MOVE!特別編 

     慶応大学湘南キャンパス「秋祭」フリートーク

            愛国心と教育

           宮台真司×秀嶋賢人


 ここに掲載されている記事の文責と編集は有限会社フォア・ザ・ワン・プロジェク トと秀嶋賢人、個人の責任において掲載されたものです。誤植・語句、表記の余 りについては一切の責任は上記団体・個人にあります。

秀嶋 今回、フリートークをご依頼されたみなさんに打診した上で、「愛国心と教育」というテーマを設けました。これについて議論を行って参りたいと思います。まず、最初にどういうスタンスで話をさせていただこうとしているかという点を明確にしておいた方がよいと思いますので、その点から始めさせていただきたいと思います。

 いま教育基本法の改正の問題とか、これに関連して愛国心教育のあり方とかが問題になっています。安倍晋三新総理は「美しい国、日本」という中で、国を愛する心ということを盛んに言っております。日本で愛国心ということがさかんに言われているわけですが、みなさんよくご存知のように、愛国心というものが一体何なのかということが、そもそもはっきりしていないんですね。愛国心と簡単に言いますけど、愛国心とはどういうことなのかと議論をきちんとしていない。それで、最初のブロックでそれについて話しをし、宮台さんにお話をいただきたいなと思っています。

 まず、前提として、私のスタンスをはっきりさせておきたいと思うのですが、愛国心というとみなさんよくご存知のように、パトリオティズムという、愛郷心に近い、愛国心という部分とナショナリズムというのがあると思います。

 社会共同体への貢献を前提としたものなのか、国家共同体への貢献を前提としたものなのかというのがあると思うのですが、なぜ、愛国心というものが必要かという前提として、もともと国家の形成といううものは、私は幻想だと思っているわけです。国境という幻想を設けて、人々が幻想を抱いて、共に生きられるという類のもの。そのためには、人々を求心する何かが必要だという中に、当然、そこには公民意識も必要なわけですが、その公民意識を支えるものとしての愛国心というものが出てくるのだろうと思います。

 19世紀ヨーロッパでフランス共和国ができる中で、そこは地続きの社会ですから人種も宗教も文化もいろいろ違う人たちが渾然といるという状態があって、そういう人たちにどうやって忠誠心、ロイヤリティを持たせるかというような発想があり、その中でどういうことが必要かということが考えられてきたと思います。

 そこには、私がよく言いますが、「ディスコミュニケーションの社会」があって、その中でどういう共通認識を持っていくかということが背景にはあったと思います。そこにはもう一つ、宗教の問題もあった。

 そうした中で、私たちは何を犠牲にして自分たちの自由を守るかという話があり、その選択、自由を守るための犠牲のラインをどこに設けるかという議論があった上で、愛国心というものが規定されてきたわけです。

 残念ながら、私たちの国、日本では、そういう公民意識の問題とか、社会貢献、コントリビューションの問題とか、つまり、パブリックの問題ですね、そういうものが一体どういうものなのかという議論をせずに、愛国心がつくられてしまった。明治維新以降、近代化の中でつくられてきた、天皇の臣民という中で、国家形成を行ってしまった。つまり、愛国心の問題を棚上げしてやってきてしまった。ゆえに、いまになって愛国心とは何かと問われたときに、誰も明確に答えができない。場合によっては、国粋主義と愛国心を勘違いして使ってしまう。国粋主義と愛国心とは違うんですが、それを同じものと考えてしまうということが起こってしまう。

 もう一点は、愛国心を育む、創り上げるためには、自国の文化だとか伝統だとか、そういうものに対するしっかりした認識とそれを知った上での誇りといいますか、そうしたものが強固になければ、本来は、愛国心というものはないわけです。愛国心と自国への誇りを強固に持つがゆえに、自分たちの命を賭しても、犠牲にしてもいいものがそこにあるという姿が重要なのです。そうすると、いまの日本に言えるのは、アメリカ的、アメリカナイズされた社会構築とか国家形成を考えていて、そこに自国の伝統文化への検証というのはない。

 たとえば、みなさんご存知かどうかわかりませんが、三島由紀夫の『文化防衛論』という本がありますけれども、彼はその中でも明確に言っているんですが、自国の自立を図るためには、日本という国はどういう国であれねばならぬかという主張がなければならない。アメリカに対して主張がなければ、日本近代は成立しないのではないかと言っているわけです。そうしたことを前提に愛国心とは何かということをまず最初に考えてみたいと思います。

宮台 いくつか論点があるんですが、秀嶋さんがおっしゃったように、愛国心における国は国家なのか、国民なのか、あるいは国家だとしてもそれがどういう種類の国家であるのかという論点があります。

 第2番目の論点としては、日本では三島由紀夫のような右翼がむしろ愛国心の義務化に反対してきた。正当な右翼は愛国心の義務化に反対するものなのですが、そういう論点があります。

 3番目の問題としては、愛国心と戦前的なものとの関係をどうするのかというのがあります。3番目の状況から話すと目下の状況がよくわかると思いますので、そこから話を始めます。

 私が
12年ほど前から担当しているラジオの番組がありまして、そこで2週間前に、義務教育の子どもたちに日の丸・君が代、国旗・国歌ですが、これをリスペクトさせることに賛成か、反対かというふうに尋ねました。そうすると、ぼくたちより若い世代は、8割以上のリスナーが賛成をします。その中の1割は強制でも構わないと言います。実は、こうした結果がでることは予想しているわけです。このことをベースにしてしゃべりたいことがあるんですね。

 8割と言っても、それを支持する人たちと話してみますと彼らは、自分たちが考えている国旗や国歌の中に戦前的なもののシンボル、あるいは記憶を全然、見出していないんです。そこで、私が、「とはいえ、日の丸・君が代には戦前の悪い部分が込められているという人がいるんだけど」と話を致しますと「それは日本が敗戦後、出直すときに決着をつけた問題じゃないんですか」「うちらそんなことは知りゃせん」という感じで答えるわけです(笑)。

これはある意味では、政治的に正しい反応だろうと思うんです。なぜならば、戦後日本はそのように出発したからですね。日の丸も君が代も、そして象徴天皇制における天皇も、戦後的なるものを肯定するシンボルとして、言い換えれば、戦前的なものの中に、否定されるべきものを否定したシンボルとして、再出発をしたからなんです。

 ところが、残念ながら、いま日本はその出発点を忘れていまして、まず、右は、戦後体制に完全にただ乗りしながら、戦後体制を批判して、戦前的なものと結びついた日の丸・君が代の復興をねらっているわけです。これを右というふうに言いましょう。ま、インチキ右ですけどね。

 もう一つ、実はインチキ左というものがあって、これは国家、あるいは行政官僚制に完全にただ乗りしながら、ナショナリズムを批判するということをやっているわけです。もちろん、インチキ左は、戦前的なものを否定したい、あるいは否定したいがあまり、そういうふうにしていると言えるわけですけれども、戦前的なものの否定がナショナリズムの否定に結び付く必然性はない。戦前的なものをシンボライズする国旗・国歌を否定し、戦後的なものをシンボライズする国旗・国歌を肯定するということでいいはずなのですが、そうはなっていない。

ということで、インチキ右は戦後体制にただ乗りしながら、好き勝手放題を言い、インチキ左は、行政官僚制、あるいは日本の公共同体にただ乗りをしながら、国家を批判するという、わかりやすく言えば、非常にだらしない議論を展開しているわけです。

一部情報が出ているようなので申しますと、ぼくは民主党案の「日本教育基本法改正案」に関わっています。一部、ナショナリステックだという批判が出ているようでありますが、残念ながら、これは民主党がプレゼンテーションを失敗しているからなんですね。

 実は、いまぼくがここで申し上げたようなことを民主党の重要な方々にはお伝えはしているのですけれども、ぼくが表に出てしゃべるわけではないので、なかなかうまくしゃべれないのでしょうね。それなので、何か自由民主党の改正案に比べるともっと愛国心に関する規定が右寄りのように見えて、新聞・マスコミ含めて、腰を抜かしたということがあるわけです。残念な話です。あそにある強力な愛国心の規定は、戦後的なものをシンボライズするものとしてのナショナリズムならば、これを肯定するというふうにプレゼンテーションするためのものであったのです。

この延長線上で言えば、秀嶋さんね。今後、民主党が自民党に対抗していくときに、もし、民主党がアンチナショナリズムというポジションをとるとおそらく、兄ちゃん的な若い人たちからは、腐れ左翼の生き残りみたいに見えてしまって、まず、民主党はダメでしょうね。民主党が選挙で勝つためには、ナショナリズムを徹底して擁護するという立場に立った上で、戦前的なものと完全に断絶するんだという宣言をする必要がある。よき日本と言う場合は、戦後、我々が否定したはずのネガティブなものは含まないというふうに宣言をするやり方以外に若い人たちの票を集める可能性はないと断言していいと思います。

この点についても、秀嶋さんもよくご存知のように、日本のカッコつき、ハイブローな大学人、ハイブローなアカデミズム、あるいはアカデミズム左翼はいまだに、国境を越えたアンチナショナリズム、あるいは雑民ですか、これを主張することがかっこよさ気であるのように信じられていて、これも単なるただ乗り野郎なんですが、ただ乗り野郎の言うことがかっこよさ気に聞こえてしまう、そういうふうに聞いてしまう若いみなさんもいたりするので、こいつらをどう始末するのかということが非常に重要な問題になっているわけです。いい人たちですよ。私もたくさん知っていますけど。しかし、それでは生き残れない。つまり、自民党的なものに対抗することができない。

それを踏まえた上で、戦前的なものと戦後的なものの断絶がどこにあるのかというところが第1の論点に関係するところなんですね。

 わかりやすく言えば、戦前は国家のための国民なんです。戦後は国民のための国家ということになるわけです。国民のための国家というのを象徴するのが、立憲制ということなんです。そうすると、「いや、明治時代も憲法があったじゃないか」という話が出るんだけど、この場合、主権は国民にはありませんでした。完全に欽定憲法という形をとっておりました。つまり、国家を体現する、国家そのものである、国家の尊厳そのものである、天皇の手足として国民がいて、国民は天皇の手足として十分に働けることで自らの尊厳を得ることができる。あるいは崇高なる精神共同体と一体化することこそが国民の尊厳であるといったような尊厳感を刷り込んでいったわけです。

 戦後は連合国がそうしたあり方はいけないというで、旧枢軸国のそういうあり方を一掃したわけです。断絶をさせたわけです。つまり、新しい近代的な立憲制だということです。近代的な立憲制においては、憲法は国民から国家への命令なんですね。憲法が法律に優越するというのは、国民が国家に対してなしたもので、憲法の枠の中だけで国家が国民に命令ができる、つまり法を布告したり、執行したりすることができるということなんです。

 ところが、日本の社会科教育では、法律で一番えらいのは憲法だというふうに教えられているので、まるで国民が憲法に違反できるかのようなウソを教え、したがって、憲法が国民に何か義務を負わせることができるかのような錯覚を与えているわけですが、これはあまりにも民度が低いわけです。確かに納税義務、教育義務、あるいは国によっては徴兵義務のような義務が規定されていますが、英語で学べばわかります。As
provided by low
っていいますよね。国民の義務というものについては、どの国の近代憲法でも法に規定された通りということで、納税の義務を規定するような法をつくりなさいというふうに憲法が国家に命令しているわけです。それがAs provided by low ということの意味です。どの国の憲法もそういう文言があります。

 ことほど左様に、近代国家なるものは、国民のためにあるということで、それを象徴するのが立憲政治であり、なおかつ、ヨーロッパやアメリカでは、指摘理知の原則というのがあります。アメリカで言えば、憲法第2条、修正第2条といわれるものがありまして、そこでは武装権が規定されていますが、この武装権のアメリカの正統的な解釈は、国家が国民を屠るときには連帯をして反逆していいという意味の革命権を規定するものだと理解をされているわけです。最近では、フランスで初期雇用契約(CPE)をめぐるデモ、ストがあり、あるいはその前にはアラブの2世・3世の人たちが暴動を起すということがありました。フランスでは、これに対して非常に寛容です。こうした行動に対して否定的な国民というのは3割程度しかいないわけです。

 これも、詳しい話はいいませんが、フランスの議会というのは、エリート主義的で、所得が高かったり、有色人種は一人しかいなかったりするんですが、国民はそれでいいと承認しています。「エリートは政治をやれ、しかし、政治を間違ったら、いつでもスト、デモ、暴動で対抗する」。これが社会参加だというようなコモンセンス、共通了解があるんです。

こういう伝統も国家が国民のためにあるということを表しているし、今日は詳しいことはいいませんが、ヨーロッパで「補完性の原則」といわれるもの、要はすべての決め事について、まず自分たちでできることは自分たちで決める、あるいは自分たちでやる。それができない場合に少し上の単位を持ち出してきて、それでもできなければ、より上の単位を持ち出してくる。一番大きな単位は国家のように感じるけれども、実は国家ではなくて、国家で解決できない場合にはより上の、いわゆるマルチラテラルな国家連合を持ち出してくるというのが補完性の原則、サムシーリアリィ・プリンスパルといいますが、それは日本的にわかりにくいので、ぼくは「自治と補完の原則」というふうに申し上げています。自分たちできることは自分たちでやって、ダメな場合、補完しましょうということで、そこに国家が入ることもあります。

日本の戦後教育は、少なくとも文部省の仮検定教科書の段階では、こうしたことを十分に教えるものであったはずなんですが、1948年以降、占領軍の統治方針が変わりまして、日本の国民に過剰に自立的になってもらっては、極東における反響の防波堤として、日本をうまく使うことができないということで、近代教育の方針を転換したんですね。戦後、占領軍が近代的にやれと教えたはずの国についての概念や愛国心についての概念がなぜか途中からさして強調されなくなってしまったということもあって、そこに戦前的なにおいが忍び込む余地が生まれてしまったと言うことができるでしょう。

これが国民と国家の関係についての話です。

もう一つは、2番目なんですが、これは、右翼の話なんですが、たとえば、三島由紀夫は愛国心に反対をしています。愛国心の義務化、徴兵制にも反対しています。三島由紀夫だけではなくて、実は、戦後の反省から出発した論客たちの多くは同じ論調をとっているわけです。「自らは愛国者であるが、愛国の義務化には反対である」というものです。その理由はなぜか。一番わかりやすいのは、竹内好という人の優等生病という概念とか、あるいは鶴見俊輔という人の一番病という概念なんですが、日本では行政官僚制のもとで、強き者がケツを嘗める、あるいは長いものに巻かれるダメな伝統がある。ファシズムのもとでは、ファシズム優等生になり、GHQのもとではGHQ優等生になるようなヘタレ官僚がつばぜり合いをした上で、日の丸や君が代に敬礼をしておる。これではダメだということなんですね。

右翼の伝統的な発想から言えば、愛国心を含めて、すべての価値は内発性、つまり、内側から湧き上がってくるものでなければ、ダメで、人を蹴落とすために、あるいは上に上がるために、これを利用した方がいいということの中に、日の丸や君が代、愛国心を、あるいはロイヤリティを示すということがあるんであれば、こんなバカなことはない。むしろ、右翼こそが、あるいは右翼的な感受性を持つ左翼こそが、愛国心の義務化に反対をしてきたという歴史があります。

以前、当時文部大臣を務めていた閣僚と会ったときに、その人物が愛国心の義務化を吠えているわけですね。私は、「義務化しようがしまいが、どうでもよろしい」と申し上げて、しかし、「義務化したとしたら、それは大変うれしいことだ。なにゆえならば、基本的に愛国とは、近代国家の法を守る上では、抵抗権、あるいは革命権を意味する。もし、国民を屠る国家があれば、あるいは官僚や政治家がいれば、それを倒す、これを撃ち殺す。これこそが、愛国心だと教えられます。戦後初めて、二・二六事件の青年将校の蜂起を正当なものとして教えることができます。国民を屠る政治家を撃ち殺せ。そういうことを教えることが公教育で可能になるということは大変すばらしいことです」と申し上げたら、絶句して、二の句が一言もつけないでいました(笑)。

ぼくがいま申し上げたようなことは、本当は日本の左翼が言わなければいけないことなんだけど、そうした戦後史への基本常識もなく、近代国家のなんたるかの基本常識もない。日本の場合、右も左もインチキ右、インチキ左と申し上げたのはそういう意味です。

 実は
、愛国心に関する根源的な問題についてはいま全部話してしまいました。これしかないんですよ。この後、何を議論するのかというくらい、自明でしょ? 何か反論があったら出していただきたいと思うんですけども(笑)。

 だから、こうした自明の理をわきまえないものが、遠吠えしていたり、ギャーコラ騒いでいたりしているというのが昨今の愛国心問題です。

ぼくは結論的に言うと、愛国心は大切だと思いますが、その場合の国とは、国民のための国家であり、なおかつ、日の丸や君が代がシンボライズするのは日本が敗戦した後、2度と悲劇を繰り返さないために、戦前的なもの、「戦前の悪しきもの」との断絶をシンボライズするものであり、なおかつ、愛国心は義務であるよりも、むしろ内側から湧き上がるものでなければならず、その意味で文化、文物、伝統が国民を刺し貫いていることがよい。しかし、これはまた、伝統の強制であってはダメで、それは、アンナー・レントや古くはカール・マッハイムが言ったように、その国に本当に伝統があるならば、普通にみなさんが振舞えば、そこに伝統は滲み出るわけです。

 伝統的に振舞わなければならないというふうに、命令して振舞わせているときには、既に伝統はないわけです。これも人文系の中では常識的な枠組みですけれどね。そうしたものを援用するまでもなく、愛国心は内側から沸きあがるもので、強制される謂れはないと。私の立場はこういうものですね。


秀嶋 いまのお話をおさらいしながら、次へ行きたいのですが(笑)、単純に言うと、「従順さを要求する愛国心」というのが一つあると思うんですね。権力者が、あるいは国家を動かしている人間たちが、こういうふうに国民が動いてくれるとありがたい、そのためにはこういうふうなマインドの愛国心を持ち合わせて欲しい。それを法規制の中で、内実を伴わないにもかかわらず、進めようとするということが一つあると思います。

 それは、宮台さんがさっきおっしゃったみたいに、戦前のフレームをそのまま再現したいと言いつつ、おいしいことを得たいというものですね。戦後の民主主義政策の中で、自分たちこそ本来の民主主義の代弁者であるという左翼がやってきたことは、戦前のフレームを一切無効にしながら、同時に愛国心自体をなしにしてしまったということだと思うんです。

 いま、宮台さんの方から三島由紀夫の話も出ましたし、二・二六の話も出ましたけど、先ほど、ぼくは「強固な愛国心」と言いましたが、それが近代国家ではなくてはいけないものだと思っているわけです。それは強制されたものではなくて、従順であるための愛国心ではなくて、「この国を愛するがゆえに、国の変革ができる愛国心」なんですよ。それがあれば、権力に対して抵抗もできれば、社会変革が堂々と言える、そういう行動がとれる。

 宮台さんに言っていただいたのですが、二・二六には私はいろいろな思いがありまして、実は宮台さんは知ってますが…

宮台 劇作家でもあられるんでね(笑)。 

秀嶋 二・二六に取材したお芝居を書いたりしていますが、その関係があって、年に2回は必ず、226日と712日の処刑された日には、麻布にありますお寺にお参りに行っているんですけども…。

宮台 私も結婚届けをわざわざ2.26の日に提出しました(笑)。226日の午後1150分に滑り込みで提出をしました。

秀嶋 ついこの間まで、宮台さんもそうですけど、こういう話をすると「あいつら右翼だ」と言われたわけですよ。「あいつら右翼だ」という奴は大体、こういう言い方は失礼かもしれませんが、バカ左翼なんです。バカ左翼は、「あいつらなんてこと言っているんだ、二・二六があったから日本は太平洋戦争に巻き込まれていったんじゃないか」というバカな教育を受けて、それを鵜呑みにしている連中が圧倒的に多いんですね。二・二六をしっかり検証したこともなければ、三島の問題をちゃんと検証したこともない。

 近代国家というのは強い愛国心をバックにして、社会変革ができる中で、どう自分の自由を制限させながら、貢献するのか。それを国民的な合意として、ここまではいいけど、これ以上はいやだという選択でやってきているわけですよ。それ以上を越えたこときには、さっき宮台さんが言ったようにデモをすればいいわけだし、社会変革の提言をすればいいわけです。が、日本の場合は従順さを要求する愛国心ということが大きな問題だと思います。

 もう一つはエセ右翼がやっているような、戦前の国粋主義の復刻みたいなノスタルジックなものがあると思いますが、大きな問題は従順さを要求する愛国心なんです。従順さを要求する愛国心が結果的には、先ほど教育基本法の改正の話が出ましたけど、先生の言葉で言えば、「心の設計をしなければいけない」という部分につながると思います。

 そこで、
いまなぜ、教育基本法の改正の議論をしなればならないのか。自民党案、民主党案ありますが、この時期に自民党が強引にでも改正案を通してしまおうとしている。そこには、いまの日本の付帯状況もあります。北朝鮮船籍の臨検の問題など、みなさんの身近なところでありますが、そういうことも含めて、いまなんでこんなに教育基本法の改正が早急に必要なのか。自民党的な立場と民主党的な立場とありますが、どうしてなんでしょう?

宮台 まず、浅い問題から言えば、安倍晋三さんそのものの政権基盤が脆弱なので、あるいは安倍晋三さん自身がいままで取ってきた行動、あるいは彼がなしてきた発言が、彼自身が成しうることを縛っているので、内政においても外交においても手詰まり感があった。そこで、保険をかけるという意味もありまして、安部晋三は何をしたか、教育基本法を改正した、あるいは教育基本法の改正を通じて、国内の教育の荒廃、あるいは教育の荒廃ゆえに起こっている様々な問題を決然と手当てをしたという実績を残そうとしているということがあります。それは、みなさんご存知の通りのことですね。

 しかし、より深い問題ということで言いますと、今般の教育基本法改正問題が出てきたきっかけは、なんと驚いたことにホリエモン粉飾決算問題がきっかけなんですよ。

 いわゆるITバブル後遺症として、こういう社会性のない、あるいは反社会的な若い実業家たちが出てきているのは、国家に対する貢献を志す道徳を教えられていないからだという議論が自民党の周辺から出てくるわけですね。これはおもしろい議論ですね。なぜ、おもしろいかと言うと、丸山真男の理論を知っていれば、むしろこういうタイプの公の簒奪を行う人間が国粋主義的教育から出てくるのだという結論を言っているわけなので、大変におもしろい。

 また、教養なき人間が駄法螺を吹いているという話でいいんですけれども、戦後の長い思想的な伝統の営みにおいては、教育基本法の精神をきっちり教え込んでいれば、ホリエモンのような存在が出てこないはずなのです。自分たちが自分たちであり続けるために、市民社会のルールを踏まえる。社会性ある存在として、振舞う。まさに国民が社会の主人公であるがゆえに、国民を屠ることが許されないという枠組みの中で、道徳や規範を伝達できるはずなのでありましょうが、全く逆の国民の自由ばかりを言ってきて、国家への貢献を言ってこなかったから、こうした人間たちが出てくるのだという理屈になっているんです。

 しかし、世の中、私も含めてバカばかりなので、それをバカだと批判してもしょうがない。何でこういう議論が出てくるのかという社会背景こそが重要ですね。

 その社会背景は、やはり、不安なんですよ。それで、不安なるものの中身ということなんですが、気がついてみると昨今の日本は、以前の日本とはずいぶん姿が違っているわけです。たとえば、地域や家族についても新住民が増えて、自分たちの地域にどういう人間的なネットワークがあるか知らない人たちが増えています。あるいは共住・共食、つまり共にメシを食うということによって規定されてきたはずの家族がコンビニ弁当の普及によって、家族がほとんど顔を合わせることがないような家庭が増えてきました。

 もちろん、専業主婦率は団塊世代が一番高かったわけですが、それも急速に下がってきました。いま専業主婦ができる家は贅沢だと言われるくらいになってきました。

 他方で犯罪動機はどんどん不透明になってきて、動機不可解な犯罪が増えていますよね。

 あるいは、宗教で言えば、オウム事件に象徴されるようなことが起きています。昨日、ぼくがやっているインターネットの番組に上佑史浩氏を呼んだということもあるのですが、昔は貧病争、貧乏で苦しい、病気で苦しい、家族の不和で苦しい、縋るところがない弱者が最後にやってくる場所が宗教だという参入動機の共通理解がありました。いまでも創価学会なんかはそういう色彩がないわけじゃない。共産党の党員よりも創価学会の平均年収の方がまだ下なんですね。この参入動機をオーム真理教、新宗教というもので見れば、どう見ても社会的弱者とは見えない人間たちが次々と宗教に参入する状況も増えているわけです。

 あるいは、以前ならプライバシー問題として騒がれたはずの監視カメラの設置についても、いまでは住民から設置しろ、設置しろと次々になされるような状況になっています。

 あるいは、わかりやすい例で言うと「戦争を知らない子どもたち」という歌がいま教科書に載っているのですが、ぼくらも中学生の頃歌いましたけども、この戦争は、おもしろいことに、ぼくたちにとっては、ザ・ウォーなんです。つまり、第二次世界大戦、あるいは太平洋戦争、大東亜戦争、
15年戦争のことを言っているわけですが、いまぼくが教えている団塊ジュニアよりも少し下の世代から後になりますと、これは、ウォーなんです。つまり、戦争一般を知らない。自分たちは戦争をしたことがないということを意味しているんだ。というくらいに、戦争の記憶をベースにして、行動する人間たちも減っているわけです。その結果、外交においても、こうしたら、ああなって、ああなったら、こうなるという因果的な思考ができる人間が減っていて、バカにされたんだから叩き潰せとか、怒れとかですね、ある種、愚か者がどんどん増えている。これも以前だったらあり得なかった状況です。

 あり得ないことがいっぱい増えました。地域を見ても、地元商店街はなくて、ほとんどコンビニとファミレスとストア、あるいはスーパーマーケット。ここで人々が便益を満たすということになっています。わかりやすく言えば、便益が役割とマニュアルによって、供給されるようになり、「善意と自発性」、つまり人間的な繋がりから便益が供給されることがなくなった。ひとまとめにするとそういう動きが出ているわけです。

 コンビニ的なものは、確かに便利ですけれども、これはマニュアルに従って役割を演じる人間が便益を提供しているわけですから、人間関係は入れ替え可能です。マニュアルに従うことのできる人間であれば、誰であっても構わない。顧客は金を払う奴だったら、誰でも構わないわけですが、昔の地元商店街的な関係はそういうものではなくて、「前、まけてくれたんだから、また、まけてくれよと」いうようなコミュニケーション。あるいはお客同士、店主との間でコミュニケーションが行われて、そうしたコミュニケーションの履歴が物の値段に反映したりするという社会であったわけです。それがもう完全に消えました。

 こういう大きな変化。こうした大きな変化が襲った社会というのは、旧枢軸国の中でも実は日本だけです。こうした社会の基礎構造の変化が人々に大きな不安をもたらしている。

 「隣はなにをする人ぞ」というか、隣に誰が住んでいるかもわからない。わかったとしても何考えているかわからない。自分の仕事も終身雇用、年功序列じゃなくて、いつ奪われるかわからない。気がついてみると、わけのわからない新住民や外国人が増えている。実際にメディアも不安商売なので、ありもしない不安を煽って、それで視聴率を稼ぐということをやるところから、いくつか悪循環が回るとありもしなかったところに不安が植え付けられるということが起こるわけです。

 昔だったら、そうではなくて、自分の生活のベースがあれば、「メディアはああ言っているけどバカ言うな、俺らの生活はそんなものじゃないぜ」ということで自分のリアリティをベースに批判できたわけですが、いま皆目わからない人たちが多いですから、メディアが言うと「そうかもしれねぇな」というふうに思ってしまうわけです。

 というわけで、不安が増えていて、不安になった人間たちは、不安を鎮められるのはおれだけだという偉丈夫、あるいは男気を示す奴に吸引をされます。あるいは、断固決然といったような文言や振る舞いに吸引されることになります。あるいは、神経質になりますので、昔は大様に構えていた問題に対して、すぐに吹き上がってしまう。あるいは、昔のお大尽であれば、「チョロチョロさせとけ」で済み。昔のヤクザの作法なんかを知っていれば、チンピラはすぐに切れる、つまり沸点が低いわけですけど、大物は沸点が高いんですよ。

 あるいはチンピラや暴力団的なものが複数いる場合には、たとえば、ぼくがすぐに吹き上がったとしても、大物である秀嶋さんが、「まあ、まあ、まあ」と言って、「うちの若い衆には血の気の多いのが多いもんで、いつも抑えるのが大変で…」とか、一人でいるときは、「今のうちに引いた方がお前のためだぜ」とかね(笑)。

秀嶋 (笑)昔の東映ヤクザ映画ですね。

宮台 そうですよね(笑)。外交においても、すぐ吹き上がる奴はバカなんですよね。ぼくらの世界で言えば、常識ですよ。ぼくも京都にいましたら、ヤクザの作法は知っています。すぐにキレる奴は、ダメな奴なんです。でも、すぐにキレる奴ばっかりでしょ? キレるヤクザじゃなくて、キレる国民になっているんですけどね。

 不安な連中は、そうやってすぐキレてしまう。不安なだけでじゃなくて、自分たちが不安な原因もわからず、不安であることを手当てするための帰属や帰属によってもたらされる感情的な安全もないといことでそう言う現象が起こるんです。

もし、根本的な手当てをしようとすれば、愛国心どうのこうのという以前に、本当はこの不安な社会状況、人々がこれほど大きな不安に晒されなければならない現状に何らかの手当てをすることが必要で、さもなければ、ここでぼくらがいくら正論を言ったって、どうにもならないわけですよ。

秀嶋 いま先生の話で、なんで社会不安が起こってるという中に、社会共同体がなくなっているということがありますよね。さっきぼくが冒頭で、愛国心と言ったときに社会共同体への貢献なのか、国家共同体への貢献なのかというのを言いましたが、結局、社会共同体への貢献の対象がなくなっている。そこで、代替するものとして、国家共同体に貢献しろよという動きになっている。

 先生も話したように、いまローカルで起こっている問題として、経済的に疲弊しているじゃないですか。シャッター街も増えるし、地方財政も破綻している。そこで何が起きるかということ、そこに犯罪を動機にして、自警団ができたり、市民パトロール隊ができたりする。あるいは、いま笑いネタでやってますが、ローカルヒーローがどんどん出てきている。自分たちの村や商店街を守るヒーロー。かわいい話かもしれないけど、実は社会共同体がなくなったところに補完作用としてやっているわけですよね。

 地方が疲弊してやり場がない感情の裏返しで、沸点をどこに持っていっていいのかわからない。それが結果的には愛国心だとか、つまり、国粋に近い愛国心であるとかに向かっている。たとえば、北朝鮮問題に対しても非常にストイックな判断をしていくとか、あるいはイラク戦争参加に関してもそれは当然なことだろうと承認していくという状況がある。それを教育を触ることによって、リテラシーが低いわけですから、鬱積しているものをどっと持っていくという戦略がある。

 要するに社会共同体の代替として国家共同体をはめ込んで行こうとしているというふうに見えるんですけど、その辺はどうでしょう?

宮台 当たり前だけど、埋め合わせというのは社会には出てくるわけです。社会が空洞化すれば、国家が埋めろという要求が出てきて、要求が出てくれば国家は埋める。埋めるけど官僚は批判されるし、政治家は選挙に落ちるということがあるわけです。なので、当たり前ですが、社会が空洞化すれば、必ず国家がそれを埋めます。

 言い換えると国家の強権を批判するだけではダメで、社会が国家によって埋め合わされている部分を社会が自ら埋め合わせることができるようにならないと実際には、国家主義的な政策ばかりか、ある種のメンタリティも治すことができないんですね。

 実はそこが非常に難しい問題で、これは国家の問題というよりも我々の問題なんです。我々という場合には、国民の問題ということなんですが、メディアや我々の日々の相互扶助やコミュニケーション、あるいは相互教育のあり方全体が、国家による補完がどれだけ必要なのかということを埋めていくということがあるわけです。

 ぶっちゃけ言いますと、実は私は悲観的で、たぶん、我々は、この慶応湘南キャンパスでは、シティズシップと呼ぶような市民性、市民の市民たる所以を獲得するということはおそらく、短期中期には難しい。長期的な課題として、ある意味、練成を日々行っていくしかないだろうと思うんですね。長期的にはシティズシップの獲得であり、自治と補完の原則の獲得であり、国家は国民のためにあるという基本常識の共有なんですね。

 しかし、そのためには、いくつか我々が取り戻さなければならない感受性があるわけですね。それは、さっき言いました、我々の日常の便益が役割とマニュアルによって、調達できているという異常さに気がつくということが非常に重要だろうと思うわけです。

 なにゆえ、それが以上かと言えると特殊な条件のない近代社会、特殊な条件というのはアメリカのように宗教的良心に非常に信頼の強い社会ということなんですが、それを除きますと先進各国は、多かれ少なかれスローフードのような運動を持っています。もともとイタリアから起こった運動で、外側に広がっていくに従って、スローライフという概念に結びついていくわけですね。

 日本ではなぜかスローフードというのは有機野菜を食べることだというふうに勘違いされていて、宣伝文句になっていたりするわけです(笑)。

 スローフードはもともとファーストフードに対する概念で、安い、早い、うまいもいいけれど、そこで何が犠牲になっているかに敏感たれという国民的運動であるわけです。あるいは地域的な運動であるわけですね。うまい、安い、早い。つまり、それは役割とマニュアルによってできるわけです。それによって何が犠牲になっているだろうか。

 それは、先ほどお話しましたように、善意と自発性によって繋がるという作法が廃れるということであるし、人間の絆が廃れるということであるし、人間が入れ替え可能になってしまう、自分は自分でないものによっていつでも置き換えられてしまうということであり、あるいは、それと結び付く不安や実りのなさであったり、あるいは街並みであったり、匂いのある町であったり、風土であったり、作法であったり、そうしたもの総体が犠牲になっていくのだということですよね。

 スローフード、二アリィ・イーコール、スローライフムーブメントなるものが、基本的には役割とマニュアルによって何が失われるのかということを気づきながら是々非々でファーストフードならファーストフードに対処していきましょうという動きであるわけですが、日本ではいまのところ、そうした動きは全くありません。

 地元商店街のシャッター街化ということについても、地域の経済の沈下という点からしか注目されていません。この問題が実は地域犯罪や防犯の問題と密接に関係しているんだということも最近気がつかれつつあるけれど、実際にはリンクして考えられておらず、隠しカメラがないから犯罪が起こるんだというような、腰を抜かすような話になってきています。

 さらに、日本の場合、奇妙なのは、地方分権という場合に町村合併や道州制のことを指している戯けが多いんですね。これはちょっと腰を抜かす話で、ヨーロッパやアメリカでは、自治の原則、自治と補完の原則と言った場合の基礎単位、基礎自治体の大きさというのは大体2万人から3万人です。それはなぜかというと顔の見える範囲がその当たりが限度だからです。それがさらに数十万という単位に統合されて、それが国家に統合されるという3重か4重のレイアーになっているわけです。

 しかし、日本では地方分権というときに、道州制、あるいは市町村合併の末、効率化を行い、そこに権限を委譲するというもので、実際には総務省、旧自治省のエリート官僚が天下り策というか、いま全国の知事の
3分の1以上が旧自治省出身者なわけです。要は、国家公務員エリート、キャリア国家公務員がキャリア地方公務員に代わるだけの話。実際には町村合併によって、みなさんご存知のように、昔、おらが村で決められたことが決められなくなった。おらが村で采配できる様々な制度ができなくなった。ほとんど自治の原則に反した問題が、あるいは方向性が地方分権とか呼ばれているわけですから、これはっきり言って、パーでしょう。メディアも国民も。

 この辺も実は取り戻さなくてはダメで、分権の意味は自分たちのことは自分たちで決められるということにあるんで、益々、自分たちで決められなくなったようなものを自治と呼んで、あるいは分権と呼んでどうするんだってことです。こうしたことにおいても認識を変えていかないといけない。

 教育のついてのイメージも「ゆとり教育批判」がそうです。ぼくは、ゆとり教育に旗振りましたよ。ゆとり教育をした結果、学力が下がるというのは折込済みだったはずですよ。では、何のためにゆとり教育するのかというと、もともとは臨教審が「生きる力」と言ってたものがあります。これはわかりやすく言えば、まともな人間であること、さっき言ったように、喧嘩の仕方を知っていることとか、物事の収め方を知っていることとか、すぐにキレない。怒っても沸点の高い奴をつくることとか、ああすれば、こうなるというふうに、つまり因果、効率を読めることのできる人間を育てること、あるいは、戦略的行動ができる人間を増やすこと、だんだんいま、エリート教育に寄っていく方向でしゃべていますけど、そうしたことが全体の目標だったはずでしょう? 

 ところが、文部科学省の一部はぼくとそういうのを共有していましたけど、行政官僚の大半と住民と教員が民度が低かったんで、ゆとり教育というふうにした結果、単に教えられる量が減っただけで、いま申し上げたような「生きる力」に相当する部分、まともな感情をインストールする作業の部分とか、論理的な概念構成ができる力などを教える時間が配当されなかったんですね。

 そうした根本問題が見逃されたまま、「学力低下したじゃねぇか」っていうふうになって、「はあ!?  学力低下してもいいからゆとり教育するって話だったんじゃないの、あんたら?」という問題なんです。違うんですか、みなさん? バカも休み休み言ってくれよという感じです、本当に。

 こういう問題を手当てしないとどうにもならない。

秀嶋 いまスローフードの話が出ましたが、ヨーロッパ、アメリカの中でもスローフードというのはとても大事にされていて、それは町にあった町の文化とか、町の絆とか、人間関係だとか、共同体意識だとか、つまり、誰かを愛する強さだとかというものを育むベーシックがここにあったわけです。それがファーストフードによってなくなってしまう。宮台さんも何かで言ってましたが、環境会議があった場所で、フランスでしたか、一人の農夫が、マクドナルドが地域に出店すると聞いて、これを打ち壊したという事件があって…

宮台 ああ、ジョジョ・ボセね。フランスじゃなくて、シアトル…。

秀嶋 シアトルでしたか。その事件はなぜ起こったかというと、マクドナルドができてしまったら町の流通が壊れてしまう。牛を屠蓄して、加工する生産ラインがあるんですが、それも地域から奪われてしまう。町の伝統的なレストランとかがなくなっていくというので、そうした行為に出たわけですが、そういうこところにこだわるのは、共同体がつくってきた文化を大事にしようということで、それは自立性を大事にしようということだと思うんですね。そして、そうした思いで行動を起したことが、咎められることはあっても地域的賛同は得られる絆がある。そういうように、失ってはいけない共同体があるにもかかわらず、我々はそれをあまり見直していないということが一つ。

 もう一つはいまの後半の話にも出てきたことと関連するのですが、なんで共同体が大事かということと教育が関係あるかというとそうした意識を持つためには民度の高さが必要なわけですよ、私たちの側が。さっき言った、従順な愛国心を受け入れらえる民度ではダメなんですよね。自分たちが検証をちゃんとした上で、是々非々で自分たちの問題に対応できるということが私たちの能力として、さっき先生が言った、シティズシップ、そうした能力がなければいけないんだけど、それがない。

だから、教育改革にも二つあって、そういうことを育てるための教育改革なのか、そうじゃなくて従順さを要求する教育改革なのかを考えていかなくてはいけなくて、ゆとり教育もそうだけれど、そうしたことができない、見えないというのはどこに一番原因があるんですかね?

宮台 ひと言で言うなら、人々が一枚岩の感受性になってしまっているんだと思うんですよ。

 一枚岩っていうのは、どういうことかというと平板で、東浩紀的に言うと動物化しているわけですよね。つまり、全体性がよく見えていない。あるいは物事の因果がよく見えていなくて、単にパターン的に反応する人間が非常に増えているということ、それはつまり、民度が低いということであるし、社会の空洞化を食い止められないという根本原因だと思うんですね。

 わかりやすく言うと人間って、可塑的で、フレキシブルな動物でしょ。つまり、どういう育ち方をするかによって、どういう感情のプログラムをインストールかで変わる。これは当たり前のことですよね。人格障害と言う言葉が犯罪に絡んで、どんどん広がってきましたが、これもまともな感情をインストールされていないということなんですよ。しかし、問題は何がまともな感情なのかということについての浅識なんです。

 人間とはこういうものなんだとか、こういうふうな関係性の中でまともな感情がインストールされるんだという発想と一体じゃないと、実は人格障害という言葉は非常にまずい使われ方になっていってしまう。ちょっとでもヘンだとすぐに人格障害だというレッテルを貼られてしまうという話に繋がってしまうんですね。

 まともな感情とはどういものかというと、よく外交の問題と性愛の問題は似ていると言われるんですね。たとえば、男に自分の女がいるとして、浮気していることがわかったとします。当然怒るわけです。怒らないと愛がない証になったりすることがあるから。しかし、怒り過ぎれば、関係が壊れてしまうわけです。基本的に関係を維持したいんだったら、最終的に向こうの愛がこっちに向くように誘導する必要があるんですね。従って、わかりやすく言えば、怒ることは重要だけど、怒りすぎて、関係が切れては元も子もないという理解をすることができるのが、そのまんまある種の論理であり、ある種のまともな感情ということなんです。それは経験によって培われるわけですが、いま脆弱な世代の中ではすぐにぶちキレる。平気で関係、ぶち壊す奴がいます。

 外交関係においても、特に名前は出しませんけど、ダメな政治家が自民党を中心に、民主党にもいます。それですぐに吹き上がって、元も子もないということに陥りがちであるわけです。

 あるいは、ぼくは売春から始めて、フィールドワークを進めていましたけれど、
男がどんどん脆弱になっていて、オタク系、あるいは萌え系、セカイ系になっていくということが起こる。本田透の本に象徴されるように、なんでそうなってしまうのかという本人の意識は、女たちが資本主義化して、イケメンか金がある奴じゃないと見向きもしてもらえないのかとっていう話なのね。

 でも、ぼくはエロ本で仕事してきた経緯もあって、ナンパ師いっぱい知ってますけど、ナンパ師って全然顔よくないんですよ。別に金もないんです。じゃ、どうやってナンパできるのかというとコミュニケーションの力でナンパしているわけですよ。で、根本的におもしろいなと思うのは、いまどきの女の子をナンパするのは実は簡単なんですよ。それは、簡単なの。理解してあげればいいですよ。理解して欲しい女の子ばっかりだから、理解してあげればいい。

 ところが、男の子は理解してあげる力がない。それは、スキルの問題じゃないんですよ。そうじゃなくて、もっと根本的な問題があって、男の子に承認に対する欲求が強すぎるの。自分を受け入れて欲しいという要求が強すぎる。俺はこれもダメ、あれもダメ。「でも、そんなあなたでも、私は好きよ」というように承認してくれるようなママみたいな存在を求めるんですね。それをぼくの視覚では、ロリコンというふうに呼びます。要は、すべてを包括的に受け入れてくれる少女ですね。ま、あり得ない存在ですね。

 そういう承認欲求を現実に存在する女、あるいは女の子にぶつけたら、「バカか」といわれて排除されるのは当然でしょ。

なんでそんなことがわからないんだろうというと、これもぼくに言わせると論理、広い意味での論理であったり、まともな感情の問題であるわけです。基本的には、「そんなあなたでもいいわよ」という承認の問題は、自分の問題として、自分がクリアしていなきゃダメです。その上で相手を理解すれば、相手に必要とされるわけだから。そういうステップを踏めばいいだけなのに、「オレを全面的に承認してくれる女がいないんだ!」「当たり前だよ。誰がお前なんか承認するか、こら!」という問題でしょ? 

 というのが広がっているのも実はこれ、教育の問題なんですよ。こういうところでもダメな奴がどんどん生まれているってことは、私たちがここで何を言ってもダメっていうことで、逆にこういう問題を手当てできれば、ぼくが言ってきた問題がじわじわと理解されていくということだと思うんです。

秀嶋 時間も迫ってきたので、簡単にまとめますが、いますぐ何かの解答が出るわけではないのですが、教育の問題というのは、どこかの首相が言ったように、1に教育、2に教育、3、4がなくて5に教育で、教育によって社会を変えていくということはとても有効な手段だし、時間はかかるかもしれないけど、その取り組みはまず具体的にしていかないとダメということですね。

 こういう愛国心の問題とか、いま先生が話してくれた教育基本法の改正の問題でも、改革の仕方は二つあるということを学習して、自分でどう判断していくかということができる力をつけていく上で、リテラシーが必要だし、民度の高さが必要だし、それを底上げしていくためにも、まず教育の問題を考えていかなくてはいけない。その上での、今日はみなさんに一つの考え方の基軸というか、前提条件を提示するという形でお話をしたということです。

宮台 じゃ、最後にぼくから秀嶋さんに尋ねたいんですが、実は秀嶋さんは宗教にも造詣が深い方なんですね。昨日たまたま、上佑と会って、3時間も話をしたということがあるんで、お伺いしたいんですけどね。オウム真理教の問題もぼくは教育の問題だと思っていまして、オウム真理教だけでなくて、多くの宗教が超常現象を体験させる、あるいは超常体験を与えることによって絶対者への帰依を生むということをやっているわけですが、これどう意味で問題だと思われます? どこの宗教教団でもやっています。アメリカでもヨーロッパでもそういうことをやる人がいるわけです。

秀嶋 宗教というものは、そういった神格化されたものだとか、神の啓示だとかいうものをベーシックに持たないと成立しないものといのが前提条件としてあります。ただ、ある時期から社会性を持たないと宗教というのは社会と一緒に生きていけない。山にこもって宗教を広めることはできないわけで、近代宗教というのは、ある意味で市民を救うということですから。そのために、神格化したもの、天の啓示といったものは一部残しつつ、そうした中で、どう社会性を持った組織として変革しいくかというチャネルの変更が必要だと思うんですね。

 たとえば、オウムの例で言えば、チャネルの変更をできなかった。できるような組織になっていなかったし、もう一つは人材がいなかったということがあると思うんですね。

宮台 いま秀嶋さんがおっしゃったことは、大変深すぎて、たぶんみなさん理解を越える部分もありますんで、少しだけ補足しますね。

 ユングが言っているように、超常現象があるかどうかは別として、超常体験はみなさんに起こりうるわけです。ぼくもいくつか経験をしています。これは、しかし、ユングも言っているように、超常現象があるかどうかということと別の問題として論じることができる。UFOの問題もUFOがあるかどうかではなく、UFOを見たという体験をどう理解すればいいのかという新しい問題が生じてくるわけですね。

 オルターズステーツ、変性意識という状態におきますと人はちょっとしたスイッチを押すだけで神の声が聞こえたり、体浮いているという体験をしたりさせたりすることができます。ある種、自己解放セミナーは、人を変性意識へ落とし込む訓練をやったりしてますので、そうした超常現象なるものを体験させるメソッドというのが実はあって、それを訓練して獲得することもできるわけですが、そのことをちゃんと教育されてないと、あるいはそういうことを全く知らないで免疫がないと、たとえば、訓練された秀嶋さんによって、ぼくに超常体験が生じることを持って、「秀嶋さんってすごい〜」「いや、これは誰にでもできるんだよ」って言えばいいんだけど、「私はグルだから…」「私は絶対者だから」と言えば、免疫のない者共はころりころりといくわけね。まず、そこでステージがあるんですね。

 実は、それを踏まえた上で、次のステージのことを秀嶋さんは強調されているわけです。

 基本的には、宗教というのは何かに帰依する。絶対者に帰依するか、絶対的な教義に帰依をするわけですね。絶対性がないと宗教というのはないというのはその通りなんですね。

 絶対性、超越性というのは社会を超えているということだから、オーム真理教の麻原のように場合によっては、社会より大きな宗教の中で社会を否定しても構わないですから、それが宗教なんですよ。

 しかし、それをやれば宗教は弾圧をされるわけです。キリスト教も弾圧をされた。多くの今日生き残っている宗教は弾圧をされた。弾圧も実は生き残るために、社会とそれなりに折り合いをつけないと教団は生き残れないし、しかし、教義の中身に社会と折り合いをつけること、それ自身をある種絶対性への帰依と見なすことができるような革新を行うんですね。

 それが、キリスト教で言えば、異教徒パウロ、キリスト教狩りをしていたパウロが改心をして、キリスト教徒になったときに、チャリティー・カリタス、隣人愛の教義を編み出した理由です。「キリスト教徒であれば、非キリスト教徒よりも誰よりも社会的にふるまえることを示せ」。それがイエスの命令だという展開をする。これは実際にイエスが命令してないと思いますけど、そういうふうに言うことによって、教団の生き残りを図ることができたし、キリスト教なるものの今日、イメージを形づくることができた。今日、みなさんの抱いていらっしゃるキリスト教のイメージはほとんどパウロがリライトしたものです。

 ということも教育で教えられていれば、麻原のごとき存在に釣り針によって釣られてしまうということもなかったでしょうね。ところがいま、そういうこともなくて、衛生無害な教育環境の中で、神秘体験ごときものはないがごとく教えられているわけです。まるで、もう宗教家というか、変性意識に落とし込んでいろんな体験を起すことができる訓練を積んだ人間にとってはおいしい状況が広がっているわけです。

秀嶋 大事なところを届けていないということがありますね。戦前から戦後にかけての展開の中で、これはもういけないことだよというふうに隠蔽したものがある。たとえば神の啓示とか土俗的なもの、土着的な信仰心のようなものは気持ちが悪いとかいうように断絶させて、伝えていないものがあると思います。

 ところが、ここに来ている学生さんたちもそうだけど、みなさん優秀な、慶応大学湘南キャンパスに入られて、おそらく一生懸命勉強されたでしょう。ところが、小さい頃からの家庭の中で、コミュニケーション能力のトレーニングがある意味昔とは違ってきているので、オウム事件を見てもわかるように、コミュニケーション能力の低いインテリが引っ掛かっているわけです。一般社会からインテリって言われる人たち。

 こういう人たちがどこに一番弱いかというと土俗的、土着的なものに弱いんです。こういうところに集って話し合いをしているという人たちは、ある意味非常にステージが高いわけで、そうじゃなくて、麻原のような熊本という地方出身で、学歴もなく、盲学校行って、いわゆるインテリと全く違うルートで生きてきている人間が、ある日、神秘体験を持っているとなった途端に「すごい!」ということになってしまう人たちがいるわけです。

 日本の教育の問題もあるんだけど、そういう土着性だとかにどう対応していくのかというトレーニングはしていないんですよ。あるいは、そういう人と触れ合うチャンスがない。

 そういうこときちっとやってれば、そんなに驚かないんだけど、そういうことが起こってしまうということがある。

宮台 実は、上佑さんは、早稲田の理工出身で、宇宙開発事業団に就職した人でしょ。英語はペラペラ。ディベートコンクールではチャンピョン。皮肉なことに彼にディベート術を教えた人間はぼくの知り合いで、その男は洗脳の専門家で、専門家であるがゆえにオームの信者を脱洗脳するという役割をずっとしていた。おもしろいですよね。昨日、上佑さんが言うには、やっぱり免疫がなかったと言っていて、超常現象が人の手によって引き起こされたときに腰を抜かして超人だと思った。事前にそういうものに対して、どう理解すればいいのかということがインプットされていれば、少しは反応は違ったと思うけどということでした。ということで、これも教育の問題だと考えた方がいいと思うんですね。

秀嶋 それも共同体のことと繋がってくるんだと思うんですよ。先ほど商店街の人と人の繋がりのことをおっしゃったけど、そういう関係性を生んでいる人々の背後には土着性があるんです。

 そういう人たちとたくさん出会っていれば、そういう土着的人間関係の中で、「実はさ。昨日おばちゃんが枕元に立ってさ」というようなことを入り口にして、神秘的なるものに触れることができる。そういう話をしょっちゅう聞けたりする。それがなくなって、大型ショッピングセンターできれいなお姉ちゃんがマニュアル化された笑顔で「はい、いらっしゃいませ」とやっていては、共同体が持つ土着性に触れることなんてできないですよ。

 そうした中で、人間のコミュニケーション能力がどんどん低下していっているがゆえに、それが突然、大学生とか思春期を過ぎた当たりに登場すると「このおじさん、すごい」とか、「このおばちゃん、かっこいい」とか言うことになる。

 私がよく行く店で、宮台さんも知っているんですが、うちの近くに70くらいのおばちゃんがやっているハンナという居酒屋があるんですが、そこは凄いんですよ、おばちゃんが人生経験豊富で。そうすると、そこに来た、若い女性とか感動してしまうんですね。「このおばさん何者?」というようにね。もし、その店主である彼女に霊が下りているとしたら、一瞬にしてハンナ教ができるわけです。

宮台 (笑)そうですね。

秀嶋 そのように、いかにトレーニングされてないかというのは、共同体の繋がりの弱さとつながっているということがあるからなんですね。

 では、時間も迫っているので、最後に質問のある方、挙手をして質問をしてください。

男子学生1 愛国心と教育について質問をしたいんですけど、従順な国民をつくるということと何かあれば国を倒してでもという愛国心の違いを最初にお話になりましたけど、愛国心教育を行うときに、従順な市民、従順な国民をつくる愛国心とそうでない愛国心というのはどういうふうに峻別されるのかというのをお願いします。

宮台 愛国心教育が義務化されたらされたで、いわゆる従順な国民をつくりたい一部の人間たちの意図とは全く違った教育をすることはできます。これは峻別どうのこうのということよりも、実際にそういう裏をかくようなタイプ、裏をかくんだけど本当の愛国心教育なんですが、そうした教育ができる人間は、つまり国民と国家についての戦後的な、あるいは近代国家的な枠組みを教えることができ、右翼と左翼の本当の関係、新の右翼が内発性を賞揚していることを教えることができといったようなものを持った社会科の教師、他の科目でもそういう教師がいるかと言えば、いないです。ゼロに近いと言ってもいいかもしれません。

 これで答えになるんですが、つまり峻別は簡単なんですが、峻別できる人がいないのが現実の問題なので、そういう人を増やしたいという思いで、ほとんどギャラがなにのに、こういうところに来ているわけです(笑)。

 物事を簡単に、論理的に峻別できるとか、物事の論理的な関係がわかるということと実際に峻別できる人、わかる人というのは全く違ったロジックです。あるいは、わかりやすく言うと人間は感情の動物なので、理屈はわかってもそれでは体は動かないということがあります。その人間に理屈通り体が動くようにさせるためには、やはり、訓練が必要で訓練というのは論理とはまた別の次元、物流作戦が必要だったりする。その辺をわきまえることが重要です。その意味で言うと頭でっかちでいる限りは正しい理屈が共有されるということはないということですね。

秀嶋 現場の先生はできないだろうということですね。だから、ここに来ているみなさんたちが、自分なりの考え方を持って形にしていくしか仕方がないだろうということだと思うんですよ。

男子学生1 現場でできないという状況の中で、愛国心教育をするということは、ある種、欽定憲法、天皇に主権があるということは別にして、戦前以前の盲目的な人間たちが増えるという危険性はないですか?

宮台 モロありだね。そういうふうなるんじゃないですか(笑)。

秀嶋 (笑)現実にそうなりつつあるしね。もう一つは、戦前の国粋的愛国心、国家に対する貢献のみを言うのが愛国心であるという教育は進んではいるが、さっき宮台さんがちょっと言ったけど、そんなの全く知らないけど、愛国心大事だよねという新しい人たちが出てきいてることなんですよ。

 たとえば、つまり、戦前教育はよかった、あるいは戦中教育はよかったというふうにして、天皇のために死ななければいけないという人間が出てくる比率よりも、「全然、昔のこと知らないけど、愛国心って大事じゃん。だから、日本を守るために人は死ななきゃダメなんじゃない?」という人間がいて、そのためには自民党が言うところの教育基本法改正大事じゃない、強権発動大丈夫だし、自衛隊の軍事化も大事だしというふうに何の検証もなく考えている人たちが増えてきていることの方が危険ですよ。

宮台 利用されてしまうという意味で危険なんですね。とにかく、みなさんの世代はナショナリストが多くなってます。それが年長のある種の世代にとっては戦前的なものにみなさんを吸引するための非常によいフックがたくさんあるというふうに見えているわけです。

 むしろ、ナショナリズムに加担しようとする若いみなさんが「オレたちはナショナリストだが、それは戦前を否定するナショナリストだ」というふうに、「戦前の観点から言えば、優等生病、一番病のケツ嘗め官僚のケツをまた国民に嘗めさせられるような、そういう時代はいやだというナショナリズムだ」というふうに言っていっていただきたいですね。

秀嶋 情感的な話を一つだけするとね。靖国神社にある某右翼の若者が来ていて、マイクを向けたときにこう言った青年がいたんですよ。「ここに来ているのは国のために死ぬために来ているんですか? 国を愛しているから来ているんですか?」という質問をしたときなんですが、その青年は、「この国は愛していない。この国は愛せない、こんな国のために死ねるわけないじゃないですか」と言うわけです。「じゃ、何でここに来たり、活動しているんですか?」と訊くと「いや、この国を愛せる国にしたいんですよ」というわけですよ。「そのためにぼくはこの活動をやっている」。これは論理として正しいです。

 だから、さっき話に出たように、左翼だから正しいわけではなく、そういうマインドを持ったところに本当の愛国心があるんですよ。それを具体的にどうやっていくかというのは、また次の展開だけれども、最初の基軸の所在はそういうところにある。感情的なことを言うとそういうことだと思うんですよ。

男子学生2 安倍首相は、愛国心というか、自分の国に誇りを持てるような、日本に誇りを持てるような子どもを育てると言う一方で、自虐的な歴史観を教えるべきではないというようなことをやっていたと思うんですけど、もし自虐的な歴史感、たとえば従軍慰安婦の問題とかを教えないということは、逆に国について教えていかないということで矛盾しているような感じがするんですけど、それについてご意見をいただきたいんですが…。

宮台 うん。矛盾してますよね。ただ、これも根が深い問題があるんです。もともと安倍さんのそういう発言のバックボーンにあるのが、「新しい歴史教科書をつくる会」で、この人たちは在日の方々というよりもむしろ、従軍慰安婦の強制連行問題から出発したんだけども、強制連行に関わる左翼のデッチ上げの歴史というのがあるんです。実は、それを突かれてしまったということがあるんですね。

 強制連行はあった。従軍慰安婦についてもあった。在日についてもありました。しかし、強制ではない人たちも当然いた。ぼくらが小さい頃は、在日は全員強制連行されたというふうに左翼教員から教わりました。おそらく、強制連行されたのは一割以下です。他は一旗挙げに日本にやってきた。であるがゆえに、キョッポ、在日であることは向こうでは軽蔑されることなんですね。なぜかというと、いま言ったように一旗挙げに日本に行ったからなんですね。差別されることを承知で。ふざけた野郎だというのが同胞であるところの韓国、半島人の扱いだったりする。

 ところが、左翼の方々は、要は弱者は正しいという左翼的な図式を戦後、広げていくときの政治的な道具の一つとして強制連行問題を使うということをやったせいで、日本国民のある世代より上の多くが在日は強制連行されたんだというふうに思い込んでしまった。在日の人間たちも左翼とのある種バーター取引の中で、そういうポジションを与えられることが得になると思ったから、「それは本当はウソなんだけど」と言わなかった。

 実はそうした歴史の積み重ねを知っている奴がいるわけ、やっぱり。「ちょっとこれ、話違うんじゃねぇの? みんな騙されてぜ」というところから自虐史観という問題に火がついたとうことがあるんですね。なので、いまおっしゃったことは非常に重要なことなんですね。実際、自分たちの国が何をしてきたのかという直視できることがヘタレじゃないことの表れであるはずなんです。その通りなんです。

 このことについては、もっと言えることがあって、自分たちの国はいかにダメなのかということを理解することからしか、ちゃんとした国はつくれない。どこがダメなのかを検証しようというのが、実はドイツの態度だったりするわけです。これも正確な言い方をするとそういう態度を取らないと回りからバカにされて、国際的な地位を得られないからドイツはそうするしかなかったということがあるんだれど、日本の場合、謝罪はしてきましたけど、自分たちのどこがダメだったのかということを戦後十年間くらいを除きますと徹底した検証をしていない。失敗の研究、敗戦の研究をしていないということがあるんです。

 簡単に言うといま言った二つですね。まず、徹底した敗戦の研究、自分たちはどこがダメだったのかということを謝罪問題と切り離して議論してくる伝統がなかったということと、日本の左翼がある種の政治的戦略から戦後様々なウソをついてきた。これは紛うことなきウソなんですよ、歴史的に見ればね。それをある種ヘタレ右翼に突っ込まれてしまった。バルネラルだった。こういう切り返しにもともと弱い性質を持っていたということで、やっぱり、ウソはよくない(笑)。正しい目的であっても何であっても。そういふうに言う必要があると思いますね。

                             終了。