第8回 美しい国、日本  −不条理の喪失−          


 「心情と正義のパラドックス」の中で、社会の法制度や規範の脆弱さが民意に跳ね返り、社会全体に広がったとき、社会のヒステリー症状が起き、民意の不安を解消するために心情を背景とした正義が台頭することの危険性についてお話しました。
 
 前回、私が想像力の持つ重要性についてお話したのは、そうした危険性を回避するための力として、目の前に出現した不安要因となっているモラルハザードや旧来の価値観を揺るがす事件、事故に遭遇したとき、現象の向こうにある真実を感知するための感覚、リテラシーが重要だということを理解していただきたかったからです。

 人間の想像力が生むリテラシーを獲得するのに、何よりも重要なのは、「教育」です。
 
 では、いま教育に求められている重要な要素は何なのでしょう。

 その一つが人間の持つ不条理性への理解だと私は考えています。そのために、ヨーロッパ精神の基本となっているものを例に考えてみましょう。
 
 ヨーロッパの精神形成の核となっているものに、ギリシャ哲学、その思想の形象としてのギリシャ悲劇があります。みなさんもよくご存知の『オイディプス』や『アンティゴーネ』、『王女メディア』といったギリシャ悲劇が描くのは、運命に翻弄される人間の悲劇性です。

 そこに描かれているのは、愛や慈善といった人間の善意が人間の力では処し切れない、見えない力、神の気まぐれとも言ってよい運命によって、それらがことごとく裏切れていく姿です。そして、かつて民衆や臣民に尊敬され、愛されていた人物がケガレや軽蔑の対象とされ、自分がこの世に生を受けたことの罪を贖うために、自らケガレや蔑視の対象として人々にその身を晒す、あるいは自決するというものです。
 
 それは、言い換えれば、人間の存在はそれ自体が不条理な存在であり、人がその事実に目覚めたとき、初めて人間としていまここにあることの罪、真実に目覚めるものだという確信です。
 
 たとえば、脳科学の世界で言われるように、脳の機能の基本にあるのは生命維持のための自己防御と自己保全です。人間の脳はそのために、常にエゴイステックにしか世界を感知しません。
 
 脳が認識する世界は常に自分の都合のよいように整合性を計るよう修正や訂正が行われ、それができないものは無意識へと格納されたり、歪曲された記憶として沈殿されます。つまり、厳密に言えば、私たちが他者との関係を形成したり、世界を認識していると思っているものは常に個人的主観によるもので、そこに絶対的な普遍性はないのです。
 
 私はそれを「孤独な脳の集合体としての地球」と呼んでいます。では、孤独な脳の集合体である地球で、私たちがそれでも家族を形成し、地域や職場で人間関係をつむぎ、かつ他の国々や他の民族の人々と生活を共にできるのはなぜでしょう。
 
 それは、ディスコミュニケーションの中でも生きられるための社会システムを築いたり、共同幻想を持つための仕組み、宗教を作り上げてきたからです。
 
 人間の存在は常に主観的でエゴイステックなものであり、愛や善意すらもそこから発しているものである以上、それが他者を傷つけたり、自分をも傷つけるもの足りうる。我々人間は世界を主観的にしか認識していないがゆえに、そうした不条理しか生きられない存在だとすれば、ディスコミュニケーションが決定づれらた世界でどう生きるかを考えよう。

 そこに、古代ギリシャに見られるような都市国家や宗教的理念が形成されたのです。簡単に言えば、人間というものへの徹底した不信、絶対的な存在から見たときの人間の脆弱さへの理解がヨーロッパ精神を形成していると言えるのです。
 
 人は人を傷つける存在であり、よりよき縄張りを得るために人を殺し、競争し、格差や差別を生み出し、生き物の命を奪い、それを食べる存在である。この不条理性とどう向き合うかという中で、宗教を基軸とした社会、世界の構築を必要とし、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の経典宗教に見られるような「契約」の概念を誕生させてきたのです。

 しかし、国民全体が共有できる宗教的理念を持たず、市民社会の形成を市民の手によって勝ち取って来なかった日本では、近代以降もこの手続きが省略され、心情を背景とした正義が民意を支配し続けてきました。

 そのため、第二次世界大戦後も戦争責任を明確にできず、自国の歴史の検証を曖昧にしてしまった結果、靖国問題でも解決の糸口さえ見つけ出せず、心情による正義がどれほど不確かなもので、危険に満ちたものであるかを正しく学習できないでいます。

 心情を背景とした正義がどれほど感情に満ち、感情的なものであるがゆえに、人間の不条理を孕み、かつ市民社会の基本である契約の理念を反故にしてしまうものであるかに気づけないでいるのです。
 
 これは、戦後、アメリカの合理主義を背景として、機能性や利便性への追及を豊かさの証明とする道を鵜呑みにして経済成長を推し進める上では有効でした。

 不条理の理念を持たなかったゆえに、日本近代が見落としてきた空白、とりわけ、公民や人権といった、手間のかかる「臭い」もの、公民や人権を考える上で不可欠な人間の不条理性に蓋をして突き進むことができたのです。しかし、その結果、人々は物金を第1とする実利主義に疲弊し、先行きの不透明感が生まれるとその反動として、一層、耳ざわりのよい、心情的な言葉、それを背景とした正義を民意が求めてしまう社会を形づくってしまいました。

 「美しい国、日本」というフレーズは年配の方なら誰でも気づく、戦前の尋常小学校で習字の見本として綴られ、国語の読み書きの授業にも登場した言葉です。愛国心教育の基本となった言葉です。

 人間が本来性として持つ矛盾、生きてあることの不条理性へ目を向けず、日本近代がこの不条理性と向き合うことをせず、心情を背景とした正義によって国家を形成し、宗教的理念の欠如を天皇制によって代替してきたという世界に例のない国が日本です。
 
 そのために、いま市民革命や宗教的理念によって人間の不条理性と向き合ってきた国際社会の中で、日本国としての指針を打ち出すことができず、アメリカ主義といっていい、外交しかできないのです。

 これは民意にストレスを生んでいます。経済格差が進むなかで生まれる不満と国際社会で重視されていない自国の立場に苛立ちを生んでいます。

 しかし、そのストレスや苛立ちは国政や現政権への不満へ向かわず、国際問題においては対立する他国、国内問題においては、問題を起した団体や人物、事件・事故・犯罪においては犯罪者や事件を起こした側を徹底的に叩くことへと向かっています。こうした問題の根源をみつめることを放棄しているのです。

 一見不可思議と思えるこうした現象が生まれるのはマスコミ自らが行う情報操作によるものです。疲れた脳に甘味を与える上でもっとも簡単な方法は、社会問題や社会の真相を抉るような報道やドラマではなく、社会の現実や面倒臭いことを忘れさせてくる娯楽と消費です。

 また、政治においては、民意に広がる不安を利用し、かつ、理念なき民意を操作するために、心情を背景としたメッセージが登場します。

 「美しい国、日本」。一見誰も批判できない、心情に満ちた善意の言葉、簡潔で耳ざわりのいい言葉は、高度な情報・管理社会で疲弊した脳にとって、実にうれしい甘味料です。

 こうして心情を背景とした心地のよい正義の言葉は社会を席巻し、世の中の矛盾や暗部を隠蔽して行きます。

 「美しい国、日本」であるためには、これまで日本近代が空白にしている問題を検証し直し、心情を背景とした正義がいかにいかがわしく、それが民意を操作する道具として利用され、多くの社会問題、国際問題の真実を見えなくしているかを広く議論することからしか生まれません。

 美しい国とは、人間や社会が不条理に満ちたものと知り、不透明なディスコミュニケーションの社会とどのように向き合うかを含んだ、厳しい理念に満ちたものでなくては存在しない、幻想に過ぎないのです。


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