第13回 聖戦


 ドイツの社会学者マックス・ウェバーは、「宗教とは何か」と問われたときに、それは「Ethosである」と答えたと言います。
 
 エトス、英語のエシックスは、日本語で「倫理」と訳されることが多いのですが、実は「人間の行動様式を規定するもの」というのが正しい訳です。つまり、ウェバーは、宗教とは人間の行動様式を規定するものだと言いたかったわけです。

 それはなぜか。

 みなさんもよくご存知のように、宗教には儀礼・儀式が欠くことのできないものとして存在します。

 礼拝の決まり、洗礼の儀式、あるいは、読経の作法、冠婚葬祭の進行と所作…。イスラム教では屠畜の作法まで規定されています。

 それは、神仏、あるいはそれ以外の人間の力では及ばぬ何者かと通信し、人間の願いや思いを届け、何者かの庇護と恵み、慈悲や慈愛によって、救いを得るためであり、そうした自分たち人間の力で及ばない、見えざる何者かへの畏怖、畏敬の念を示すためのものです。

 そして、こうして生まれた所作、行動様式は、宗教的儀式の枠組みにとどまらず、私たちの日常生活に定着して行きます。
 
 礼法、作法というのは国、民族によって違いがありますが、その根源にあるのは、宗教的行動様式です。かといって、格式を伴うものにおいてそうであるばかりでなく、食事の作り方、食事の仕方、睡眠の取り方、果ては排泄の仕方、セックスに至るまで、この行動様式は身体性として私たちの体に深く浸透しています。

 私たちは普段、全くと言っていいほど、意識していませんが、私たち日本人の行動様式には、天皇を神としていた頃の様式が多数見られます。相撲、槍術、弓道、剣道、柔道といった武道。華道、茶道、泳法なども同じです。

 いわば、日本人には日本人にしかない身体所作があるということです。これは、同じモンゴリアンでありながら、韓国、北朝鮮、中国、モンゴルなどの人々と私たちの身体所作が異なっていることからもわかります。

 しかしながら、明治以後、西欧化を進め、敗戦後はアメリカ化を進めて来た日本においては、日本人の行動様式を規定するものが意図的に排除されて来ました。

 その結果、日本人が古来から受け継ぎ、日本人の美意識と倫理感を形成していた、見えざるものが失われ、拝金主義や物質主義に傾注するあまり、社会のモラルハザードが日常的なものになってしまっています。

 あのアメリカですら、プロテスタンティズムを継承しているにもかかわらず、日本には人々に高い倫理感を形成させる基軸となる神の理念がありません。

 もし、そうした理念がなくとも、市民革命を体験していれば、まだ、合理的に欠落した見えざるものへの畏怖を代替させるシステムを構築できていたかもしれません。

 しかし、それすらなく、ただ戦前懐古趣味的な「美しい国」づくりという美名だけ並べ、憲法をいじり、自衛隊を軍隊化させれば、社会の倫理が再構築できるように錯覚するしかできないのが、いまの私たちの国の現状です。

 携帯サイトやインターネットに無防備に子どもを晒し、あるいは、未成年者を性的な商品としてブラウン管に提供しても何ら規制のないこの国のどこが美しい国なのでしょう。

 会津若松で起きた母親殺害事件は、神戸連続児童殺害事件、いわゆる酒鬼薔薇聖斗事件と類似が指摘されています。

 とりわけ、人々の関心を呼んでいるのは、首を切断し、これを神への貢物としているところです。

 自分が創り上げた神のために人間の首を捧げるという宗教的儀式を殺害の動機としているのです。言い換えれば、そうした虚構を用いなかれれば殺人を犯すことができなかったということが言えます。

 その点で、いま起きている動機不明の少年による殺人事件と比べると非常に古典的です。しかしながら、極めて古典的とも言えるこうしたフレームの持ち方が、まだ、成立する状況があることに大人たちはもっと敏感であるべきでしょう。

 酒鬼薔薇は中学入学時点からいじめに遭い、母親から虐待を受けていたことは既によく知られています。これは私の予測ですが、今般の高校生が自分が他人から排除された、あるいは、排除されていると感じ、自己の尊厳を自分が創り出した「神」の承認によって得ようとしていたと考えられます。

 酒鬼薔薇がそうであったように、今般の高校生にとって、母親殺害と首の切断は、神なきこの国への聖戦だったのです。

 これは、決して、殺人の罪を美化しているのでも、その正当性を主張しているのでもありません。

 こうした子どもを生む、倫理の欠如した国のあり方を私たち大人は謙虚に反省しなくてはならないと言っているのです。

 倫理とは厳しさと同時に、他者へのいたわりや思いやり、弱きもの、声なきものの思いや苦痛を察し、共にあることに心血を注ぐことのできる社会の礎です。

 格差やむなし。自由競争の勝者は正しい。地方と都市の格差は発展への創意を怠った地方の責任で、地方の空洞化は自業自得などと平然と主張する輩のどこに、いま、述べた倫理があると言えるでしょう。

 この地上に強き者だけが生きる社会などありません。強き者だけで成立する国もありません。弱者と共にあることでこそ強き者は学び得、強き者としての社会的使命を生きられるのです。

 その問いを会津若松の事件は再び私たちに提示しています。



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