第1回 構えと形、決意について




 
みなさんは、オーディションの選考者の前、舞台の観客の前、カメラの前に立ったとき、どのような「構え」を持っていますか? どのような「決意」で臨んでいますか?

 私は、これまで多くのワークショップで俳優、タレント、あるいはその卵と言われる方たちにそう尋ねて来ました。そして、その多くが、構えや決意などと問われて、困惑の表情を浮べます。あるいは、純粋に、私の問いとはちくはぐな答えを返してきます。いわく「自分の個性を最大に表現します」。「役になり切ります」。それは、まるで、いままで、プロダクションのマネージャーやワークショップのえらい先生たちに教えられた言葉をオウム返しに答えているように私には聞こえます。

 そこで、私は、さらに、こう尋ねます。「個性を表現するということはどういうことですか?」。「役になり切るとはどういうことですか?」。そして、再び、沈黙の時間が流れます。

 私は、テレビで求められている演技、舞台で求められている演技、そして、映画で求められている演技は、演技するということの根幹は同じながら、実はそれぞれ異なると考えています。それなのに、みなさんは、媒体の違いにはこだわらず、個性や特徴、役になり切るといった、一見、どこにでも当てはまるような答えをしています。確かに、オーディションを通るために、担当のプロデューサーやディレクターの心象をよくしておきたいという思いがわからないわけではありません。そのための無難な答えを、まるで就職面接のように答える気持ちがわからないわけではありません。しかし、それで果たして、道は開けるのでしょうか?

 構えや決意を問われて、その答えを持ち合わせていないということは、俳優が人の視線に晒されて、演技するということの意味をわかっていないということです。俳優とは何者であるか、演技とは何ものであるかを考えず、ただ、俳優になろう、なりたいと思っているだけだということになります。

 勿論、そんなことは考えずに、見事に演技をこなす人がいます。まるで、その役がその人の生活とオーバーラップしているように見える人がいます。しかし、それは、たまたまです。その人が生理的に、生まれながらに持っている俳優としての資質によって成立している演技なのです。あるいは、たまたま、その人の実人生の反映として役がそこにあったというだけの話なのです。つまり、天才であったか、あるいは偶然であったかということです。

 しかし、俳優とは、生まれながらの感性、天性を備えていなくてはなり得ない職業なのでしょうか? 自分の実人生とリンクする役に出会えるまで俳優として認められることはないのでしょうか? もし、そうだとすれば、いろいろなワークショップや歌や踊りのレッスンを受けることに意味はあるのでしょうか?

 おそらく、漫然と受けているだけでは意味がないでしょう。誰かが教えてくれるという思いでは、何ひとつ身につかないのが演技です。歌やダンスが上達したとしても、それを演技に結びつけることができなくては意味のない代物です。

 演技を演技たらしめるためには、ただ、監督や演出に指示された芝居をやればよいのではありません。指示された、あるいは自分でつくり込んだ演技を演技とするためのインターフェースが必要なのです。歌やダンス、日舞や茶道を演技に結びつけ、演技たらしめるためには、それらを演技というフレームに乗せるための仕掛けが必要なのです。それによって、俳優は初めて、天性や実人生の深さを越えて、養成できるものとなるのです。それによって、天才でなくとも、たまたまの偶然を待たなくとも、俳優は俳優たりえるのです。

 
では、演技を演技たらしめるものとは一体何なのでしょう。そのヒントとなるのが、歌やダンス、日舞や茶道、あるいは武道を始めとしたスポーツです。

 他者の視線に晒されながら、人が何事かを表現する、何事かを達成しようとするとき、そこには、日々身体を鍛錬するための仕組みがあります。俳優の生業というのは、「身体」をそのすべてとしている点で、スポーツに等しいのです。所作にこだわるダンスや日舞、茶道や華道と等しいのです。

 では、そこでの身体を鍛錬するための仕組みとは何でしょう?

 それが、フォーム、すなわち、「構え」です。スタートラインに立つ陸上競技の選手も他者と向き合う武道などの格闘家も、ダンスや日舞の踊り手にも、所作を取る前の構えがあります。その構えは、確たる強さの中でも、より速く、あるいは、ゆるやかな中にも、より美しく動作するためのスタイルを生むものであり、その後の初動から動作が終焉するまでを無駄なく、かつ、無理なく、それゆえに、余剰なもののない美しい、所作を創造します。

 フォーム、構えから生み出される、余剰なもののない所作、それが形(かた)です。構えがしっかりつくられ、鍛錬されていて、初めて、形が生きます。構えと形は身体所作によって何事かを行う人に必要欠くべからざるものなのです。いま風にいえば、パフォーマンスです。いいパフォーマンスを見せるために、構え、形が必要なのです。


 
他者に見られることを前提とする演技とは、こうした原理を根幹に持っています。つまり、演技とは、構え、そして形の集合体といってもよいのです。

 しかし、構え、形は身体の所作です。ところが、演技とは、単に体を動かせばよいのではありません。そこに役という制約、つまり、役柄を演じるという心がなくてはいけません。

 私のワークショップで、よく男性の俳優が、構えや形だけで芝居はできない。演技というのは役をどう生きるかを考えなくては姿に表すことなどできなではないか、という疑問をぶつけてきます。理屈で物事を理解しようというのは男性の特質です。俳優という職業は、そういう意味で男性には不利な職業です。その典型のように、こういう質問をする人は、リアリズム演劇の悪しき弊害をどこかで吹き込まれてしまった人に多く見受けられます。男優の不利、女優の不利。この国の近代化とリアリズム演劇の弊害については、別の回にふれますが、こうした発想では、演技にリアリティを与えることは不可能なのです。


 身体と心は深く結びついているということを学んでください。いやしくも、俳優という肉体をその生業とする人間であるならば、最低限、学ぶか、日々のレッスンの中、現場での仕事の中で実感していなくてはならないことです。

 人が非日常の時空、つまり、普段の生活とは異なる時間や空間を生きようとするとするときには、そうした時空を生きるための心がつくられていなくてはなりません。能楽では、衣裳、面(おもて)を付けるまでの時間を舞台上の時間以上に重要視します。歌舞伎でも、白塗りを始めるところから演技の時間が始まっています。個人スポーツの選手が、試合前、孤独に心をつくるのも同じです。それらは、自分の心のスイッチを切り替える作業です。それは、日常から非日常へフレーム変更するために、構えに入ろうとする作業です。つまり、ある一定の緊張の中で、違う自分に生まれ変わろうとしているのです。
 それは、これから始まる形に心を吹き込むための準備運動です。先ほど、触れたように、構えがしっかりしていなくては、パフォーマンス、形をよりよく見る人々に示すことができないからです。

 心をつくるというのは、普段、眠っていた感覚(クオリア)を覚醒させることだといってもよいでしょう。実はそのために、普段から構えの鍛錬をしているといってもよいのです。人間は、意図的な何かを設けない限り、自然に、ある感覚に到達することはできない生き物です。それは知能、知性、それを導き出す経験といったものを年齢を重ね、獲得した結果です。いわば、知能や知性、あるいは理性などといった日常生活では有用なもののフレームを取り外し、感覚に生きるために、構えを必要とするのです。

 構えという枠組みに自分の精神を置くことによって、ある感覚が研ぎ澄まされます。それがあって、そこからの形に息吹が与えられるのです。

 形というのは、それだけでは、先ほどの男優さんが指摘するように、役柄を演じることにはならないでしょう。しかし、いま述べているように、構えによって心をつくる=感覚の人となることで、その人の意識は冴え渡ります。そこから生み出される形や所作は、理屈ではない、何ものかへと変貌を遂げます。

 形は、構えと同じように心をつくるためのものです。とりわけ、大切なのは人に披露する前、稽古の中で重要な要素のひとつです。一見、形では心の何ものも表現できないように感じるでしょう。確かに、最初はそうかもしれません。しかし、形を繰り返し、鍛錬することで、それこそ、演技というものを意識しなくても、計算がなくとも、自然とそれができるようになります。

 狂言の例を考えてみましょう。「笑う」という所作は狂言の眼目のひとつです。その笑いの最初は、形です。おかしくて笑うというリアリズム芝居ではありません。ところが、形として、もちろん発声が重要ですが、ある息の使い方をして形を繰り返すと、演技を意識しなくとも、おかしさを演技にすることができます。断わっておきますが、形を繰り返すと、自然と自分の中に、笑いに繋がる「おかしさ」が生まれます。しかし、それは演技者がおかしさを実感するためにではありません。こういう形として観客に見せることで、より確かに「おかしさ」を他者に伝えることができるという、普遍的な「おかしさ」の獲得作業なのです。離見の見・見所の見と言われるものですが、これについても別の機会に紹介しましょう。

 能の例を考えてみましょう。能では、発声の高低だけで情感を伝え、足のわずかな運びだけで、空間を変え、場面を転換してしまいます。これも最初は形として鍛錬する中で、そこに見る側に、実感を付加していく作業なのです。

 こうした構えや形に対するこだわりが、日本の古典芸能になぜあるのか。しかも、私が俳優を育てる上で、なぜこれにこだわるのか。

 それは冒頭でふれたように、天性やたまたまの当たり役との出会いという偶発性ではなく、俳優としての最低限の資質さえあれば、誰もが俳優たりえるためです。

 演技は役柄をどう生きるかを考え、それを表現するものだという考えでは、俳優個人の主観、個人が持っている天性の感覚、素質が大きく作用します。いかに優秀と言われる監督や演出家でも、所詮、この発想であれば、その監督や演出家個人が確信している演技に過ぎません。つまり、誰もが共有し得る明確な尺度のないまま、すべて偶発性や個人の好き嫌いだけで演技が判断され、選択の余地のないところで、観客はその演技を許容しなくてはならないということになります。

 果たして、俳優にとっても、観客にとっても、これほど不幸なことはありません。経験のある俳優の方なら、体験したことがあると思いますが、舞台で、自分は今日気持ちが入って、いい演技ができたと感じているのに、観客の反応や監督、演出家の評価が違うということがあります。演技を組み立てるための基軸のないところで、個人の裁量のみで演技がつくられていくことの怖さがここにあるのです。

 日本の古典芸能、とりわけ、能楽が血を吐くようにして誕生させた構えと形はそれほどの緻密さと冷静さによって、いまなお、今日あるのです。しかし、構え、形が有効に機能するためには、大きな課題があります。

 それが、決意です。構えにも、形にも、心を吹き込むためには鍛錬が必要だと述べました。鍛錬を怠らないためには、それを繰り返し鍛錬するのだという決意が必要です。非日常の時空に入る前に、ひとり、そこへ向かう心となるための決意が必要です。決意の深さが、自ずとこれから生きる役という世界に毅然たる心を吹き込むのです。


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