第11回 逆転のラビランス


 自由や自治、あるいは人権の問題を考えるとき、公民とは何ぞや、公共財とはなんぞやという問いが必要です。当然ながら、それは市民社会の形成とはいかなるものであるか。市民社会における国家とはいかようなものなのか、政治とはいかなるものかという問いと表裏一体です。

 この1年、私はこのWEBで、あるいは自分が制作する映像作品やミニシンポ、講演の中で、日本近代が白紙にし、かつこの国の戦後民主主義が見えなくしていしまっている日本社会の本質的な姿を問い直し、それを一つ一つ丁寧に検証するところからしか、これからの日本の進むべき道は見えて来ないと語り続けています。

 しかも、それは、これまでのような二項対立構造のベタで、わかりやすい対決の図式によって、自分たちが帰属しているフレームを絶対視するような狭窄した視野からの問いではなく、まず帰属しているフレームのあり方を疑うところから始めなければ、自らに刷り込まれている誤った常識、それによる自己規制からも解放されず、自らが引き起こしている誤認にも気づけないと警鐘を鳴らしています。

 自らの誤認にも気づけず、ただ自己の帰属するフレームの正しさのみをぶつけあう、本質論のない対立や議論は、ただの消耗戦に過ぎません。それは、本来、何者かを守り、保全し、救済するための闘いであるにもかかわらず、そこから遊離し、民意の撤退を招きます。すなわち、自由や自治、人権といった関心から、結果的に人々を遠ざけ、社会の諸問題やそれを変革すべき政治への無関心と諦めを生んでしまうのです。

 私たちは、経験の蓄積によって、様々な常識を身に付け、それは正しいことであるという価値観を形成しています。脳科学が語るように、一旦認識した色や形に対して、これは共通の常識であるという認知の仕方をすることによって、他者とのコミュニケーションを成立させています。それは、たとえれば、自分が認識している赤という色は、他者と共有できるがゆえに、絶対的な赤であるという「常識」を持っているということです。

 しかしながら、「私」が認識する赤という色は、あくまで、「私」という脳が認識している赤であり、たまたま、他者との共有体験の中で、赤としているだけで、突き詰めれば、それは絶対的な赤だと言い切ることはだれにもできないはずなのです。

 なぜなら、他者の脳は、あなたの脳ではないからです。かつ、共有体験の大きさ、共有体験を持つために「私」が獲得した世界の広さによって、ある赤という色を絶対的な赤とするなら、「私」という脳は、全世界にいま存在する脳との地球規模での共有体験が蓄積されていなければならないことになります。いや、そればかりか、人が赤というものを認識した最初の人間から、この世に既に存在しない有史以来の他者の脳に対しても、これが赤であるか否かの検証をしなければいけないことになるはずです。

 つまり、「私」が認識する赤は、あくまでも「私」という特定の脳が認識する赤に過ぎなく、それによって他者と赤を共有しているとするのは、赤らしきものと互いが認識しているものを、とりあえず、便宜上、赤としているに過ぎないのです。

 私たちの常識とは実はその程度のものでしかなく、コミュニケーションを成立させるために創り上げた共同幻想に過ぎません。

 海外生活や体験のある方には実感があるはずですが、日本の印刷物と海外の印刷物では国によって色の違いがあります。映像カメラの色調整も異なります。技術的な問題は別にして、国によって認識している色の色合いが違うのです。それは、日本人の脳の常識は世界の常識ではないということを意味していもいるのです。もっと言えば、世界の常識と思われるものすら途轍もなく危ういものです。

 もう時期、桜の季節がやって来ます。私たちは桜と言えば、「ああ、あの淡いピンク」だと思っています。しかし、実際の桜は決して、私たちが記憶しているあの淡いピンクではありません。印刷の世界では、この色を出すために、意図して色分解の段階で、「記憶色」という誰もが桜と認識する色を造形します。そうでないと、印刷された写真を見て、それを桜と人々に実感させることができないからです。つまり、実際の桜の花びらとは違う、常識とされているイメージの桜色を演出してみせるわけで、その技術力の開発に日本の印刷業界は気の遠くなくるような熟練を積み上げて来たのです。

 これは言い換えれば、誤認の積み重ねを常識としているということで、桜というものの実体とは全くかけ離れたものです。

 いま、私たちの国では憲法改正のための国民投票法案や憲法改正論議がまことしやかに政治の場で語られています。しかし、政府がこれを議論することは、一見常識のように見えながら、憲法とは何ぞやというそもそも論を度返しした逆転の議論です。

 近代憲法とは国民の自由や自治、人権を縛るものではなく、治世者や権力者に対して、国民の自由や自治、人権を守るために誕生したもので、国民でなく、治世者や権力者を規制し、縛るものです。国民からの声や運動なしに、治世者がこれを扱うことは実に不遜なことで、治世者が改訂を発案し、これを国民に問うというのは、主客転倒。近代国家において仰天動地の話です。

 アメリカ合衆国憲法に見られるように、憲法が治世者を縛る上で過不足があると判断された場合、修正条項によってそれを補完するように、憲法そのものを改訂することには大きなブレーキが掛かっています。ましてや修正条項は第二条にあるように、人民の武装蜂起を認めるという治世者にとっては実に不都合な条項です。つまり、憲法を何がしかの理由で触る場合、それは、徹底して国民の自由と自治、人権を守るためです。

 「我が国の憲法は現在の社会情勢、世界情勢にそぐわない。ゆえに改憲が必要である」というのは、あたかも憲法は治世者の政治判断によっていくらでも改憲ができるという国民無視の見解です。

 もし、治世者にできることがあるとすれば、私たち国民に対して、憲法がこれでよいか否かを考えるための場を創造し、民意を高め、国民自らが憲法はなんぞやという議論を始める民意の形成に力を貸すことくらいしかありません。

 こうした逆転は、防衛庁を防衛省とし、自衛隊を自衛軍とする立案も議会によってなされることが、あたかも常識であり、民意の反映のように言われていることにも当てはまります。

 軍というのは近代国家においては国軍です。皇軍でもなく、政府軍でもありません。国民の軍隊であり、軍は国民の安全と自由、そして自治を守るためのものです。ゆえに、東南アジア諸国に見られるように自由主義国家であれば、軍が国民のためにクーデターを起すことは決して不遜なことではありません。

 軍隊の構成員は国民であるがゆえに、それは当然なことで、国民生活が治世者によって圧迫され、人間として当然の生活保障が得られず、いわれなき差別や格差を生むものであれば、それに対してNOと叫び、悪しき政府を転覆させ、民意が反映する政府が樹立できる環境をつくるのは全く民主主義に反してはいません。

 しかしながら、自衛隊はその成り立ちからして、政府軍です。国民の安全と自由のための軍隊ではなく、アメリカの安全保障のために政府によってつくられ、湾岸戦争支援やイラク派兵に見られるように、アメリカ政府の意思に同調した政府によって指揮統率される政府軍です。これは、近代国家における国軍とは全く異なります。

 私たちの国で、国民の自由と人権のために立ち上がった軍の行動は、2.26事件しかありません。松本健一が語るように、あの一瞬だけ、明治以来皇軍であった日本の軍隊は、国軍たろうとしたのです。

 青年将校の個々の思いは様々であったにしても、その動機は、娘を身売りさせなかければ生活できず、軍隊に入るしか生きられない兵士たちの生活苦がある一方、満州侵攻によって財閥、軍閥、一部の裕福な人間が何ら自国の疲弊した庶民の現状を振り返ることなく、何ひとつそした庶民の生活実感もないところで、国を動かし、国民を、軍を動かしている事実に強い義憤を感じたからです。

 以来、日本の軍隊が国民のために立ち上がったことはありません。それどころか、沖縄においては国民に銃を向け、これを殺傷しています。軍が一般市民に銃口を向けるということは近代国家における軍隊ではあり得ない暴挙です。

 いわんや、自衛隊が国軍であるはずはなく、国軍足りえる要素はそのどこにもありません。もし、国軍としての要素があれば、民意ではなく、閣議決定によって憲法を無視し、海外へ派兵されることに、国民の軍隊として自ら異議を唱え、自衛隊自らが政府の誤りを糾さなければなりません。そして、民意に対して、海外派兵は必要がどうかを問わなければなりません。これは憲法に反していないか否かを問わなければなりません。その自由も権利もない自衛隊が、政府の意思に唯々諾々としている自衛隊が、どこに国軍たるゆえんがあると言えるのでしょう。

 私たちの国はいま百年の禍根を残す選択を、糸もたやすく行おうとしています。憲法論議も自衛隊論議も悪いことではありません。それはやった方がいい。それによって、少しでも民意が高まり、民意の形成がなされるなら、それはよきことです。

 しかし、いま行われている憲法改正、国民投票法案、自衛隊の軍への格上げなど、本来、民意から起きなければならない論議を治世者の当然の権利の如く議論されていることに大きな逆転があり、かつ、そうした議論から生まれた改変は、憲法や軍隊のそもそも論を深く議論したものではないがゆえに、何かの誤りや失敗に遭遇したとき、戻るべき原理がなく、基軸もないがゆえに、泥沼のような迷宮へ国、国民を招くことになります。

 圧倒的過半数があれば、それが民意の反映であるとするのは、アメリカの大統領が湾岸戦争やアフガン空爆・イラク戦争の際に、限られた情報のみを国民に提供し、その結果として圧倒的支持があるとしたのと同じです。その結果、いまアフガンやイラクで、中東で何が起きているか。引き返しようのない戦闘状態の中で、ベトナム化への恐怖が国民に醸成されています。

 しかし、そこに原理も基軸もないがゆえに、人々は迷宮に迷い込んでいるのです。
                          

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