた通り、ビデオに現れたのは、あの女だった。

「手紙を書きたいけど、日本語書くのは苦手だから。知ってるでしょう? もう、忘れてるかもしれないけど」という言葉で始まっていた。しかし、「お願いがあります…」と言ってすぐに言葉に詰まるとその後、何度も途中でカットされ、必死に、要件とその理由だけを冷静に伝えようとしていた。


 5年前、圭一と別れた後も日本に一人でいたこと。上海に帰省して病気になり、1ヶ月以上戻れず、いつ戻れるかもわからないこと。だから、部屋にある大切なものを届けて欲しいこと。圭一は、まるで遺書のようだと思った。そして、最後は笑顔で笑う彼女の映像で終わっていた。病気で弱っている自分を必死に隠そうとしているのが一目でわかる。言葉にこそしてなかったが、圭一に会いたい思いがはっきりと伝わって来た。圭一以外に要件を頼むことができる友人や知人はいるはずだ。会いたいと素直に言えない。記憶は欠落しているとは言え、その思いに哀しさが込み上げた。圭一は、その日から数日、自宅へ戻らなかった。


 文子は圭一の書置きを見て、圭一がきっと記憶を取り戻すと思った。それは文子が望みながら、そうなって欲しくないと心のどこかで願っていたことだった。

 一月以上前、突然いなくなった夫が何をしていたのか、文子にはわからない。しかし、その瞬間、5年前、圭一が自分に好きな女性がいると告白したときのことを思い出した。

「彼女を支えたい」と圭一は言った。日本企業に勤める中国人の男性と結婚し、暴力を振るわれ、離婚した。しかし、慰謝料を請求され、いまはファッションスクールに通いながら、その返済のためクラブ勤めをしている。上海出身の女性だと言った。

 圭一の心がそのずっと前から他の女性に行っていることはわかっていた。圭一は、その数年、文子を抱こうとはしなかった。その女性がどういう女性かは知らない。しかし、圭一は器用に恋ができる男ではない。学生時代から圭一のことを知っている文子にはわかる。誰かを好きになるときは本気にしかなれない人だ。だから、妻である自分に心でも体でもウソをつけない。その正直さが時には残酷なことも考えず…。

 やり切れなくて泣いた。だが、そんな思いを自分にさせてでも打ち明けたのは、彼女が魅力的な女性だからに違いなかった。

 学生時代から小説の投稿をし、フリーのコピーライターをしながら、夢を追っていた圭一が、結婚を契機に大学の先輩の松居を頼りに就職した。家族のために家を買い、宣伝部の責任者になった。だが、どこかで、埋められない何かを感じていたのだと思う。

「若い頃の君に似ていたんだ…」圭一がその女性のことをそう喩えたとき、さすがに圭一の頬を打った。初めてのことだ。それは文子にとって、自分の老いを突きつけられることだった。

 だが、間もなくして、「彼女はいい男性とめぐり合って上海に帰った。いままで寂しい思いをさせてすまなかった」と圭一は文子に詫びた。しかし、圭一の恋がそれで終わるとは思えなかった。そして、自分たちは男と女の関係ではなく、別の何かをお互いが信じない限り、一緒にいられることはないだろうと思った。写真を始めたのはその頃からだ。いつか、圭一はその女性のもとへ向かう。だから、それまでに圭一と家族の思い出を写真という記憶に留めて置きたかった。

 あの時から仕事だけに没頭していた圭一が、突然いなくなるということは、文子にとって、上海の女性との間に何かあったとしか考えようがなかった。



 圭一は、新宿の大久保駅で降り、百人町を歩いていた。システム手帳の最後の擦れたページに、「利香」という名と「百人町パレスマンション」、それに電話番号の書かれている箇所をみつけた。それを頼りに彼女の家を探した。


 自動販売機のある路地の入り口辺りに来たとき、マンションの前にある駐車場に自分が車を停め、彼女を待っている記憶が過ぎった。車の運転席からいつか見た、ニットのブラウスとベージュのスーツを着て、彼女が出てくる…。
「あなたからもらったプレゼントで、一番大切なもの」。ビデオの中で彼女はその服のことをそう言っていた。何かに導かれているような感覚だった。入り口を入り、階段を上がり、廊下に出る。彼女の部屋へ近づくに従い、記憶が蘇っているわけでもないのに、胸が締め付けられるようなせつなさで鼓動が高鳴った。


 圭一は、ビデオと一緒に入っていた鍵で彼女の部屋を開けた。ワンルームの狭い部屋だった。自分と別れた後で、5年もの間、この部屋で彼女はひとり暮らし続けていたのだ…。

 20インチのテレビ、化粧道具、ソファベッド、夥しい服、CDデッキ…。服以外は質素なものばかりだった。1ヶ月前、自分は彼女が届けて欲しいというベージュのスーツ。『ひだまりの詩』『ごめんね…』の2枚のCD。圭一が撮影した、彼女だけが写っている写真を取りにこの部屋に来た。そして、上海へ誰にも告げず向かったのだ…。

 圭一がそう思いながら部屋を見回していたとき、唐突に記憶の波が圭一を襲った。凄まじい速さで脳裏を映像が走る。そのとき、利香の柔らかで、やさしい肉体のすべてが、その感触が、匂いが蘇った…。

 「好きって言えよ」「あなたが言って」。「お前から言え」「お前だ。お前から言え」。
 激しく抱擁し、一つになったまま、相手の全部を抱き締めようとそんな会話を幾度も交わした。利香はいつも圭一の口真似でそのまま返した。「俺の女だって言え」「俺の男だって言え」。10代の子どものように、相手のすべてが欲しかった。
 幼い兄弟同士のような喧嘩を繰り返し、微妙な言葉のニュアンスが伝わらないことに苛立ち、利香は「あなたなんか、大っ嫌い!」と叫んだ。圭一は、そんなとき、抗う利香の体を強引に抱き締めた。素直に愛していると言えない二人だった。体で確かめ合う二人だった。16歳という年齢の差を越えて、互いの幼さを愛し合った。利香は圭一だった。圭一が利香だった。二人でいることで、自分を確かめられた。人知れず、抱いていた互いの寂しさが出会うことでわかり会える、世界でただ一人の人だった…。


 いままで、圭一を襲っていた記憶のパズルが大きな一枚の絵になっていた。そして、圭一はその場に座り込み、号泣した。利香はもうこの世にいない。その事実を圭一は二度も味わった…。



 「あなた、日本人じゃないみたい」。それが圭一が覚えている最初の言葉だ。「外国人クラブは嫌いなんだ。外国人が嫌いなんじゃないよ。日本のクラブで相手にされなくて、外国人の店なら見下せると侮って来ている人間がいる。そんな奴らを見るのが日本人として恥ずかしい。だから、ここに来てる日本人が嫌いなのさ」。「でも、全部がそうじゃないでしょ? あなたみたいに…」。利香は最初の言葉に続けてそう言った。発注先の接待に無理やり付き合わされ、行くことのない外国人クラブに行ったときのことだった。

 利香は、新生活の夢を描いて来た日本で失敗し、外国人というだけで冷たい視線に晒される悔しさを味わっていた。水商売の世界で、露骨に体だけを求める日本人の男たちにうんざりしていた。毎日がただ生活するために慌しく過ぎて行くだけの毎日…。それは、二人の共通した思いだった。圭一と行く、映画やレストラン、バー、いままでやったことのないボーリング。そんな些細なデートが返済に追われていた利香にとって、日本での初めての体験だった。

 圭一は10代の頃のような気持ちに変えてくれる利香の存在がいとおしかった。利香といると失った時間が蘇る感覚に包まれた。そして、男と女になった。しかし、利香は、しばらくは自分のアパートには圭一を入れようとはしなかった。残る思い出はつくりたくない。私たちは、蜃気楼のようなものだからと利香は言い続けた。一緒になりたくても、なれない。いつか別れが来る。そのときの準備をそのときから利香はしていた。だから、二人でいるときはできるだけ楽しくしようと明るさを演技した。


 留年しながら延長を続けてきた留学ピザが切れる頃、利香は、店の常連になっていた中国人の男性に抱かれた。そして、彼と上海に帰るからと言って、圭一に別れを告げた。だが、それは哀しいウソだった。

 圭一は利香だった。利香は圭一だった。別れの辛さの傷を利香は圭一に残そうとして、圭一以外の男に体を委ねただけだ。利香の傷は圭一の心の傷になった…。別れる頃、利香はいつも圭一にカラオケをせがみ、ル・クプルの『ひだまりの詩』と高橋真利子の『ごめんね…』を歌い続けていた…。



 「私たちって、ほら、海とか砂漠とかで見る、あれ? 日本語でなんだっけ? 忘れちゃった…」「蜃気楼?」「そう。そう。あれみたいなものよね。本当はないの。どこまでいっても手にふれることができない。そうでしょ?」。

 利香が入院していたのは、上海郊外の海が見える病院だった。海に向かって並んでいる、車椅子の利香と圭一の背後に白木蓮が花を咲かせていた。

「あなた、奥さんが写真を撮っているの、どうしてだかわかってる?」。利香は急に文子のことを口にした。
「あなたがいついなくなってもいいようにしたい。だから思い出を残したい…」。圭一は利香が言っている意味がすぐにはわからなかった。
「私は違う。あなたがいついなくなるかわからないから、写真はとらない。あなたの匂いやあなたがいたことも残したくない。だから、写真は自分が写ってる写真しかいらないの。それに私、きれいだから」。私、きれいだからという利香の口癖を久しぶりに聞いた。
「わかってるんでしょ? 私はもう死ぬの」。利香は、普段と表情を変えずに海の方に顔を戻して言った。そして、「ね。やっぱり蜃気楼だ!」とそのときできる精いっぱいの声で叫んだ。


 それから二日後だった。

 利香の病室から岸壁の近くにある白木蓮が見える。心地よい風が窓から吹き込んでいた。「俺のこと、好きかい?」「ううん。あなたなんか、大っ嫌い」。利香は、いつもの少女のような笑いを浮かべようとしたが、目元で薄く笑う力しか残されていなかった。「ね。私、いけないことしたから、そのお詫びにあなたを守ってあげる」「いけないこと?」「忘れたの?」。そのとき、圭一は利香が別れる頃、歌っていた高橋真利子の『こめんね…』という曲のことを思い出した。「あなたをきっと守ってあげるから。今度は私が、<ひだまり>になってあげる。だから、許してね」。利香はそう言うともう二度と口を開かなかった。

 文子の言っていることは本当だった。自分は一人で事故に遭ったのだ。トンネルに吸い込まれ、衝突の衝撃から守ってくれたのは、生きている利香ではなかった…。




「あの人との思い出には勝てないことはわかっていました」。自宅に戻った圭一は、文子に1ヶ月前、何があったかを話した。文子は、圭一が驚くほど冷静だった。そして、上海にもう一度行って来ようと思っていると告げると「あなたの気の済むようにしてください」とだけ言って奥の部屋に消えた。

 圭一はその数日後、上海に向かった。1ヶ月前と同じ道を辿り、利香が入院していた病院を訪ねた。あの白木蓮を見たいと思った。しかし、利香の中国名、黄尉蒼さんと言う人は入院されていませんというたどたどしい英語の返事しか返って来ない。利香の上海市内の家も別の住人が住んでいる。利香の痕跡がどこにもない…。日本に戻り、利香のマンションの部屋を訪ねた。そこには別の住人が住んでいた…。圭一は混乱した。マンションの入り口を出るとその脇に白木蓮が1本立っていた。圭一はそのときそれに始めて気づいた。花は既に落ちかけていた。

 文子はその頃、写真サークルのグループ展の会場にいた。出品していたのは、5年前、圭一との関係を少しでも修復できないかと家族で出掛けた箱根で撮った写真だった。ホテルの庭に咲く、満開の白木蓮の木だ。そこには、その木をじっと見つめ続けている圭一の寂しい背中が入れ込んであった…。

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