第8回 一回性を生きる


身体を楽器のようにとらえ、台本や脚本を譜面として考え、意味性や論理性ではなく、構えや形として、その記号を読み取り、音楽を奏でるように所作や台詞を表現する。そのことによって自分の身体に自覚的になれ、引いては、離見の見・見所の見という視点、つまり、主観を持ちながらも、同時に客観的な視点に辿り着けるのだというお話をしました。今回は、この話をもう少し発展させましょう。

 前に述べたように、私たち人間は、意図した仕掛けや工夫を用いない限り、日常のフレームの中で、何者かに変わることはできません。たとえはよくありませんが、米軍の海兵隊員は人を殺すために苛酷な訓練をします。人間を訓練によって極限にまで追い込むことで、人が殺せるようにするためにです。それはなぜか。日常というフレームにあっては人が殺せないからで、日常ではありえない非日常のフレームへ、訓練によって、つまり身体を徹底的に酷使することで人が殺せる世界へ到達させようとするのです。

 俳優というのは、身体を通じて、見えないものを観客に幻視させる一輪の切花という異形の存在です。感情解説という日常的な意味性や論理性が出現した途端、この異形の存在が放つ生理が損なわれ、観客がわざわざ劇場へ足を運ぶことの意味が失われます。劇場とは日常と異なる時空を観客と表現者が共有する怪しの空間、日常の論理を超えた生理の世界なのです。その空間を生きるために、みなさんは、ある意味、海兵隊員のように、日常の時空を断ち切り、異形の存在へと辿り着かなくてはなりません。そのための仕掛けが音楽という視点と楽器としての身体という自覚です。それにより、身体を通じ、演技という非日常への回路を見つけ出すことがみなさんの仕事なのです。

 では、音楽性ということがなぜ俳優にとって重要なのか。視点を少し変えて、これを検証してみましょう。

私は古典芸能の構えや形を通じて、感情表現を重視するリアリズム演劇の限界を指摘し続けています。感情分析や理解からでは、意味性と論理性が頭をもたげるがゆえに、俳優の生理を損なうということはすでにお伝えしました。音楽性でなく、意味性から演技をとらえると、そればかりでなく、演技にとってある重要な要素が身体化できないという現象が起きます。

それが「演技の一回性」です。

俳優というのは、これから非日常で行われる台詞も展開もすべてを自明のこととしながら、舞台、あるいはカメラの前に立ちます。つまり、自分がどういう設定を生きるかを承知しながら、毎回、それを未知の時空との出会いとして生きなければなりません。

ここに演技の一回性という問題が浮上します。

何度もその役を生きながら、観客の前ではすべてが初めての出来事のように一回性を行きなければならない。これは俳優の仕事として当たり前のことのようでありながら、人間の生理にとっては非常に難関で、これも意図した工夫がなければ本来不可能なのことです。しかし、それができなければ、観客はみなさんが演技する芝居を一喜一憂しながらみつめることはできません。観客もまた、客席で一回性を生きているからです。

人間の体験、記憶というのは、その最初が強烈な残像として残るという生理を持っています。大人になるに従い、感動体験が減少するというのは、感性だけの問題ではなく、人間の脳の仕組みとして、すでに体験、記憶した初回のものと同じ感覚のものには反応が鈍いという生理があるからです。にもかかわず、俳優が同じ体験を繰り返し、演技しながら、そこに観客の望む一回性を提示できるのはどういう仕掛けによって可能となるのでしょう。

もし、これを感情表現の理解によって行おうとするとどういう現象が起きるかを考えれば答えは出ます。

舞台の場合、一般的に1ヶ月の稽古期間を経て、通し稽古、ゲネプロ、そして本番を迎えます。映像の場合でも、本読み、カメリハ、ランスルーなどを経て本番となります。つまり、何百回、何十回となく役を生きるなければなりません。そこに求められるのは、まず、それだけの期間の仕事に耐えられるだけの身体能力です。私のワークショップで身体訓練を重視する理由のひとつがここにあります。そして、さらに重要なのが、何百回と同じシチュエーションを生きながら、一回性を生きなければならないということです。

俳優というのは俳優である前に一人の人間に過ぎません。それゆえに、日々の心身のコンディションによって自分の感情さえ、機械のようにコントロールすることは不可能です。仮に俳優が心身のコンディションを一定にし、緊張を絶やさず舞台に上がっていると思っていても、そこに昨日と同じ自分はいません。観客も然りです。昨日と同じ観客ではない。

よく俳優や舞台の生理を理解できていない演出家や監督が、同じ演技ができない俳優にダメ出しをするということがあります。こうした人は演出や監督という仕事に携わる資質が欠落しています。昨日と同じ芝居ができないのが俳優であり、昨日と同じ芝居ができないからこそ、俳優は一回性を生きられるのです。にもかかわらず、こうした指摘をする側、あるいはされて、動揺する俳優は、感情表現こそ演技であると勘違いしているために他なりません。すなわち、「昨日と同じ感情を生きなければいい演技とは言えない」。なぜなら、「その登場人物がそのとき感じた感情を繰り返し表現できることこそ演技だからだ」というものです。

これは全く理に適っていません。人間の生理の場である舞台や映像作品の現場で、繰り返し同じことができるはずがない。だからこそ、生理の世界であり、再三述べているように、意味性や論理性を越えた、言葉にできない何か、視覚化されない何かを観客は幻視できるのです。そこに、繰り返し同じことができることを要求し、それが俳優の使命かのように問うのは、舞台芸術や映像芸術の根幹を否定することです。

俳優が人である以上、そこに俳優の、人間の生理があります。全く同じことが繰り返せないという生理です。感情分析により演技を組立てようとすると俳優は常に自分の生理と役の間で苦闘することなります。繰り返し同じことができない人間の生理に逆らって、感情を蘇らせようとしても、人間である俳優には日々変化するコンディションがあり、これを無視して同じように繰り返すことのできる感情表現など、不可能に挑戦するようなものです。そして、苦闘の果てに、再び役や台詞の意味や論理を言葉で再確認しようとし、それが益々一回性を生きるということから俳優を遠避けます。

いかに達者な俳優であろうと、その日の体調、気分、環境によって変化します。まして、観客というこれも日々違う人間を前にして、同じであるはずがない。観客の息遣い、観客がつくる劇場の空気感も日々変化しているのです。映像の現場でもスタッフの緊張感の変化、撮影場所の空気によって俳優を包むものは変わります。つまり、俳優も俳優の演技を前にする人々も常に一定で不動のものではない。そこに演技することのダイナミズムがあり、おもしろきという世界があるのです。

 では、こうした変化を当然とする中で、それでも俳優が一回性を生きるためにできる工夫とは何でしょう。それが、言葉による感情理解ではなく、演技を音楽として捉え、それを身体化するということなのです。

 役の感情分析から、すなわち意味性や論理性から理解したものなど、俳優の日々の体調によって変わる、当てにならなにものとすれば、それに代わるものが俳優には必要です。前回、台本や脚本を前にしたとき、意味性や論理性ではなく、音楽性からとらえよと私が語った意味がそこに浮上します。これまで述べてきたように、身体所作として、すなわち形として一回性を生きる演技を繰り返すと、その身体感覚が意味としてでなく、音楽的な生理として俳優の心をつくり、心を蘇らせます。感情へ辿り着くための身体のフレームが機能するのです。

 それは些細な所作となって認識することができます。立ち居地、姿勢、手足の位置、重心の位置、筋肉への力加減や弛緩、呼吸、芝居のテンポ・リズム…。俳優が自分の身体に自覚的であれば、これを形として再現することはできます。もちろん、そこにも全く同じというものはありません。しかし、演技の回路を意味ではなく、リズム、音楽として再生しようとすることで、辿り着けない感情表現への道に迷うことはありません。求められている演技の基軸を失わずに済むのです。

 断わっておきますが、先ほど述べたように、俳優は全く同じ演技を繰り返すことはできません。同じではないことで一回性を生きられるのです。つまり、昨日の演技と今日の演技は違って当然だからこそ、その日にしかない一回性を生きられるのです。しかしながら、そこには台本や脚本に描かれ、観客に伝えなければならない「心」があります。その心は、日々身体所作や俳優本人の体調や感覚に強く作用されるのもであってはなりません。だかこそ、感情ではなく、音楽という繰り返しの利く、身体所作として自覚し、自覚したものを身体で示すことが有用となるのです。

 私がこのレポートの最初に述べた、形を通じて普遍的な感情表現に辿り着こうとする身体へのこだわりが重要だという意味がここにあります。簡単に言えば、身体に伝えるべき心を吹き込むということです。

 世阿弥の言う「心より心に伝ふる花」とは俳優が一回性を繰り返し生きるための術が語られているのです。

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