01.24東京都人権啓発企業連絡会指導者セミナー講演

          「白紙のページ」

               (後半)


        


      (4)人間存在の原理原則から


■涙を流し、感動すれば問題は解決するのか



 私たちが社会の実相を見ようとしない。あるいは、自分たちが生きて来た歩みといったものをちゃんと検証しないということの根本にあるものとは一体何なのか。それについて、話を進めたいと思います。

 今回特に、人企連のみなさんですから、企業の中で人権教育や人権啓発を担当されているみなさんだと思いますので、あえて申し上げるのですが、これについては賛否両論あると思いますけれど、あえて申し上げておきたいと思います。

 冒頭から申しましたように、平等な社会で、みんなが平和で楽しくて、人権を侵害しない社会というものは、人間は有史以来持ったことはないじゃないですか。

 私たちが目指しているものは、もちろん人権を侵害しない理想の社会です。理想を求めることを悪いとは言いません。ただ、人間というのは本質的にそういう生き物だということから出発しないとお行儀のいい人権啓発であるとか、人権教育になってしまうといことです。

 私は、東映さんの関係でもありますが、いろんな行政と仕事をやりますけれども、今回も徳島県の仕事ですが、実は徳島県、徳島県同和対策推進会というのは非常に特殊で、がんばっているというか、いままで問題作をたくさん創っているのですが、それ以外の自治体に行けば、こういう作品は創れないと思います。

 先ほどご意見があったように、どう活用するか戸惑いがあるというのは正直なご意見で、ご覧になられたときにそう思っていただきたくて、私は創ったわけですが、多くの自治体では、こういう作品を創る前に規制がかかります。

 一つ典型的なのが、同和という言葉はあまり出して欲しくないというようなことですね。できるだけ数は減らして欲しい。「えっ!同和の問題を扱うのに、同和という言葉を出しちゃいけないんですか?」「うん。それはまた逆差別を生むことになるから」みたいなことでですね。

 そういうことを平気で言われますし、つまらない話ですけど、台本の一語一句を訂正する。つまり、不特定多数の誰かが見た場合、こういう言い方だと差別されたと思うかもしれないから、これは言わない方がいいとかですね。差別的な発言ではなくてもですね。

 そして、最後、ラストシーンは必ず明るく前向きになるように創って欲しいと言われます。…何なんでしょうか。この明るく前向きにというのは…。(笑)。ぼくは何回も訊いたことがありますけど、「明るく前向きって何なんですか?」「だからさ。見終わった後で、なんかがんばろうという気になるようなさ」ということなんですね。

 あの…。みなさんに訊きたいんですが、人権啓発ってがんばったら、よくなるんすかね。がんばって、みんなが感動したら、よくなるんですかね。感動して、涙流して、よかった。悲しかったけど、これを乗り越えて、こういうふうになれてよかったねって。そういうふうになれば、いい問題なんですかね。それで済むような問題だったんでしょうか?

 だったら、同和問題なんてもっと早くなくなっていますよね。

 ぼくはそう思いますね。在日朝鮮人に対する差別だってなくなっているはずですよ。でも、そうじゃないじゃないですか。なくなってないじゃないですか。歴然と差別はまだあるし、ぼくは在日の友だちがいっぱいいますけど、就職できなかった、だから飲み屋やってます、そういう友人がいっぱいいますよ。

 この間、『白紙のページ』、屠場を扱ったものをやりましたけど、仕事がなかったから、屠場行くしかなかったという人がいるんですよ。だから、なくなっているはずなんかないのに、「明るく前向きに」。それを私たちはずーとやって来ていますよね。

 つまり、お行儀のいい。誰も傷つかない。見終わった後で、「いやぁ。どうしたらいいんだろう…」というようなものは見たくないんですよね。

 要は、答えは簡単で、創り手の方が安心したいわけです。そして、見る人たちも安心したい。

 何に安心したいのか。開いてないところを見たくないんですよ。お行儀のいい形で終わらせたい。誰も傷つかない。誰も迷惑を被らない。誰も突っ込まれない。こんなこと言ったら、同和対策の団体の人に、たとえば解放同盟の人に何か言われるんじゃないかとかですね。

 別にいいじゃないですかね、言われても。とぼくは思うんですが(笑)。そういう自己規制がすごく多くて、何でそういうふうに自己規制するんだろうといつも思うわけです。


■人間の本来性、原理から出発する


 つい最近の映画で、『麦の穂を揺らす風』という作品があって、ご覧になられた方いらっしゃいますかね。

 アイルランド紛争を描いた映画なんですけど、その中で、自由と自治の問題を提起しています。非常に重い映画ですけど、その中で描こうとしていたのが、私の今回の講演のテーマでもあるんですが、もともと、人間というのはディスコミュニケーションなんだよということなんです。

 つまり、コミュケーションができているのが普通の状態だと思うところから、戦後民主主義教育も平等主義も生まれているんですね。話し合ができて、話し合いによって物事は解決できるし、丸く収まるはずだという、まさに共同体的、日本共同体的発想ですが、そこから生まれています。

 しかし、私はそう思いません。人間というのはディスコミュニケーションな存在だと思っています。先ほど申し上げましたように、人間は有史以来、人を殺して来ている。自分がよき縄張りを得るために、他者を排除しています。そうしなければ、人類の歴史はないです。

 まず、この歴然とした事実があります。人間の中の本性には、そういう人を差別したり、貶めたり、人を殺したり、あるいは屠場のことで言えば、他の生き物のいのちを獲って生き延びるというのが人間です、根本的には。徹底して、ディスコミュニケーションを生きて来ている。

 その前提で、私たちはそれをどう回復していくかということを考えなきゃいけないわけです。「いや。そんなことはない。人間はそんな存在しゃない」というふうに、人間の原理から議論を始めていないところに大きな問題がある。

 なぜ、そうならないのか。それは、一つには公と私を別々に考える、日本独特の世界です。さっきお話した、会社の中では言えなくても、外では言える。本音と建前が違うということです。

 本音と建前を別にするということで、深刻な議論から撤退して行く。結果、いろいろなことを曖昧にできる。社会的責任からも逃避できるし、いろんなところから逃げ出せる。

 この曖昧性ということの中に、『見えないライン』を制作する背景がありますし、それが、私が制作している背景でもあるんですけど。

 しかし、曖昧にせず、「じゃ、人権って一体何なんですか? 自由って何なんですか?」ということを考えていただきたい。

 人権とは一体何なんのか。自由とは一体何なのか。原理の問いをちゃんとしていただきたい。みんなが仲良く手を繋いでいて、人権守られるんでしょうか。

 行政が言うような、たとえば、自治体に行くといろんな行政のスローガンがありますね。「部落差別をなくそう」「同和問題を考えよう」云々。標語は沢山あります。

 その標語を標語のままに描けば、いいんでしょうか。ぼくはそう思いません。さっきから申し上げていますように、私たちの中に他者を排除したり、差別したりする意識があるんだというところから出発して、人間というのは非常に残酷で、残忍なものだ。ディスコミュニケーションの中でしか人間は生きられない。そういうところで、どういうアタッチメントをつくるのか、アクセスをしていくのか。

 そのために、自分たちにどういう活動の仕方が必要なのか。あるいは人権映画はどう創るべきなのか。人権セミナーはどうあるべきなのか。そういうことをきちっと考えた上で、形を変えて行かないと先ほどから言っているように、いくら私たちが努力しても、みなさんもそうだと思うんですが、差別問題はなくならない。

 そういうことを念頭に置かなくてはいけないだろうということが一点です。


■画一性とありがちな対立構造からの脱皮


 戦後民主主義の問題点は、私は決して民主主義が悪いと言っているのではないのですが、みんな一緒だったらこわくないという民主主義だからダメだということなんですよ。

 日本ではちょっと不可能に近いですけど、個の自立をちゃんとしてもらって、自分の公民意識と国。あるいは、公民意識と人々。そういう中で、ちゃんと自分の権利主張ができる状況をつくっていかないとダメだろうと思うわけです。

 たとえば、人権を侵害するような差別はいけないよという人と人権問題より企業の利益が優先だろうという人たちが会うと議論にならないですよね。

 よくテレビでもいろんなディスカッションしていますが、ぼくはあまり好きじゃないですが、いろんな政治家が出て来たりして議論してますよね。見るといつもつまらないというか、歯がゆいというか。要するに、自分たちの立場の論理しか言っていない。

 自分のところもおかしいという議論をやって欲しいですね。自分のところのあり方もおかしいかもしれない。こことここがおかしいので、それをどうするかを考えているのだけれど、それについてはどうだろうという議論にはならないですよね。君たちが悪い、そっちが悪いですよね。

 ぼくらの権利は侵害された。それはお前たちという権力があるからだ。この二極対立構造の中で議論していて、果たして、いまの、あるいはこれからの世界の中で私たちはよりよき社会を築き上げることができるんでしょうか。

 たとえば、今日、人企連という形でみなさん集まっていらっしゃいますが、みなさん企業人として生きていらっしゃる。だから、企業の収益が上がらなければ、大変なことになると思います。それがあって人企連もできるんだと思います。

 ですから、単に企業が悪い。人権を抑圧しているものが悪いというだけでは根本的な解決に繋がっていかないと私は思っています。

 その中でどうスタンスを取って行くかということを、いまの原理原則を見ながら考えていくということが必要なんじゃないかと思います。

 そのとき、やり方は企業によっても違うでしょうし、団体によっても違うでしょう。学校によっても違うでしょう。地域によっても違うでしょう。それぞれの地域に合った、団体に合った、組織に合ったフレームづくりというものを本当に考えて来たのか。

 かつて私たちが受けた、民主主義が大事なんだ。いままで述べてきたような、画一的で、刷り込まれた人権教育が大事なんだというふうに思って来た。しかし、それは、同じようなことを同じようにやって来ただけなんじゃないか。

 実は、それぞれの特殊性があるし、人も違うわけですから、違っていいはずなんです。違わなければ、本当はおかしいだろうと思います。みんなが同じ人権教育をやること自体がおかしなことだろうと。それぞれの立場と形の中で展開していって全然問題はないのではなかろうかというふうに思っています。


■ダークサイドを消し去ろうとしているものの実体


 こういう言わば、きれいなフレームを、これは人権だけではないですが、どんどん増やしているということが実は私たちの生活の中にたくさんあります。

 私もよく使っていますけれども、部屋の臭いを消すファブリーズ。とっても便利です。タバコの臭いも消せますし、気持ちがいいです(笑)。

 ところが、昔、小学校、中学校の頃とか、人の家に行くとにおいがしましたよね。その家のにおい。なんか自分の家とは違うにおいがしました。時々、とってもいい匂いのする家があったり。くさい家というのはなかったと思うんですけど、子どもの自分にとって、においはいろいろなバリエーションがあって、おもしろかった記憶があるのですが、ある家に行くといままで嗅いだことのない、いい香りがして、そこにはスピッツがいて、なぜか時計は鳩時計。ピアノが一台ある。これは笑うところなんですが(笑)。

 だから、いろいろなにおいの違いがあってもいいのに、いまは「においって、なんか人迷惑だよね」というふうになってますよね。だから、消していく。人間のにおいを消していく。人間とは何ぞやという、においを消していく。

 そういうふうに消しているものが、人権においても、他の問題においてもいっぱいあるんじゃないかということなんです。

 先ほど、私が申しました、木村くんという茣蓙囲いの家を見る。そう言うダークサイドが社会にはあるわけですよね、で、それを見る。小学校の2、3年生の頃の自分がそこでいろんなことを感じました。感じたと同時に、それが社会的な問題どうのこうのは考えられません、が、しかし、世の中が変化し、自分自身もいろんな学習をする中で、その木村くんの家というものの向こう側にあるものって、何だろうって考えるようになります。

 そういうにおいやダークサイドが人間が人間であることを感じさせたりする。しかし、そうした社会矛盾を感じるような情報がどんどんオミットされているというのも事実です。

 結果的にそういう中で何が起こるかというと、『白紙のページ』の中で宮崎さんも語っていますが、たとえば、六本木ヒルズに住んでいる人と屠場で働く人の間には差はあるのかと問えば、みんな、差はないと言う。

 しかし、多くの人々が言葉では差がないと言っているが、心の中ではそう思っている。作品では、そこに問題があるんだと言っているんですが、それは、どこか自分は安全な場所にいて、他者への憐憫や同情みたいなレベルで、世の中のダークサイドを見ようとしている。あるいは消し去ろうとしている。

 ぼくは、そこに冷徹さや残忍さも同時にあるような気がするわけです。再三申し上げますが、表題や標語だけで納得でき、自分が安全だ、安心だと思うものには疑問を持った方がいい。そういうふうに思います。


■人間の不条理性から救済や再配分のあり方を考える


 先ほど申し上げましたように、人間の本来性というのは非常に不条理性に満ちたものなんだ。そういうふうに私たち人間は生きて来たんだ。要するに、人を殺したり、人を差別したり、食べ物を奪い合ったりしながら生きて来たんだ。

 その原理原則に立てれば、見えないものが見えて来て、「じゃ、同じ人間として共に生きている以上は、この世にある社会資本をどのように均等に分配することがいいのだろう。そのための仕組みは何だろう」って、仕組みを考えることに行くはずなんですよ。

 仕組みを変えなければ、再配分はちゃんとできない。再配分がちゃんとできなければ、機会均等もない。平等主義もないわけです。

 そういうことを考えると、たとえば西欧の例を見れば、宗教的な理念があるじゃないですか。要するに、人は救済し合うものである。なぜなら、人間には差別や格差が付き物だから。人間としての互いの存在の厳しさを知っている。誰でも差別の対象になり、誰でも尊厳は踏みにじられる可能性があるがゆえに、救済は当然なのです。これが原理原則として強くあるわけです。

 その結果として、いろいろな社会のリソースが形成されているのですが、私たちの国は、それがありませんから、寄らば大樹の陰になりやすい。リソースを当てにできないから、そうならない安全なフレームへ集まり、フレームの中に入ることが重要で、そうなれない人間は落ちこぼれとして切り捨てられてしまう。

 拠り所としては共同体意識しかないので、そこで、他者の評価を認める中で自分を成り立たせるしかないという循環を繰り返して行くというこになります。


■閉じないことで固定された価値観と向き合う


 いま私たちの国で起こっている問題は、自分が傷つかないために、自分が面倒くさいことに巻き込まれないために、閉じよう、閉じようとしている世界です。

 拠り所がなくて不安な社会だからこそ、どんどん閉じていって、外とのアクセスを取らないようにしている。一見、取っているように見えますが、実は大切な会話をしたり、相手の心に届くような言葉を発そうとしていない。

 そうなったら、その次が面倒くさいから、撤退して、お行儀のいい言葉だけで終わらせておこうとしています。そういうことをしているとどういうことが起こるかというと、さっき冒頭で申し上げたように、感性が麻痺して来ますから、自分の状況を変えて行こう、自分がみつめているいろいろな社会の矛盾とか、人権の問題に対して、果たしてどういうシステムが有効であるかをみんなで議論していこうということが益々なくなっていく。

 形ばかりのものがどんどん乱立して、でも、それは結果的に心に届かないということで進んで行ってしまうということが起こると思います。

 先ほど述べたように、個の確立というのは非常に日本では難しいですが、そういうことをやっていって、自分たちが生きている価値観、自分たちがいままで信じていた価値観を疑う必要があります。

 シャンシャンシャンで終わって、「泣いたよ、感動したよ」で終わってそれでよしとするのではなくて、これまでと同じでいいのか、それでいいのかと考えていただきたい。

 ですから、たとえば、この映画であれば、どんな批判でも結構です。賛同でも結構です。私が意図したことではないところでも結構です。いろいろな意見を出していただきたい。

 この間、徳島の高校生に試写で見てもらって、10人くらいしかいませんでしたので、どうでしたって訊いたんですが、その中の2人が「お父さんがリストラされました」「お兄さんの会社が倒産したんです。他人事ではないです」と言われて、非常に恐縮したんですけど、彼らは彼らのやり方で理解の仕方をしている。それで構わないだろうと思うんです。


■観る人々の感性を信じる


 一応、人権の話に関する部分はこれで終わりにしたいと思いますが、一つだけ付け加えると、よく、この作品はこういう人が観るから観せられないとか。こういう人っていうのは、子どもが観るから、この人権映画は観せられないとか、よくあるんですよ、教育委員会なんかでは。

 「これを観せるのはどうやったらわからないので、マニュアルくれませんか」とか。観せ方のマニュアルが欲しいという話ですね。今回のいじめ問題でも、各地の教育委員会の対応を見ていると押して知るべしなんですが。

 つまり、自分たちの理解を越えたものとか、自分たちでどうしていいかわからないものは扱えない。確かにそうなんですが、でも、教育というのは、そうじゃなくて、相手を信じることですから。中学生、高校生であろうが、その人たちの感性をちゃんと認めるということですから。それこそ、人権意識だと私は思います。

 若いから、知識がないからこれくらいであろうというのは、明らかな差別です。大人の居丈高な姿勢です。

 そうじゃなくて、ぶつけてみればいい。ぶつけてみてわからなかったら、質問をしてくるでしょう。あるいは、勝手な解釈で、これはこうなんだと思う人もいるでしょう。

 たとえば、屠場の映像だと気持ち悪くなるんじゃないかという方がいます。ところが、私が収録した屠場は、いまの屠場ですから、美しいです。工場の生産ラインです。

 これは私の個人的な感想なのかもしれませんが、私は視察に行ったとき、とにかく、その牛にかぶり付きたかったですね。だから、吐き気をもよおすなんて、とんでもないという話でしたが、でも、そういうふうなことを心配する人たちがいる。

 つまり、自己規制をどんどんかけている人がいる。だから、自己規制をかけないで、情報をそのままダイレクトに与えてあげるということがとても大事なことだと思います。

 そこで起きるいろんな波風。それを引き受けて行こうじゃないかという気概が必要だと思います。そうでないとお行儀のいいことで終わってしまうので。最後に、直接人権に関係する話の中の終わりに付け足しておきたいなと思います。



    (5)企業の社会的責任と貢献について



■コントリビューションの概念を知る


 時間も迫って来ておりますので、詳しくは触れませんが、また、みなさんはご専門なので、私がここでお話するほどでもないのですが、人企連のみなさんの活動もそれ自体そうなのですが、いわゆるCSR、ご存知の通り、いま非常に話題になっております。

 特に去年当たりから盛んに言われておりまして、これは、いまいろんな意味で企業のあり方が問われているという時代に入って来ているということなんですが、同時に、格差社会の牽引役としての企業であってはならないという反省も背景にはあると思います。

 そういうところで、自分たちはそれをどのようにやっていかなくてはいけないか。

 もちろん、アリバイにされちゃうと困ります。今日観ていただいた作品のように、アメリカンスタンダードに踊らされて、自社の企業の宣伝媒体として、もちろん、プロパガンダ効果は高いですが、企業の宣伝ツールとしてCSRを使えば、間違いなく市民は離れて行きます。

 ですから、ここも同じで市民はそれほどバカではないと。だから、その点はちょっと留保付きですけれど、CSRの問題は、まさにみなさんが担うべき立場にいらっしゃると思いますので、一つだけ申し上げておきたいと思います。

 先ほどの話ともちょっとリンクするんですが、要するに社会貢献、企業が社会的責任を果たすということで、社会貢献ということが浮上して来るのですが、たとえば、英語でコントリビューションというのがありますけれど、私たちは訳すとすぐ「貢献」と言っているんですが、日本で使われる意味合いというのは、「慈善」とか「憐憫」のにおいがちょっとするんです。

 そうじゃなくて、海外でコントリビューションというのは、どういうことかと言いますと、社会の構成員として自分が生きている、たとえば、税制の問題もそうですし、いろんな権利主張の問題もそうですけれども、それらは、当然のものだとしているわけです。

 兵役のことを例にすれば簡単なんですけれど、兵役が仮にある国があるとすると、兵役というのは国家の国民へのコントリビューションとしての代償ですね。

 国家が国民のためにいろんことをしてくれた。その代償として、国民として兵役を果たすと。フランス共和国ができたときがそうですね。

 そういうふうな形のコントリビューションというのはどういうことかというと、公民意識をちゃんと持った上での貢献。だから、当然のことになるわけです。

 日本においてはそうじゃなくて、公民意識自体が非常に弱いですから、税制意識も低いです。いろんな意味で低いです。

 私の友人の中国人が日本の税法を見てて、中国だったら、これ革命が起きてもおかしくないよねと言ったことがありますけれども。日本の消費税、ぼくは決して高いとは思いませんが、会社を持っているので、払っている方の人間なのですが、やっぱり大変だなと思います。いろんな手当て、要するに、企業によっての個別の手当てがあってもいい。手当てというのは、要するに、収益の内容によってのいろいろな手当てがあってもいいのですけど、一律、がさっと取って行く。

 ま、そういうこともありますが、税を負担するがゆえに、自己の権利をちゃんと自覚する。国が間違ったことをすれば、国を転覆する。

 アメリカ合衆国憲法にはそれがちゃんとありますよね。フランス憲法にもありますけど、治世者が間違ったことをやって、私たち人民、市民の権利を奪う。あるいは国が約束した人々への貢献を反故にした場合は、その治世者は転覆させてもいい。これは武装蜂起も含めてですよ。そういうことを認めています。

 この意味でのコントリビューションというのは、非常にキレがいい。キレがいいというか、要するに重いということです。

 そういう形としてコントリビューションがありますから、その国と市民の契約の中でどういうことをしなくてはいけないかというのが出て来る。だから、当然なことなんですね、ある意味では。


■宗教的理念に基づいた、当然の責務としてのCSR


 みなさんに対しては、もう釈迦に説法だと思いますがCSRが出て来たのは、1920年とか、あるいは、1960年代の公民権運動と言われているじゃないですか。

 もともとあったのは、キリスト教的な、あるいは宗教的な理念ですよね。相互扶助をちゃんとやろう。助け合いをきちんとやらなきゃいけないんだ。それをやらなければ、経済的にはうまく行かないんだということなんですね。

 イギリスで17世紀にピューリタン革命が起こって、それが産業革命の要因となっています。キリスト教というのは、取り分け、プロテスタンティズムというのは産業革命を起す動因になっています。産業革命を起しやすい宗教だったということです。深くは言いませんがそれがあります。

 イスラム教国家圏がその昔、隆盛を誇りながら、いまなぜ疲弊しているかというと教義の違いです。簡単に言うと、イスラム圏というのは、自然、天然が大事。いまの言葉で言えば、スローライフ、スローフードです。それが一時期は非常によかったんですが、産業革命が起こった後、大量生産の時代になり、それが没落して行く。その背景にはキリスト教のプロテスタンティズムがあります。

 しかし、産業革命によって労働者の人権や尊厳が奪われ、劣悪な労働を強いられたり、それまでなかった貧富の差により、貧しい人々が生きるために犯罪に走り、治安が悪くなるといった社会が生まれ、これに対する反省として、企業として社会に責任を持つという理念が生まれて行くわけです。

 宗教的精神を背景として誕生した、産業革命によって登場した企業。宗教をバックにした企業の起した社会不安であるがゆえに、その責任を実感でき、宗教的理念によって企業の社会的責任が当然のように生まれて行ったということです。ですが、日本においてはそれがありません。

 もう一つは公民権運動の中で生まれて来たというもので、これは私たちの時代ですが、要するに黒人解放運動、ベトナム反戦運動があった中で、みなさんご存知のように、クオリティ・オブ・ライフ、QOL=人間の生活の質向上ということが言われるようなって、あまりにも劣悪なものについては、何とかしなくてはいけないということが言われるようになります。

 どうして、こういうことが言われるようになるかというと格差や犯罪があれば社会不安が起き、それでは経済が立ち行かない、あるいはうまく行かない、人々の幸せ感はないというところにあるんですね。

 そういったところを考えておかないとCSRも定着していかないんじゃないかというふうに思います。

 いまCSRはブームですから、一つのムーブメントに終わらせないでいただきたい。終わらないと思いますけど、終わっていたら、企業が墓穴を掘ることになってしまうと思いますので。

 CSRの中には当然、人権も入っていますし、男女の機会均等の問題。名前だけの機会均等じゃなくて、本来的な意味においてですが、この問題もありますし、雇用形態の変化と雇用の流動化によって、いろいろ変わって来ている問題を、うちは労働組合の中の人間だけ守ればいいではなくて、同じ職場に働く仲間として、扶助し合うようなシステムだとかいうのがないと社会的な批判を被りますし、同時にそれは企業内の安心感を創造できないですし、諸々、問題が起こって来ると思います。
 
 そういったことを念頭に置いて、取り組んで行くということが大事なのではないかと思います。



       (6)まとめと質問に応えて


■分断した形でなく開かれた人権啓発を


 みなさん、脈絡のないように思われたかもしれませんが、お伝えしたかったのは、冒頭に言いました、二つの事です。

 もう一回、確認のために申し上げますと、目に見える現実だけを見ていって、それだけで物事を判断して行くのではなく、その向こう側にあるものをみつめるという想像力を働かせることのできる社会をつくって行くということが一つ。

 そういった中で、昨今の雇用に関する人権の問題も、あるいはそれに不随するいろんな問題も解決できるのではないかということです。

 「この『見えないライン』は同和が一つも出来ないじゃないか」。試写のときに、解放同盟の人がおっしゃったことがあるんですよ。それで、へぇーと思いながら、「それが重要なんでしょうか」と。同和だから差別があって、同和じゃない人は差別がないんですかということです。

 要するに、差別というものの根幹は、みなさんもご存知のように、同和の人だから、そうではない私たちのような立場だから、ということに関わり合いなく、あります。

 だから、この作品がなぜこういうスタンスを取ったかというとそういうところに認識のない人たち、同和の問題や在日の問題など差別の問題に認識のない人たちに、差別の問題は自分の問題だよと考えて欲しかったからです。

 しかも、雇用形態の変化によって、いま、まさにみなさんの問題になっているということを知っていただきたかったからです。

 そのことによって、その痛みの向こう側に同和の問題、在日の問題、他にもHIV、云々ありますが、そういう問題もある。ただ、大事なのは、同和なら同和、在日なら在日というように分断した形で議論をすることはあまり意味がない。

 人が妥当な権利を生きる。当然である権利を生きる。これはすべての人に認められるべきことです。だから、貧しい人が人権を奪われていたら、何とかしなくてはいけない。それもそうだけど、じゃ、お金持ちが、豊かな人が人権を奪われたら、それは守らなくてはいけません。当たり前のことです。

 この人はお金持ちだったから守る必要はないではいけないんです、全く。要するに、人権というのは、誰にとっても平等にあるものですから、そこに足かせを設けたり、規制をすること自体が二極対立構造でものを見ている証に過ぎない。逆に、人権を抑制する側になる。

 だから、その人が何をしているかではなく、その人が生きてそこにあるとことによって差別を受けたことがあるとすれば、どのような人であろうとそれは闘わなくてはいけない。

 そのことの認識を強く持つことによって、自分たちの権利の問題も、そうじゃない人たちの権利の問題も共に考えられるようになるのではないかと思います。だから、分断した形の中で人権問題を考えるのではなくて、みんな共通の問題として考えて行くというところに、アメリカの公民権運動のような広がりが本当は持てるはずなんです。

 それがいまはまだ、フレームの中に閉じているので、できていない。それを少しでも変えたいとは思いますが、映像だけで変えることはできません、映像の力なんて高が知れていると思っていますので。

 映像の力だけで変えるのではなくて、映像をご覧になったみなさんに議論していただいて、この作品に対するご批判でも結構ですし、議論をする中で道筋を少しずつでも積み重ねて行けたら、それに越したことはない。それを幸いだなと思います。

 もう一点は、人間の原理原則。人間の本性にあるものをきちんと見据えたところから、お行儀のよい人権啓発ではない、心に届くメッセージを創造して行くということです。

 拙いお話ではありましたが、私も逆の立場だとこういうところに集まって来て、こういう話を聞かされて楽しかったかどうかわかりませんが(笑)。そういうフレームの中でお話をしなければいけない立場にいまいますので、こういうお話をしましたが(笑)。

 今回、こういう形でお呼びいただいて非常に感謝しておりますし、私もシンポジウムを主催したりしますので、よくわかるのですが、こういう会場にこれだけの方をお集めしていただいて、この形をつくること自体も、とても労力のいることだということはよくわかります。

 いろんな方がいらっしゃる中で、『見えないライン』を取り上げていただいて、こういうお時間をいただけたことを最後に感謝申し上げて、終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました。


■言葉ではなく、システムで心を変える


Bさん「見えないラインに関わる部分ではないんですけど、監督の方の話の中で、聞き間違えたのかもわかりませんけど、確認の意味で質問させていただきたいと思います。

 人権啓発活動というところで、監督は、人間の本性は人を差別するであるとか、人を殺すであるとか、不条理に満ちたものだと。人間は残酷で、残忍なものである。それをわかった上で、それを変えて行くような人権活動でないと意味がなのではないかという話をされていたんですが、性悪説か性善説かという話になって来るんですけど、私は人権担当者ということで、そういうことをやっているんですけど、私の考えとしては、人間とはもともと残酷とか、残忍とかいうものではなくて、生きて行く中で、社会であるとか、環境とか、しがらみの中で間違った考え方を持ってしまうというところがあるので、考え方を変えるような啓発活動をするのかなと自身では思っているんですけど、監督の考えでは、啓発活動は人間の本性というか、根っ子にあるものを変えて行くというような意味に捉えたんですけど、本性とか根っ子を変えるというのは、なかなか難しいと。答えはなかなか出て来ないんじゃないかという気がするんですけど、そういったことのお話だったということでよろしいんでしょうか?」

秀嶋「基本的に、概ねそうなんですが、性善説・性悪説という問題ではなくてですね。有史以来の人類の歴史を検討していただければわかるように、ということなんです。

 もちろん、「人間は社会的動物である」とアリストテレスが言っているように、社会的関係性の中でしか、人は生きられませんから、おっしゃる通り、社会の規範だとか、社会のシステムが人間を変えて行くんじゃないかというご指摘は間違っていないと思います。

 ですから、人間はそういうように弱いものですよね。ちょっと社会のフレームが変わったりすれば、簡単に変わってしまう。たとえば、わが日本国では、1945年の終戦がありますが、失礼、敗戦がありますが、その前の日本とその期間の日本とでは全然姿が違う。その後の日本もまた違う。つまり、社会のフレームとシステムが変わった瞬間に、すべて変わっているわけです、簡単に。特に日本は信じられない規模で変わっているわけですけど。

 そんな弱い存在に過ぎないということです。それをまず理解しようということですよ。私は、人間の本性はそんなものだと思っています。人間にはよき面も確かにあります。決して、それがないと私は言っているわけではなくて(笑)。

 ただ、それは非常に安定した状況、何も起こっていない、自分の権利が侵害されていない、自分が生活不安がない、要するにそういう安定した状況では持ちやすいでしょう。

 でも、バランスが崩れた瞬間、人間はいかようにも変われるということです。コソボ紛争然りですね。ソマリアの事件然りですね。そんなふうに簡単な存在だから、伝え方がこの程度の深さだったら十分だろうと思っちゃ危険だよということです、簡単に言うと。

 だから、ぐっと抉って、人間ってこんなものだよねというところをしっかりみつめた上で、それをやらないためにはどういうシステムがいいか。やらないための形ですね。それがまず大事だろうと思います。人間はそういうもんだと思えば、そうしないためのシステムをつくればいいんですよ。

 システムがなくても、心に語りかければ何とかなるよというのは、ぼくは無理だと思います。ぼくの意見は。人間というのはそんないい加減なもんなんだから、システムつくってしまおう。こういう考え方持たなきゃいけないねという、システムを提供することだと思います。

 それでもやっちゃいます、きっと。だったら、やってしまったら、自分にとって不利益があるというふうにしていかないとダメだと思うんです。

 たとえば、CSRの話を最後にちょっとしましたけど、CSRも何で興るかと言ったら、企業が生き延びるためでしょ、根本は。

 社会の一員として生きるというのは大事なことです。しかし、その裏側にあるのは生き延びたいからです。生き延びるためには、「じゃ、ちゃんとCSRを考えようじゃないか」となって、現在のようになって来ている。実際に取り組んでいる企業はたくさんありますけど。これがシステムです。

 だから、そういうふうにしないと放っとけば、どこだって雪印になる可能性がある。不二家さんになる可能性はあるんですね。我々はそういう脆弱な存在だから、縛りをかけておこうということですね。その縛りが、もちろん人権を侵害するものであってはなりません(笑)。

 人権を縛らない形の何かの縛り。みんなが合意できる、コンセンサスの取れる縛り。

 コンセンサスがいるから、議論が必要だと言っているわけです。面倒くさい議論をしなくてはいけない。議論した上で、縛りをつくれば、それに自然と従って行くじゃないですか。ぼくは、そのことの方が遥かに有効だと考えているわけです」



                   講演後半終了

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