01.24 東京都人権啓発企業連絡会指導者セミナー講演

           「白紙のページ」

       

       (1)作品の願い

リストラされ、悩み抜いた主人公が社内エリート育成のための特別研修会場に乗り込み、会社のトップとの直接対話を申し入れながら、他の社員たちに阻まれ、「人間同士の話がしたいんです!」と絶叫する終わり方についてー



秀嶋「まず、映画をご覧になって、どういう感想を持たれたか。どなたかご感想があれば、伺いたいのですが…」

Aさん「この作品を企業で扱う場合、取り扱い方に相当、気をつけないとどっちも解釈できると思います。いまはこんな世の中なんだから当たり前というのか、働くことそのものにやる気を無くすような…。正直、複雑な心境で終わりました」

秀嶋「ありがとうございます。妥当なご意見だと思います。いま頂いたご意見と言うのは不特定多数のご意見ではなかろうかと思います。

 最後の結末が、ああいう終わり方をしていますので、いろいろなご意見が生まれるだろとうというのは実は意図して制作させていただきました。

 実は、この作品には、この後があったんですね。
 本当は、この後、主人公のリストラされたサラリーマンの是安一家は、場面が引越しの風景に変わりまして、実に立派過ぎるお宅から引越しの荷物を積んで、トラックが長い道を遠くへ走り去って行くという映像になって終わるようになっていました。

 実はその映像も撮影しておりました。で、そこにエンディングロールが流れるという終わり方を考えていたんですが、制作主体であります、徳島県同和対策推進会の方からいろいろな意見が出まして、その終わり方では完全に負けという感じがしてしまうというので、そこの部分はカットしたらどうだろうという意見が大勢を占めて、かなり議論はしたのですが、私も納得して、それではそうしましょうということで、こういう終わり方になったわけです。

 いまご指摘のあったように、この作品は、どう捉えればいいのかということがはっきりしない。それは仮に私がイメージしていた、是安一家が引越しをして、遠くへ去って行くのを負けと捉えるか、もしくはそうじゃないと捉えるか。これについては、大いに議論をしていただきたいなという思いで、いまご紹介しましたような一層迷う、そういうエンディングも考えておりました。

 つまり今回のこの作品の大きなねらいは、ご覧いただいて、いろいろ考えていただいて、議論をしていただきたいという願いが強くあったわけです。

 よくあるのは、人権教育映画となると何かドラマがあって、事件があって、それに対して登場人物みんなが内省して、結果、一つの方向性が見えて、シャンシャンと問題が解決するというものが圧倒的に多いと思うんですが、そういう作品も実は何本か私も創っておりますが、果たしてそれで人権教育とか、人権の問題を深く検討する材料になるのだろうかという個人的でもあり、私が交流している識者仲間の意見でもあり、疑問を持っているところがありまして、今日はその点に付きまして、この講演を通して、少しお話ができればなと思っております。

 そう言う意味では、非常に素晴らしい導入になるご質問をいただいて感謝申し上げます。

 会場にいらっしゃる皆さんと私はそれほど世代が変わらないと思うのですが、高校生の頃とか道徳の時間とかにこうした作品を観ましたよね。人権教育のものだとか、薬物禁止だとかですね。この作品も東映さんの作品ですが、私も何本か東映さんの作品を観させていただいていますけど、シャンシャンで終わる作品が過去の作品でも多かったと思います。

 私が高校生の頃感じたのは、結論から言いますと「つまんねぇ」という印象です。これは個人的にと言うよりは私たちの同級生仲間の大半がそうだったと思います。道徳の時間に人権問題とか、犯罪抑止のものとかを観させられるとどうやってこの時間をやり過ごすかというようなことを考えて過ごしていたような気がします。

 その一方で、高校時代が70年安保の頃ですから、社会的なことに関心がなかったわけではありません。が、しかし、学校の授業の中で観させられる、ある意味で非常にお行儀のいい啓発作品を観たときに、つまらないと思っていたわけです。

 では、それはどこに原因があるのかなと自分がその後いろんな仕事をするようになってつくづく思ったのは、やはり、そうした作品が本当のことを言っていないからじゃないかと思ったわけです。

 本当のことと言うのは、どういうことかと言いますと、自分が生きている現実の中で、たとえば、みなさんもこういうところにお集まりですのでそうだと思うのですけれど、あるいは、若い人を見るとよくわかるように、非常にビィビットに世の中の矛盾とかおかしさを感じている部分があるわけです。

 たとえば、若年層だとそれを言葉にしたり、論理にすることは難しいですけれども、ある意味で感性で考えた部分で、直感的に皮膚感覚で「なんかこんなことっておかしいんじゃないか」と思ってることが実はたくさんある。
 
 たくさんありますが、若い人は当然なかなか声が上げられないということがありますし、私たち自身もいろんな組織や関係性の中で生きているわけで、一部おかしいと思いつつも、「ま、こういうものかな」というところで素通りしていることが沢山あると思います。

 そういうところで発せられるお行儀のいい何かというものは、なかなか人の心に届かない。ちょっと疑問があって、みんなが実感している社会の現実と創られるお行儀のいい啓発作品との乖離をどうやったら埋めて、潜在的に感じている現実の矛盾をきちんと考えていけるようになるのだろうと思ったわけです。

 これは私たちの国の問題としてもそれがあるのではないか。あるいは文化の問題としてもあるんじゃないか。そういったところを私たちがきちんと考えていくところから、心に届くメッセージとか、あるいは心に届かないまでも、そのことによって何がしか提起された問題に対して真剣に検討するような空気というのが醸成される可能性はないのだろうか。というのが、いわゆる出発点で、これは『見えないライン』に限りませんが、私の創っている作品の前提条件として、そういったものがあると言っても言い過ぎではありません。



      (2)今回の講演の骨子


現実の向こうにあるものを見抜く力


 今日、一方的にお話を聴いていただくというのは恐縮なんですけれども、大きく分ければ二つほど中心にお話をして行きたいなと考えております。
 一つは、この作品とも直接関係するところですが、組織や立場という、いわゆる属性。人間が生きて行く上での属性ですね。みなさんのご専門ですが、出自だとか家柄だとか、社会的地位だとか門地だとかですね。そういった属性が組織や立場の中では優先されます。その中でどういうことが起こるかというと、属性の中で現実にある社会を見ようとする。組織や立場の関係というのはそういうことですよね。感覚とか自分の心の奥にある声とかではなくて、全体がどう動くかということを優先させる。あるいは、自分の立場がどうあるべきかということを考えて、全体を見るということになります。

 結果、まず、目に見えている現実をどう理解するかということから、人間の発想は動かざる得ない。しかし、そういうふうなことではなくて、見えていないものの向こうにある事実を知る力というのが必要じゃないか。具体的には、私たちの現象、目の前に毅然としてある事実の向こう側にあるものを見抜く力が必要なんじゃないかと言うのが一つです。

 たとえば、私は経験があるんですが、会社に勤めている若い人たち、30代とかあるいは20代とか、男女に限らすですが、そういう人たちと出会うチャンスがなぜかあるわけです。あるというのは、私がこういうふうに、所属のはっきりしない仕事をしていますのであるんですが、そういったところで出会う彼らといろいろ話をすると、本当に会社で言えない話をするんですね。「これは会社で言えないけれども、秀嶋さんだから言えるけど…」と言うことをよく聞くわけです。

 これはみなさん経験があると思うんですけど、私も実は5年間だけサラリーマン経験がありまして、そのときは、私は会社というフレームにあまり価値を見出していなかったので、その中で起こる問題に関しては、直接上層部に話を付けるとか、そういうことを積極的にしましたけれど、往々にして、やはり、そうではなくて、中で言えることと言えないことがある。

 最近の例で言えば、内部告発でしか、企業の問題がわからない。企業の自助努力によって、企業が変わるということが非常に少ない。そういう問題も含めて、会社で言えることと会社の外でないと言えないことがある。

 問題が出たときに、会社の組織はこういうものだからとか、自分の所属しているフレームはこういう形のもので当然だからとか言うことで、現実にある現象の面だけに目を向けて、それはどうしようもないものだと考えれば、当然、想像力は働かない。想像力が働かないということは、ま、感覚が働かない。
 
 せっかく人間というのは五感というものを持っていて、いろんなものを感知する能力を持っているわけですね。その五感の上に、いわゆる想像力という第六感というようなものがあるわけですが、それが段々麻痺してしまう。

 最近、流行ですけど、茂木健一郎さんという脳科学者がいらっしゃいますが、私も大ファンですが、感覚=クオリアというものを彼はテーマにしていますけれど、それが、いまの社会では閉じているのではないかと警鐘を鳴らしているわけです。

 同じようなことが、やっぱり私たちの仕事に言えるのではないかと思います。これが、今日お話する柱の一本です。


■私たちが白紙にしている人間の原理原則


 もう一本は、いまから申し上げることなのですが、『見えないライン』とういうのは一昨年の作品で、この後、いろんな作品を創っております。ついこの間、『白紙のページ』という今回のテーマにもなっております、屠場を舞台にしたドキュメンタリー作品を徳島県同和対策推進会のご依頼でやらせていただきました。

 これは屠場労働の現実と過去、それに関わっている方たちのライフインタビューという形で収録させていただいたんですけれど、このときは、ドキュメンタリーですので、多くの方に発言していただいたんですが、その中で識者をお一人入れようということで、私の方から申し上げて宮崎学さんに出ていただいたんですが、その中で、白紙にしていまっている私たちのページがあるんじゃないかということをテーマとしたわけです。

 これは難しい話をしていけば、日本近代の問題を議論していかなくてはいけないんですが、それはさて置いて、私たちが屠場労働に関わる人、屠畜という作業に対して、どうして拒絶反応があるのか。ないという人ももちろんいます。ないと言っているんですが、本当にないのか。私たちが戦後教育で受けて来た中で、「人を差別してはいけない」「屠場労働の人を差別してはいけない」という言葉を刷り込まれて来ました。

 にもかかわらず、その作品の中で、宮崎さんも指摘していますが、WEBサイトでは、差別発言の書き込みは無茶苦茶多い。みなさんご存知の「2ちゃんねる」というのは、内部告発情報としては非常に素晴らしいものもありますが、同時にそういった差別発言も認めてしまうサイトですので、そういったものも沢山出ているということを指摘されています。

 私たちも実際に取材して、街頭インタビューその他やったんですが、やはり、「拒絶するようなことはないですよ」とおっしゃる方もいらっしゃいます。しかし、高校生とか若い人たちに突っ込んで聞いてみると、正直に言うんですね。「気持ち悪い」とか「いやだ」とか。
 
 ぼくは実はそれが本当の心情だろうと思っています。だから非常にお行儀のいい、小さい頃から、戦後民主主義教育の中で整理整頓された人権教育を受けて来た人たちは、差別はいけないというのは正しいことだから、正しいのだと考える。

 ところが、差別はいけないという正しいことが正しいのではなく、もともと正しくない心が誰にでもあるんですね。その上で、言葉で差別はいけないといいながら、自分の中にある差別を白紙にしているということが起こる。

 私がその作品の中で言いたかったのは、「差別なんてありませんよ。あっちゃいけないですよ」と言うことは簡単だけれども、その問題を本当に議論するときには、人間の原理原則とは一体なんだというところに立ち返らないと深い議論ができない。冒頭で申し上げたような高校生のとき私がつまんないと思っていたように、心に届くメッセージにはならないだろうというふうに思って、『白紙のページ』というものを描いたわけです。

 この『見えないライン』もそうですが、見えないということで白紙に近いんですけれど、二つ続けて見えないものを描いたわけです。
 『白紙のページ』という作品のタイトルに象徴されるように、私たちが人間の原理原則を考えず、差別や人権について白紙にしているものがあるのではないか。

 また、私たちが受けて来た人権教育のあり方についてきちんと検証する必要があるのではないか。人権擁護団体や人権活動をやっているいろいろな方々がいらっしゃいます。そのご努力はすばらしいものだと思いますけれでも、同時に、ご自分たちが営んでいる活動が本当に人の心に届いているかどうかを検証するために、自分たちがいままでやって来た活動だとか、自分たちがいま取り組んでいる活動について、疑いを持つということも大事だと思います。

 その意味で、原理をみつめて、自分たちが帰属している、所属している団体のあり方とか、活動のあり方をもう一回見つめ直すということも必要ではないかという、先ほどの一本の柱とこれと合わせた二つが、結論から申し上げますとお話していきたいなと思っている点です。



 (3)映画『見えないライン』の背景にあるもの


■戦後民主主義は平等性と機会均等を保障したのか


 いま映画をご覧になっていて、それぞれにご感想があると思います。昨年、全国人権啓発大会でも申し上げたんですが、作品の内容についてあれこれ解説染みたことを言うのは、監督をやった人間、脚本を書いた人間としては不適切だ私は思っていますので、どういうご批判があろうが、ご感想があろうが基本的にはそれを受け入れるというのが基本的なスタンスだと思っております。

 ご解釈の仕方は、その意味でご自由なので、創り手の方から「この作品はこういうものですよ」とお話することは意味がない。みなさんが、先ほど感性のお話をしましたけれど、ご覧になって受け止められた感性を大事にしていただければそれで結構だというふうに考えております。

 じゃ、何をお話するのかということなのですが、なんで『見えないライン』という映画を創ろうということになったのか。この作品を通して、何を感じていただきたいというよりは、感じていただくために、どういうことをポイントとして創ったかということを作品の内容に直接関係する部分もあるでしょうし、そうじゃないところも含めて、お話ができればなと思っております。

 人権に限らずですけれども、人間の尊厳だとか、自由を考えたとき、人は自由で当然だ。たとえば、人は機会均等でなければならない。機会が不平等であってはならないと言われる。斎藤貴男さんとも話をしたことがあるのですが、じゃ、本当に人間というのは平等なのか。本当に人間というのは機会均等に生きられるものなのか。私は、そのことに非常に疑問があります。

 私たちが小学生や中学生の頃を振り返っていただきたいんですが、やはり、そこにも格差があったはずなんです。私は、福岡の出身で、小学校4年生くらいの頃まで市内にいたんですが、当時はまだ、橋の下の茣蓙で囲った家に住んでいる同級生がいました。
 ゴミの中に家をつくっている廃品回収業の友人がいました。そういうものを見ました。生活の中で。子どもですから、差別感もなく、いろいろな思いはありましたけれど、共に遊べました。

 が、しかし、考えれば、そこに機会の平等もなければ、みんなが同じ生活をしているという環境もなかったわけです。これは戦後間もない頃に遡って考えれば、もっとひどくて、親のいない浮浪児という人たちがたくさんいたわけです。そういった中で、いろいろなことも起こったわけです。

 私たちは何か勘違いをしていて、高度成長期に入っていって、段々豊かさを共有し合えるようになって来たときに、なんとなくみんなが平等のような気がして来て、平等でないとおかしいみたいな発想があったと思います。平等で同じでなきゃいけないという発想は、日本人は本当につくられやすい体質を持っているわけですけれど、今日はちょっと時間がないので、それについてはお話しませんが、そういう平等性というものが当然のこととして、みんなが認識して生きて来たという一面があると思います。

 で、教育もみんな平等だよ。機会均等だよ。公立中学校までは義務教育で、当然それを受ける権利もあるのだ。というようなことがとても大事なことのように、素晴らしいことのように言われて来たわけですが、ちょっと世界に目を転ずれば、高校まで当たり前の義務教育になっている国なんていっぱいあるんですよ。あるいは、教科書の無償配布なんて当たり前なわけです。日本くらいなものです。高校でもまだまだ自己負担が大きいというのは。

 目を転ずればそんなことはいっぱいあるんですが、私たちは、そういう平等性だとか、機会均等であるという幻想を生きて来たんだろうと思っています。

 そういう流れの中でどういうことが起こるかというと、人はそれぞれだよ。別にいい大学に行くことがすべてではない。あるいは、いい暮らしをすることがすべてではない。貧しくても幸せはあるよ。そういうふうに考える中で、共生ということがあるわけだから、いろいろなチャンスについては、中学校までの義務教育によって平等性は確保されているし、多様性と言う名によって、それぞれの人生はあるんだから、十分保障されているだろう。というようなことが当たり前のように私たちは認識させられて来たし、日本の教育も社会構造も進んで来たということが一つあると思います。

 じゃ、そのとき言っている平等性と多様性は、本当に機会均等と平等性なのか。厳密に考えれば、違いますよね、それは。本来は平等でも機会均等でもなかったものを私たちは、そういうふうに思い込んで来ただけに過ぎないわけですね。そうした中で選別と住み分けが進んで来ている。


■お行儀のいい人権意識が本当のことを語らせていない


 この作品を創る上で何人かの方にインタビューしているのですが、実は事前取材を含めると50時間くらいインタビューしているんですね。まとめるのは結構大変だったんですが、登場していない方もたくさんいらっしゃいます。なんでそんなに事前取材や収録に時間をかけたかと言いますと、監督として裏を取りたかったわけです。

 そうしたインタビューの中で、私が非常に賛同できたのは、大久保さんというフォーバルの代表の方が発言されていますが、個人的には「よくぞ言ってくれた」というふうに実は私は思っているわけです。

 実は、この大久保社長というのは、縁がありまして、10数年前にある仕事でご一緒しようとしたときがあって、その関係で10数年振りに、全く私の方からご連絡を取ったのではなく、東京商工会議所の方から紹介されて、「お久しぶりですね」という形でお会いしたわけです。そのときに、経営者で、こういう発言をしてくれる人はいないかと探していて、大久保さんだったら、言ってくれるだろうなというのがあったものですから、どうしようもなくなったら、直接大久保さんに連絡を取ろうと実は思っていたわけです。たまたま、商工会議所の方から大久保さんを選んでいただいて、よかったわけです。

 では、何がいいのかというと本当のことを言っているからです。要するに企業経営者の方が腹の底では思っているであろうことをちゃんと言ってくれている。それが正しいかどうかは別の話です。ただ、少なくとも誰も言いたがらない、本当のことを言おうとしている。

 選別や住み分けというのは当たり前だというふうに考えている人たちが歴然といて、そういった中で、平等主義も機会均等というのも曖昧にごまかされて来ているんだということを大久保さんは結果的に代弁してくれているのです。

 逆に言うとどういうことかというと、大久保さんがそう言ってくれてアッパレと私が思ったのは、思っていても言わない人が多いということです。先ほど申しましたように、多様性が大事だとか、人それぞれの生き方があるよねとかきれい事を言う中で実は格差を付けている。

 多くの人が、原理原則に返らないで、お行儀のいい形で論理を展開しているということです。

 そうした中、この作品で、東海林智さんという毎日新聞の記者さんが登場しますが、いま厚生労働省付きになっているのですが、彼が言っていたように、東京ですら、現実に教育の格差、親の所得格差と繋がっている問題が起こっているわけです。

 この間、自分自身の主催するシンポジウムで民主党の議員とも話をしたのですが、そこでも格差の問題が語られておりました。やっといま、民主党、連合系の組合でも格差問題に本気で取り組み始めていますけれど、この映画が創られた頃は、実は連合はやっていませんでした。自分たち社員のリストラ抑止とかの方が忙しくて、派遣労働・パート労働に手が回らないというのが実状でした。

 そういった情勢の中で、選別と住み分けは歴然としてあるということをきちんと語った上で、その問題点やどうすれば改善ができるのかといった議論がされて来なかった。


■曖昧にしながら、実は進んでいる格差社会の現実


 その結果、どういうことが起きているかと言うと、東京の下町の例を言いますと台東区、足立区、葛飾区といった周辺では、たとえば、中学校では生活保護世帯が5割以上いる。小学校でもそれと同じくらいです。就学援助となると同じくらいの比率になる。つまり、親の所得とリンクしているということですね。これは外国籍の人が多いということがあるのですが、そういったところで子どもたちに夢を語ったところで、何の夢が語れるのか。現場の教師はつぶやいておりました。

 そういう現実があるということも話では聞いても、それを自分たちの問題として考えることはとても少ない。それはどこかで、私たちの国は豊かな国なんだということを自明のこととしているからです。現実はそうではありませんが。

 もう一点は教育に絡む問題として、その後、非正規雇用が定着して来た。この作品が創られた当時は、まだ住み分けは始まったばかりですが、いま完全に定着しております。その後、パート法の改正だとか、派遣労働法の改正だとかいろいろな事が進んでおりますので、改善されている部分もないわけではありません。細かいデータは私のHPにありますので、興味のある方はそちらの方を見ていただければと思います。

 さらには、ついこの間、本国会では流れましたが、ホワイトカラーエグゼンプション、みなさんに直接関係がありますが、40代、50代の管理職クラス、ある程度所得のあるサラリーマンに対して、残業代をカットする。この論理が出て来た背景には、アメリカ的論理があるのですが、そういうことが起こっています。つまり、過重労働OKということですね。それからみなさんよくご存知のように、うつ病の発生率が高くなって、うつ病に伴う自殺の件数も増えている。これも4、50代を中心にして、最近は30代にも広がっています。

 30代に広がっているのは何かというと、みなさんご存知のように、空白の10年があるので、間の人材がいないんですね。いま団塊世代の2007年問題になっていますけど、大量退職が生まれて来る。その後を引き継ぐ人間が、普通だったら40代中頃とかもっと数がいるはずなんですが、いませんので、30代に行ってしまう。30代始くらいで、大きな責任と仕事量を任される。当然、ストレスが溜まりっていくわけですね。そこで30代にもうつ病が広がっていくということがあります。

 この作品に直接関係がありますが、いま問題になっているのは偽装請負の問題。偽装請負というのは工場労働者における請負ですね。第三者の会社を使って、そこから出向した形にして雇用させるというような偽装請負の問題。これよる過重労働、賃金未払いなどの裁判がどんどん増えています。

 日本労働弁護団という弁護団がありますけれど、そういった偽装請負だとか、パート、派遣労働における問題や中高年の管理職、組合に参加できない管理職のリストラや不当労働への裁判闘争を行っている団体ですけれども、そこの係争件数はどんどん増えています。

 ある意味でいいことなのですが、これだけ格差の問題についての関心が高まって、ひとつのムーブメントが生まれるといままで声を上げていなかった人も声を上げられるようになって、自分たちの権利主張が出て来ているというよい面があります。

 でも、一方で、40代、50代にとってもプレッシャーが高い、30代でもプレッシャーが高い、そういうふうな企業のあり方、社会のあり方では何が起こるかというと先ほど、冒頭のポイントの一つに挙げましたが、疲れていますからものをあんまり考えたくないんですよ。疲れて来てしまうとどうしても面倒くさいことは避けたいというのは、人間の心情です。もっとも脳科学的に言えば、脳が疲弊しますから当然なんですね。

 そういうふうなことになって来たときに、イマジネーションを働かせて社会の真相をみつめて、自分がどうあるべきかを考えようという意識にはなりにくいということです。そうした中で感覚は麻痺してしまう。

 お父さんがそういう状態。お母さんもパートに出ていたりしますから、そういう状態。その状態で家に帰る。家に帰ったときに子どもに対して、どういう理解ができるかというと子どもの心の深層まで丹念にみつめてあげるということができない。当然、ここにミスコミュニケーション、ディスコミュニケーションが生まれて来る。ということで、家庭も瓦解してくということになります。つまり、働き方が人を圧迫するものである以上、何一ついいことはないわけです。

 今年に入って、毎日のように殺人事件が起こっていますが、去年から今年にかけて起こってる事件の顕著な例は、家族が家族同士の殺し合いをするというものです。あるいは、近在にいる人間がやっちゃうという傾向が一つ出て来ている。
 それと平行して、その前から、みなさんご存知のように、通りががりの人が誰かを殺すというふうなことが起こっている。

 こういうふうなことの根幹に、非常に疲れ切っている、疲れるようになってしまっている、私たちの社会のあり方に一つ大きな問題がある。単に個人の問題、個人的な問題、犯罪を犯した人たちの成育暦だけでは片付けられない問題がそこにはあるということが言えると思います。


■他者の評価を基準とする「恥の文化」が白紙をつくる


 それからもう一点は、この作品の中では強烈に描いていませんが、ここに登場する是安くんは、なんであんなにしがみつこうとするのか。あるいは、私がいろいろ取材したリストラされた経験のある方とかに聞くと最初の頃は執着があるんですね。それと同時に恥ずかしいと思う。リストラされたことを恥ずかしいと思う。

 あるいは派遣労働とかで不当な待遇を得たとしても、それに対して声が出せないというのも、自分はちょっと立場が劣っているからなと思っていたりとかいうことがあるわけです。

 恥の文化が私たちにはあるんですね。一つ決まったレール、戦後民主主義教育の中で、中学校は3年間で卒業して、高校は3年間で卒業するのが当たり前で、そこで大学に4年間行って、そしてストレートに企業に入る。あるいはちょっとお手付きがあったとしても、一浪くらいで入るという基本的レールがあって、それから逸脱すると、つまり高校中退してしばらく、ひきこもったとか、不登校になったとかということになるとなかなかその後、社会に立ち戻るときに障壁となる壁が高い。

 なんでそういうことが起こるかというと、それは恥ずかしいことであるという意識が本人にも周囲にも起きるわけです。

 私はいじめとか、ひきこもりの作品も結構創っていて、そういう関係の精神科医の斎藤環さんだとかとお付き合いがあるのですが、そういった中でいろんなお母さんたち、お父さんたちの声を聞いても、そういことを最初、恥ずかしいと思っているんですね。

 そのため医者に相談することすらできないということがケースとして非常に多い。

 あるいは、ここに出て来る、原田大二郎演じるところのサラリーマンが、これは実話なのですが、公園に毎日行って、ハローワークにこっそり通っている。どうしてそういうことが起こるかというと、そこに恥の文化があるんですね。

 家族にさえ、知られるのが恥ずかしい。そらそうですね。たぶんですが、このお父さんは元気で会社に働いているときは、息子や娘たちに、主人公の是安くんがそうであったように、「いいか。ちゃんと頑張って、努力しなければ報われないし、やれば報われるはずだし、レールの上に乗っかって頑張らなければダメなんだ」と勝ち組になるためには、「努力しなければダメなんだ」「しっかりやってればそうならないんだよ」と言ってたはずなんですよ。

 そう言っていたお父さんがリストラされた瞬間に、「実はさ…」とはなかなか言えない。やっぱ、恥ずかしいからですね。

 恥ずかしいものを恥ずかしいとしてしか、形にできない私たちの文化があるんですね。その結果としてどういうことが起こるかというと、最近のいじめ問題も同じですが、いじめられることが恥ずかしい。いじめがあることが恥ずかしい。が、ゆえに、いじめはなかったことにするということになる。ならざる得ない。

 つまり、見えなかったことにする。ないものにする。これは社会学的に言えば、カッティングオペレーションと言いまして、面倒くさいことが起こったときに、隔離して見えないところに追いやるということです。だから、うちの子どもがひきこもりになった、ひきこもりからうつ病になったとするとその現実に対して親が向き合おうとしない。それはなぜか。恥ずかしいことだからです。

 いじめの問題も同じですね。いじめる側の親もいじめられる側の親もいじめがあることが恥ずかしい。だから、そのことについて、子どもの心の行間を読むような努力をしない。「そんなはずはないよな」という前提で入っていくから見えないということですね。

 こういうことが恥の文化の基本としてある。この是安くんも自分がリストラされるはずはない。あってはならない。それは恥ずかしいことであると思うがゆえに、葛藤があるわけです。

 このことが結果的に、自己の評価を他者に委ねるということが言えるとぼくは思います。私たちが自分で自分の価値基準を見出して、自分の価値基準で生きるんだからそれでいいじゃないか。人がなんと言おうとこれがぼくの生き方だから、これを通して生きて行こう。それは法律に反してはいけませんが、そういうふうな考え方に立てなくて、とにかく、常に他者の評価を基準とする。

 ルース・ベネティクトの『菊と刀』という本がありますけれども、初めて日本人の精神構造を恥の文化という言葉で言い表したわけですけれど、それに反して、ヨーロッパ、西欧文化というのは、「罪の文化」ですよね。キリスト教の原点、キリスト教と言っても、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教、三大宗教は、同じ神を崇める経典宗教ですから基本的には同じ発想なわけですが、人間というのはもともと罪深いものだという罪の文化ですね。それと私たちの恥の文化。

 この二つの大きな違いがあって、結局、私たちは他者の評価を基準としながら、自分たちの人生を紡いでいる。

 これは日本共同体の問題にも繋がって来て、それこそ日本近代の明治維新以降の問題にもなって来るのですが、そういうことをあまり検証しないものですから、とにかく、他者の評価を自分の基準としてどう生きるべきかを判断していく。そこに主体性のない、自己主張のない世界が構築され、権力のある者が、力あるものがねじ伏せることが容易である。あるいは分断政策も簡単である。

 斎藤さんが言っているように、パートはパート、派遣は派遣、正規労働者は正規労働者と隔離をすることで、お互いの権利主張を競わないようにして、別のものだと囲い込みをすることで、権力側の意志をスムーズに進ませるような形をとる。


■夢や希望の持てない格差社会の出現


 結果、何が起こってるかというと、NHKでも特集を何本か組みましたが、ワーキングプアという世界ですね。これは別にサラリーマンだけの世界ではなくて、自営業者、農業、いろいろな人たちに広がっています。この人たちはみんな思っていたはずです。頑張って同じように働けば、豊かになることはなくても日々の生活に困窮したり、困ることはないはずだと思っていた。だって、日本社会って平等なんだもんという思いがあったと思うんです。

 ところが、そうじゃなかったということに彼らも気づいた。この作品に登場してくる不当労働を経験した派遣の人たち、リストラに遭った人たちに同じ質問を、私は意地悪でしたけど、しました。「こうなる前はどう思っていましたか?」。すると「自分はそうならないはずだ。だって、自分はしっかりやっているから。実際にそういう評価もされている」。じゃ、そのとき、リストラされたり、派遣労働でしか働けない人をどう思っていましたかというお話をしたら、「それは、その人の努力が足りないからだ」と異口同音にみなさんそう思っていたとおっしゃいました。

 つまり、自分が帰属しているフレームは間違っていなくて、自分が帰属しているフレームにいる限りは安心なんだというふうに思っていたということです。噂でも話でも危機感は感じていたけれども、まさか自分のことだとは思わなかった。なぜか。さっき申し上げました。だって、努力すれば報われる社会だし、平等の社会のはずだから、そんなことがあるはずはないというつくられた幻想を信じていたからです。

 ということで、ワーキングプアも生まれて来る。

 結果、何が起こってるかというと、宇都宮弁護士というサラ金対策弁護士がいますが、仕事で私も一度ご一緒したことがありますけれども、プアであるがゆえに、ヤミ金に依存する、サラ金に依存する。で、家庭の生活が成り立たない。先ほど申し上げました、東京の下町の惨憺たる状況の中でも、そういったことが起こっています。

 そうなって来ると自殺の増加に繋がって行く。ここ数年、3万人程度で推移していますが、これ、先進国家であり得ないですね。みなさんご存知だと思いますけど、あえて声を大きくしてい言いますが、先進国家で3万人もの自殺者を出しているのは日本だけです。

 しかも、その中の八千人くらいは、経済的な理由で自殺しているわけです。昔は青年が迷って死んだとか、青春期の悩みを要因としているものが普通だったのが、うつ病だとか、経済的な要因から自殺している人が比率では小さいですけど、確実に増えています。

 それに付随して、生活保護世帯が増えています。だから、国は生活保護予算を削ると言っていますね。ワーキングプアというのは生活保護世帯よりも収入が少ない人たちのことです。月収12万以下ですから。

 また、経済的破綻があれば家庭は崩壊します。家庭が成り立ちません。お父さんの権威はなくなります。そこでは家庭内暴力も起これば、犯罪も頻発して来る。とどのつまりは、夢が描けないよなという社会をつくる。希望が持てない社会ということになってしまう。

■不安のスパイラルが「正しさ」という大樹の陰をつくる


 このように社会が殺伐として来て、安定していないなという雰囲気が見えて来る。いま日本人はみんな殺伐として不安定な社会が見えている。見えて行く中で、その不安を自覚しますよね。どんな犯罪が起こるかわからない。いつ誰がどんことを起すかわからない。不安要因が高いなということをみんな認識しているので、不安がまた不安を生んで、不安のスパイラルを生んで行く。そうすると行儀のよい正しいことが大事になって来るような気がするわけです。なぜなら、それしかしがみつくものがないからですね。

 要するに戦後民主主義教育の中で、私たちが受けて来た正しいものは正しい。Aは正しい、Bは正しくないという考え方でいけば、不安要因が増大するに従い、正しいと思われるものであるAの方に集約的に集まって来る。そこで一つの形、牙城のようなものが形成されていく。心情を背景とした正義が台頭して来るということです。

 先ほどから私が言っているのは、いろいろな問題にある真実という実相を見ましょうということなのですが、あるいは、白紙にして来たものの本質をもう一回検証しましょうと言っていますが、それは手間がかかって面倒くさいことです。時間もかかります。しかも、不安要因が強いから、とりあえず、正しいということをやってしまえということになってしまう。

 では、正しいことをどこに求めるかというと、この映画で言えば、やっぱり会社の論理は正しい。妥当じゃないかというふうになって行く。確かに、経営者の側から見れば、大久保社長の言ってることは正しいです。私も会社で役員をやっていましたので、採用権・人事権を持っていました。そのとき、やはり大久保社長と同じ論理を頭の隅に置いておりました。そうしなければ、中小企業でしたけれど、その中でいい仕事をたくさんやっていくことはできないという考え方を歴然と持っていたということがあるがゆえに、大久保社長の言うこともわかるわけです。

 ですから、それ自体は決して間違ってはいません。ただ、その展開の仕方、進め方が違うと思うのですけれど。

 話を戻しますと、手間で面倒なことを避けるという気持ちがあって、ありがちな正義にみんなが依存するようになる。結果的には、そこに排除の論理が生まれるということですね。寄らば大樹の陰ということになれば、そうではないものに対して、面倒くさいから切捨てていけばいいじゃないかということになって行きます。

 それは、いじめの問題もそうですし、今回のこのリストラの問題も派遣労働に対する差別の問題もイコールということになって来ると思います。


■どうしてこれほどまでの不安社会が生まれたのか


 では、こうしたことが起きてしまったのかということを考えると、実はこの作品の根底にあるのは、1997年に当時の経団連が発表した「日本的経営の未来像」というもので、こんなに分厚い計画書があります。ご覧になった方にいるかと思いますが、それに基づいて雇用の分化、雇用の流動性を進めようとし、現実に日本では進みました。

 じゃ、経団連はなぜそれをやったか。これは単純です。アメリカからの要請です。アメリカからバブル崩壊後、疲弊したままの日本の経済では困るということで、アメリカがかつてバブル崩壊後、惨憺たる状況になったときに、実施した方法があって、それと同じものを導入して、経済を活性化していくれとそうしないと日米の貿易収支のバランスが悪すぎるだろうというふうな要望があって、それに基づいて経済団体は動いた。

 これは私はすべてが間違いだとは思っていません。今日は時間がないので、お話できませんが、同族企業の中で、株の持ち合い式の日本企業のあり方というのは確かにグローバルスタンダードではない。ぼくはアメリカンスタンダードとは言いません。グローバルスタンダードではない。その中で隠蔽される問題はたくさんあるし、ちなみに、雪印の問題も、コクドの問題も、昨今の不二家の問題も同じです。そういう古い企業体質というのを変えていかないと風通しが悪いというのも事実です。国際競争力がないというのも事実です。

 ですから、その点においてすべてを否定するわけではありませんが、ただ、日本は日本であって、アメリカではありません。日本人は日本人であって、アメリカ人ではありません。しかも、アメリカもいま共和党政権でブッシュという非常に特異な大統領がいるがゆえにそうした形をとっていますが、また民主党に変わったときに、どうなるかわからない。

 つまり、先ほどの恥の文化と同じように、アメリカの評価を自国の評価としている日本においては、そこに揺さぶられて自国の政策をとって来たとするなら、必ず、また揺り戻しが来る。そのとき、どうするんだ、日本は。ということがあるように、日本が日本の社会構造のあり方を考えて、私たち日本人の感性やいままでの歴史から見て、どういう社会、経済、経営の仕組みが有効なのかということを考えないとその姿は見えて来ないと私は思っています。

 ですから、「日本的経営の未来像」は、一部認めつつも、それはやり方が違うだろう。考え方が違うだろうというものです。

 経済同友会なんかは、ホワイトカラーエグゼンプションにも反対しましたし、この格差問題に関しても、よくないということは一部言っております。それはだから、経営者の中にも疑問視する向きがあるということです。

 これは大久保さんにもいろんな方にもお話しましたが、いまのシステムを日本はずっとやっていってそれでいいのか。それでいいと思うか。それでいいという人もいます。それではよくないという人もいます。ただ、私が思うのは、こうした経営者の考え方は一部有効な部分もあるだろうが、それはやはりちゃんと日本という土壌の中でどうするかということをみんなと議論した上でやらなければいけない。

 それこそ、派遣労働、パート労働をどう考えていくか。たとえば一企業だったら、全社的に考えた上で取り組まなくてはいけないものをフレームだけ持って来て、システムだけ導入するということをやって来た結果、いくつかの企業も失敗しました。

 ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、ある企業で、雇用の分化、流動化、リストラもある、競争原理に従ってうちはやるぞとシステムを急激に導入したため、既存の非常に優秀な社員もそれじゃこんな会社に勤めても意味がないじゃないかというのでやる気がなくなり、モチベーションが低下するのと比例してモラルハザード起きたわけです。その企業は後に自己批判して、それを是正しましたけれど。

 ある意味、大手企業さんは、情報もたくさんありますし、いろんな形で経験則をたくさん積めるゆとりもありますからいいんですが、中小企業なんかは大手企業さんがやったことをそのまま真似したりしますから、優秀な経営者がいれば別ですれど、大方真似してしまうので、それが影響して、いろんなことが起こってしまうということにもなっていると思います。

 ですから、私たち日本人が自分たちが抱えている自己矛盾だとか問題点を検証した上で、会社のあり方、働き方のあり方、あるいは働き方に関わるいろんな権利の問題をどういうふうに考えていくかということをやった上で進めていかないとよくないのではないかと思います。

 以上がこの『見えないライン』と直接つながるような背景にあるもののお話です。

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