第9回 愛国心とポピュリズム


 心情を背景とした正義が台頭する象徴的な政治の動きとして、教育基本法改正論議があります。

 子が親を殺す、親が子を殺すといった、「良識ある人々」の道徳観を凌駕する事件が起きる。あるいは、顕著な精神的症状が認めらず、日常生活を不足なく生活する人物が、ある日、縁故や繋がりのない児童や女性、老人を残忍に殺傷するという事件が起きると、人々は、その犯罪動機や原因が不明であるにもかからず、「犯罪歴も入院歴もない人間がなぜこのようなことをやらかすのか?」と自分たちの納得できる明確な解答を要求します。

 しかし、今日、私たちの社会に出現するこうした事件に明確な動機や原因を求めることにあまり意味はありません。意味がないというのは、不安に駆られて導き出される、安心のための自己解答は、自分を安心させるための処方箋に過ぎなく、根源的な犯罪抑止、防止への処方箋とはならないからです。社会の実相を見ない、感情的で恣意的な探索は、場合によってはスケープゴートを生み出す危険すらある。

 現実に、自警団や市民パトロールなどの実施によって、犯罪が起きた狭い地域の安全は一時確保されても、同様の事件があまり時間を置かず、別の地域で出現しています。監視カメラによる抑止効果も同じようなもので、モグラ叩きゲームのようなことが茶飯事となった社会に私たちは生きているのです。

 人が殺してみたかったという理由だけで平然と人を殺傷できる人間が存在する社会に、いま、私たちは生きています。インターネットを媒体とした犯罪や事件、いじめや差別に見られるように、日常生活では社会のルールに従順な素振りを演技しながら、ネット上では、差別や中傷を繰り返し、人権を傷つける、あるいは他者への殺意を醸成させている人間も決して少なくはないのです。自殺サイトもそうしたものの一つです。

 こうした社会状況を変えようと考えるとき、教育へ人々の関心が集中し、教育を通じて人間の人格形成のあり方を変えようという意志が働くのは当然です。

 しかし、こうした教育改革にも二つあり、改革を実施する者が、いまの社会の何を直視し、何を変えようとしているかが重要で、権力者や力を持つ大人たちが単に自己不安を解消するため、自分の安心のために、それを行おうとするとき、多くの危険を孕みます。

 小泉政権以降、いま安倍政権によって語られている改革の根本にあるのは、道徳観や倫理観が社会共同体の中で自発的に育まれていた過去の時代へのノスタルジーとしてのそれです。それは政策や改革とは名ばかりで、戦前懐古に過ぎなく、成熟社会のいま起きている諸問題に何の有効性も発揮しない心情を背景とした「正義」に過ぎません。

 そればかりか、権力者や力を持つ大人たちにとって、都合のいい、従順な人間を増産するためだけの非常に意識的、人為的なもので、不純な作為です。ただでさえ、近代国家としてありえない程、民度の低いわが国で、従順な人間を量産するための教育改革など、国際競争時代のいま、まして国益に反します。

 とりわけ、問題とされている「愛国心教育」は、こうした治世者の心情的なメッセージ性が強く、与党改革案には、愛国心とは何かを丹念に検証した痕跡さえ、見つけ出すことが不可能なのです。

 愛国心には、社会共同体への貢献意識、いわゆる、パトリオティズムと国家共同体への貢献意識、ナショナリズムがあります。

 愛国心というと単に「国を愛する心」としてだけ、一般に理解されていますが、市民社会における愛国心とは、国民一人ひとりが自己の権利を自ら選択した上で、制約し、国家のために何がしかのコントリビューション、貢献を行うことです。しかもナショナリズムというより、パトリオティズムの色彩の方が遥かに強い。

 公民意識や税意識、軍事力を持つ国における徴兵制度などはこうした自己選択の先に誕生する国家への貢献で、近代市民社会における愛国心とは、国民の総意がこれを自ら選択するという基盤の上に成立しているものです。

 つまり、愛国心とは国民の自己選択、総意と内実が生み出すもので、政権や権力によって生み出されるものではないのです。これは、近代市民社会は何ぞや、民主主義教育とは何ぞやという学習の基本中の基本です。にもかかわらず、日本の政治家、とりわけ閣僚すべてがこの学習を全くしていません。安倍しかりですが、外務大臣の麻生太郎は筆舌に尽くしがたい無知さです。

 ヨーロッパの国々は地続きの国であるがゆえに、民族や人種、宗教が渾然としています。19世紀、フランス共和国の建設によって、それまで曖昧だった国家意識とこれに伴う市民負担を必要としたとき、初めて市民による愛国心が必要とされ、国は市民の生命、財産を守る代償として、国家貢献としての税負担、軍役などを要求したのです。

 そうした中で自国文化への認識やそれに対する誇りが育まれ、愛国心とは国を愛する心であると同時に、市民一人ひとりの権利と自由を守るものとなっていったのです。

 つまり、近代社会における愛国心とは、市民が自ら選択し、治世者との契約によって成立しているものである以上、契約された社会的合意以上に市民の自由を束縛したり、市民に一方的に貢献を要求したり、市民が国を愛するがゆえに要求する、よりよき国に変革するための提言を無視したりしたとき、これに対して、市民が武装蜂起を含め、権力者から権力を奪い、国家体制そのものをリセットする権利と自由さえ、与えているものなのです。

 愛国心とはそれほど市民主体であり、強く、堅固で、誇りに満ちたものです。それゆえに、自国の政治的自立と主権、独自性、文化的自立性を持つものなのです。

 では、戦後日本の政治の場で上記の愛国心を指し示す政治的行動が、内政及び外交においてあったでしょうか? 三島由紀夫の自決が示すようにそんなものは戦後政治において、田中角栄の日中国交回復外交以外、一つもなかったのです。

 まして、小泉政権以降、アメリカの傀儡政権として主権を放棄し、これを継承する安倍政権が、愛国心を言うこと自体が政治家の政治責任を全く果たさず、国民に対して不遜な行動を取っているとしか言いようがありません。
 
 ところが、この国の危機的な一面は、冒頭に述べたように、動機不明、原因探索が難しい事件の続発を根拠として、戦前懐古的な道徳教育(修身)の復活や愛国心と国粋主義を取り違えた心情がポピュラリティを獲得してしまうことです。

 政治理念やビジョンにではなく、ましてや政治家が無知、無教養で、親の選挙地盤を継承し、外見や言葉使い、口調、声の高低、つまりテレビ受けするかしないかだけで、当選し、総理大臣にまでなってまう今日の日本にあって、これまで述べてきたような市民意識、公民意識を背景とした愛国心を日本国民が学びとっていくには多くの困難があります。

 いつも私がこのOUTで述べているように、市民社会の形成を市民の手によって勝ち取って来なかった日本では、それを要求することは現段階ではそれも絵空事に過ぎないかもしれません。

 しかし、学生や若い世代の連中に私が常に言っているのは、「知者は覚者であり、覚者は行者である」という言葉です。

 いまの社会のあり方に対して、少しでも疑問を持ち、稚拙でもそれを学んだ人は、そのときから知者であり、知者であるがゆえに目覚めた人、覚者です。目覚めた者は自分の生活やできるところからこれを実践しなくてはなりません。なぜなら、あなたはどういう経緯にせよ、行動するという使命を授かったがゆえに、覚者となりえたからです。だとすれば、疑問を解決し、社会を変革するために行動する行者とならなければなりません。

 あなたが一人の行者として使命を全うするために火の玉になることで、その火が誰かを火の玉にし、その誰かがまた誰かを火の玉にしていくのです。社会を変える本当の力は、実はそこにしかないのです。そして、それこそが軽薄なポピュリズムを抑止する最も有効な力として機能する本当の力なのです。


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