第10回 恥の文化、白紙の文化

 アメリカの文化人類学者ルース・ベネテイクトが『菊と刀』という日本人論を書いたのは1946年のことでです。対戦国である日本研究をしていたアメリカ軍部の特務研究機関には、ベネティクトの他、後に三島由紀夫の翻訳で知られる日本研究家のドナルド・キーンもいました。

 徹底した日本研究の中で、彼らが導き出したのは「恩義」と「恥」を基本とする日本人の行動原理です。

 人間はそもそも脆弱で愚かな、罪深き存在であるとする西欧の宗教理念を基盤とした「罪の文化」と共同体や他者との関係性から生まれる外部評価を基本とする「恥の文化」はその行動原理が根本的に異なります。

 明治以降の日本近代の矛盾、とりわけ市民社会の形成が民意によってなされず、その後の市民意識の形成も天皇の臣民意識と摺り返られた日本独自の展開、かつ戦後、民主主義が移入されながら、それが画一主義や悪しき平等主義の温床となってきた背景には、この「恥の文化」が歴然としてあります。
 
 他者の視線、他者の言動、他者のふるまいを常に意識する社会は、他者との一体化、同一化を生活の振る舞いの第一義とさせてきました。

「法に照らして」、「神の教えに照らして」ではなく、生活行動の基準を決めるのは他者に照らしてであり、仮に法や神の意思に反するものであろうと、圧倒的多数が支持するものであるならば、反論はするにせよ、妥協できる落とし所を模索し、共同体が不足なく機能することを最優先する。それが日本の社会です。つまり共同体こそが天皇を頂点とする国家統合の基本単位とされてきたのです。
 
 平穏無事な社会にあって、おそらく、そうした地域共同体はある意味、相互扶助の機能を有効に働かせ、人々にとってよき環境を与えたかもしれません。また、共同体が磐石で、人と人の絆が強固であるがゆえに、地域の教育力は強く、それは子育てばかりでなく、思春期前期の男子を一人前にする性の手ほどきや精神的な症状を示す、ちょっと変わった奴も地域が容認する骨太な仕組みも持っていました。

 しかし、同時に、共同体の縛りが強いために、一旦、何かに火が付けば、それは一気に人々に広がり、他者を排除するいわれなき差別を生む。因習や前近代的な風習が人の自由を威圧する。あるいは、根拠のない誹謗中傷が一人歩きをするといったことが起きます。村八分という共同体の処罰は、村のルールという一見、法の如く見えるが、実は加熱した心情を背景とした正義によって実施されるに過ぎないものです。

 結果、こうした社会は、みんなと同じような振る舞いをしていれば、安全だという同調圧力を生み、「なかったことにする」「ないことにする」「見なかったもとにする」という、事なかれ主義の源となっていきます。

 当時者ではなく、傍観者としてそこにあることで、自己の意思を曖昧にし、主張や議論を避け、他者の行動と同一化することで、透明な存在としてそこにあろうとするのです。

 いま噴出しているいじめ問題の根源にこの歪曲された「恥の文化」があります。

 いじめ問題が減少したり、沈静化しているというデータが偽りであることは、残念ながら教育の現場にいず、私のように教育にこそ社会の問題構造が反映されるという視点に立っている人間には常識でした。いじめはないというのは、教育に携わる人間やそれを監督指導する文部科学省の官僚たちが、自己保身のためにそれを世の常識としようとしていたに過ぎません。つまり、白紙にしていただけなのです。

 しかし、それは同時に学校教育の問題ばかりでなく、家庭教育、家庭を取り囲む社会教育のあり方全体に波及する問題で、単に保身に満ちた教師、行政官僚の責任だけだとするのには誤りがあります。

 多くのマスコミが鬼の首でもとったかのように、いじめ問題を認識できていない校長や教師を糾弾しますが、それだけで問題が解決するわけではありません。マスコミがやっているのは、問題解決へ導くための報道ではなく、大衆が求める軽薄な犯人探しのための報道という実に浅薄なものです。

 おめでたい安倍政権は、これに呼応するように、いじめ問題の対策費として36億円の予算を計上し、かつ、いじめた生徒や児童への停学処分、いじめを容認、助長した教師への懲戒処分をいじめ対策の柱とまでしています。

 まさにマスコミがやっている勧善懲悪のドラマをそのまま政治の場で演出しているのです。

 なぜ、いじめが起きているのか。いじめに遭う人間がなぜ、それを言葉に出して抗議できないのか。あるいは、そこに関わる大人たち、教師も、いじめている側の親たちも、いじめられている側の親たちもなぜそれが抑止できないのか。その根源に何があるのかをそれぞれが自覚し、自覚した上で学校を取り囲む社会全体のあり方を議論しない限り、いじめがなくなることはありません。

 いじめはある。いじめは差別である。差別はなくならない。人間が他者との関係においてしか生きられず、場合によっては他者の命を奪う危うい存在であるという原理に立てば、いじめはいけない、差別はいけないというだけで、実行が伴うはずもないことは自明のことです。

 真実を見ようとしない美しい標語の下にいじめは覆い隠されたまま、陰湿に、より激烈に続くでしょう。

 そして、いじめがあることを恥とし、いじめられることを恥とする文化がある限り、いじめの事実は日常生活の表面に浮上しないばかりか、恥であるいじめが自分たちに降りかからないよう、いじめ自体を容認する同調圧力の強い傍観者は増大するばかりです。対策を立てるべきは、この恥を背景に、いじめを消極的に容認し、白紙にしようとしている人々の意識をどう変えるかなのです。

 また、うちの子に限っていじめの当事者になっているわけはない。いじめの被害者であるわけはないという、親の身勝手ないい子像が問題です。それらもすべて「いじめなどという恥しいものが身の回りにあってはならない」という先入観が、子どもの心の行間を読む力を失わせ、子どもたちへ無言の圧力をかけているのです。

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