『ソーシャル・ネットワーク』

         

いま人々が強烈にはまっている、FBの開発者の実話に基づく映画。もう鑑賞した人の方が多いと思う。
 
監督は、デヴィッド・フィンチャー。『セブン』では、冷淡、冷徹といっていい視点で犯罪を描き、『ゲーム』では、意表をつくどんてん返しで、オレを圧倒した。『ベンジャミン・バドン』では、愛と老いという人間普遍のテーマに挑んだ。実に多彩な監督。
 
ゴールデングローブ賞では各賞総なめだったが、アカデミー賞では、下馬評の作品賞受賞も逃してしまった。が、確かに、映画のクオリティという点で、アカデミー賞の受賞には、物足りない映画。
 
世界へと飛び火している市民運動にFBが大きく影響しているいまだったら、話題性から受賞という道もあったかもしれないが、映画そのものは、人間を描くという点で、食い足りなさ、物足りなさが残る。 
 
実は、ストーリーはすべて知っていて、その評価も耳にしていた。速射砲のように続く会話と、カットバックを多用したテンポのいい映画。それだけに、じっくり描く、じっくり見せるといった、心象に届く展開がない。名作『セブン』とはまったく対局の作品。
 
しかし、若い学生たちが起業するという一瞬の風を描く上では、それが必要だったというのは伝わってくる。
 
この時代、実は、98年のコロンバイン高校の銃乱射事件に始まり、アメリカの各地の学校で銃乱射や殺傷事件が起きている。日本ではいじめによる自殺、そして、いじめを要因とした殺傷、暴力事件も増加した。
 
「スクールカースト」と呼ばれる、階層化が子どもたちの中ででき、いけてる奴、いけてない奴、おねぇちゃんとうまくやれる奴、やれない奴の選別が細分化され、ランク付けされる現象が急速に広がった。
 
映画の中でも、ハーバード大のどの「クラブ」(部活ではなく、グレード分けされた学生の集団組織)に所属するかが大きなキーワードになっている。
 
対人コミュニケーションに欠ける、あるいは、同質等質のコミュニケーション力がないというだけで、グルーピングからスポイルされた連中。その中から、対社会、対学校、対クラス、対同級生といった形で憎悪の暴力が起きた。これは日本の無差別殺傷事件という姿にも現れている。
 
仲間を形成できない。仲間であっても、いつ裏切られ、スポイルされるかわからない。その不安は、だが、コミュニケ―ションカースト、KYな連中だけでなく、ふつうの若者、学生たちに共有されていたものだ。
 
いつ自分がスティグマ(差別の烙印)にくくられるかわらかないという不安は、実社会の構造そのものを映していた。若い世代はそのために自己防衛をしようと、不安を生きぬくために、見えざるカーストを見えるものとし、トレーニング場、模擬練習場として学校社会の中で、カースト社会を現実のものにしていたのだ。
 
FBが開発者や創業者の想像を超えた規模に拡大したのは、実は、この人々の他者への不安がある。無作為に、無防備に他者とつながることの不安と、そのために起きる摩擦や齟齬、対立、それゆえに生まれる傷、カーストの下層に組み込まれる危険を回避するための有効なツールとしてFBは、不安の砂漠が水を吸うように世界へと拡大したのだ。
 
この映画の物足りなさは、その点をえぐっていないこと。FBが、人と人がリアルコミュニケ―ションだけではなく、事前のストレッチを経てしか、成立しないという悲しい時代を向かえていることの視点が欠落している。
 
そういう手段を用いてでも、他者とつながりたいという切実な欲求。それは、実に悲しく、実に尊い。ラストシーンは、それを描こうとしてはいるが…。


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       『ノルウェイの森』

    


 「Norwegian Wood」の原題は、ジョン・レノン書いたビートルズのヒット曲のひとつ。邦題役は、明らかな誤訳で、「こじゃれた北欧家具」というのが正しい訳だ。

 村上春樹の小説は、個人的には好みの作品ではない。文体が読みやすく、かつ英語など外国語に翻訳しやすい文章で、そのスタイルに文学性の高さをあまり感じられないからだ。

 この作品もどこか柴田翔の『されど我らが日々』を思わせ、60年代後半から70年代初め、ATG(アートシアターギルド)でつくられていた若い監督たちの映画のテイストもあって、小説を読んだとき、セックスにこだわり、そこに青春のアンソロジーを語ろうとしている、古くて、臭い青春小説を読まされているようで好きにはなれなかった。

 生きる上での息苦しさとそれに耐えられずに自死してしまう同世代の人間や自死しないまでも心を痛めてしまった人間たち。自分の生きたその時代をリアルに描く小説や映画は、本来、好きではない。

 この程度の経験は、オレたちの時代、まともに生きた人間なら、多かれ少なかれ体験していることだ。

 興味は、それを映画としてどう対象化し、ベタな懐古趣味的な青春映画からどれだけ自由で、映画芸術としてどう視覚化しているかくらいだった。

 おそらく、日本人監督だったら、ここまで、冷めた目で作品を映像化することはできなかったのではないかと思う。

 そして、ここまで視覚的に高いレベルまで昇華することもできなかっただろう。

 学生運動とその敗北という時代の空気感の中で、自分がこの先どう生きていけばいいのかの指針を失った若者たち。それを、このベトナム出身で、フランス在住の監督は、実にひややかにフィルムに収めている。

 ロケハンに相当費やしただろうと予想される無国籍的な背景。徹底して微細にこだわった当時の生活用品、電化製品、衣裳…。しかし、それもどこかモダニズムを含み、決して、懐古的にはなっていない。まさに、どこかフランスのアパルトマン、フラットを思わせる屋内風景になっている。

 それが、返って、小津安二郎の世界を浮き立たせ、俳優の台詞にも余剰な感情をこめさせない演出が生きている。

 小津安二郎への傾倒ぶりが全編にあふれているが、そういう監督だからこそ、この作品を見事に映画化できているともいえるのだ。作品や俳優への冷めた目、どこかで、この物語に登場する人間たちを突き放している冷やかさ。それは、すべて小津演出の手法がこたらし、それが成功している。

 欠点になるだろう情緒性を抑えて、それを映画の利点に変えている。

 それこそ、ジョン・レノンが、当時のビートルズが、「Norwegian Wood」という曲に込めたかった、本来の世界。



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   『CATERPILLAR』

 

 
  少し前の話だが、今月14日から公開される若松孝二監督の最新映画『CATERPILLAR』が、ベルリン国際映画祭で、銀熊賞主演女優賞を受賞した。
 
 受賞したのは、主演の寺島しのぶ。
 
 プロデューサーでもある荒戸源次郎がメガホンをとった『赤目四十八瀧心中未遂』(2003年公開)で日本アカデミー賞主演女優賞を受賞した。当時、市川染五郎との交際が破綻し、何かがふっきれたのかと話題になったほど、尾上菊五郎の娘とは思えない、全裸で身体を張った演技が注目を集めた。
 
 外見の容姿や若さだけでスクリーンに登場する昨今の女優と違い、オレたちの世界で、俗に「汚れ役」という苛酷な演技を求められる役に、真っ向から挑む貴重な女優だと思う。
 
 器用ではない。俗にいう、うまい役者とも違う。だが、情念を演じさせたら、おそらく日本でも屈指の女優だ。
 
 情念を演じるのが断トツだったのは、いまでも自殺なのか、事故なのか判然としないが、酔って下田の海に落ちて亡くなった、太地喜和子。実は、その太地に誘われて、寺島は文学座に4年いた。
 
 情念を形にする点は同じとはいえ、太地は師匠の杉村春子同様、うまさがあった。最近は穏やかな役が多いが、自由劇場から登場した、余貴美子もそうだ。
 
 寺島しのぶの演技は、それ自体、太地や杉村のようなぞくっとする女の色気がない。あからさまな女の色気を見せないで、情念を演じる。そこが寺島しのぶが、器用でないにもかかわらず、見る者の心を惹く独特の魅力だと思う。
 
 一見、どこにでもいそうな女性。そこにある秘めた情念を出すのがうまい。それは歌舞伎の血のなせる技かもしれないと思うときがある。
 
 今回も四肢を戦争で奪われ、顔にケロイドを負った帰還兵の夫とのセックスシーンが度々登場するが、女の色気があらかさまでないがゆえに、どきりとする。
 
 つまりは、女の情念をだれにでもあり得る姿として、有無をいわさず見せる。実にシンプルで、かつリアルなのだ。
 
 それは、世阿弥の「見えざるが花なり」「秘すれば花、秘さざれば花ならず」を感じさせる。全裸や濃密なラブシーンを見せながら、余剰な生理をそこに持ち込まない。見せながら、見せていない。それによって、映画が本来描こうとする世界を決して損なわない。そこが凄い。
 
 寺島しのぶは、歌舞伎の名家の出身でありながら、赤目もそうだが、今回の作品も、低予算で、映画人の思いだけでつくる作品に、台本に惹かれて出演している。今回の撮影はスタッフわずか14人。撮影期間わずか12日。若松監督作品だから、そうだといえば、そうだが、劇場公開映画としては、低予算のマイナー系の制作だ。
 
 映画学科や映画学校の学生たちが制作する映画にも主演している。その姿勢は仕事を越えている。
 
 ここで映画の内容は詳しく述べないが、かつて、アメリカンニューシネマの時代に制作され、1971年に公開された『ジョニーは戦場へ行った』(監督ドルトン・トランポ 主演ティモシー・ボトムズ)と共通の反戦映画。
 
 銃後の妻として、夫に仕えるのが当然という時代。帰還兵は、戦争で負傷し、四肢を失い、顔も崩れ、ただ食べて、寝て、セックスをするだけの身体なりながら、世間からは「軍神」と祀り上げられる。家族は妻が面倒を見るのは当然としながら、家の奥に押し込めれて、妻と二人だけのただ生きるだけの日々。
 
 その帰還兵の苦しみとその妻の内面の苦悩と葛藤を描いている。
 
低予算でも、これだけの日本映画がつくれると、日本映画界が世界に誇れる作品。
 
戦争の悲惨と現実をこうした描き方をした作品は、かつて日本映画にない。戦争体験者でもある、高齢の若松監督の情熱と願い、そして、いまこの映画をつくろうとした思いに脱帽する。
 
 同じく反戦をテーマとした、ある作品を制作したいというオレには、励みになる。

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       『告白』

     

 東宝シネコンで、全国公開される映画としては、ありえない内容の作品。大手映画会社からすれば、それほどの冒険的な取り組みだ。
 実現できたのは、『電車男』『陰日向に咲く』『デトロイト・メタル・シティ』などを手掛けてきた、企画の異才川村元気プロデューサーの力。まだ弱冠31歳。東宝は、やはり、時代の空気が読める、逸材がいるし、そうした才能に仕事をさせる空気がつくられている。当初は反対もあったが、社長の一声が実現の扉を開いた。
 原作は、第6回本屋大賞を受賞した、湊かなえの同名の小説。週刊文春08年ミステリーベスト10で第1位を受賞した。

 娘を教え子に殺された女性教師が、自ら手をくだすことなく、中学生の生徒に復讐する物語。少年法の14歳以下は罰せずの条項がひとつの大きなテーマにもなっている。
 いじめ、壊れた家庭、親子の解離、教師と生徒の、生徒同士のコミュニケーション不全のいまを、逆手にとって、巧妙に復讐の手立にしていく。そして、それ自体がいま、我々の社会が置かれている、他者と結び合えない世界の現実を突きつける。
 一番のキーワードは、言葉の持つ意味や価値の崩壊だ。
 言葉がつくる、おざなりの感動やお決まりの正義が、実は現実社会においては何も意味をなさず、人の心を動かす要因のかけらも持ち合わせていない。
 嘘をつかなければ、成立しない他者との関係性。それを一番よく知っているのは、実は、子どもたちだ。オトナが求める、言葉だけの世界。いじめはいけないといわれれば、教室にいる子どもたちのすべてが、「はーい」と手を上げる。
 人を傷つけてはいけない、男女差別はいけない、思いやりを持って人とふれあわなくてはいけない…。そういわれれば、オトナたちも「はーい」と手を上げる。
 しかし、その実、生活の中で道徳や倫理を生きられているものは幾人いるのか。仮にいたとして、そこで語られる道徳や倫理にどれほどの重みがあるのか。
 刑事犯罪を冒した人間が、真に更正するとはどういうことを更正というのか。
 かつて、私が「生きる力を育む教育シンポ」の中で、社会学者の宮台真司やジャーナリストの藤井誠二らと議論としたテーマがそこにはあった。

 監督は、オレとほぼ同年代の中島哲也。『下妻物語』『嫌われ松子の一生』でメジャーになった監督。もとはCM出身。この作品にも、CM出身の監督らしいカメラアングル、カット割りが随所にある。それが、どこかマイナーな映像空間を生み出し、題材の深刻さと同調している。今回の作品は、どちらかといえば、舞台に近い。カットも長い。シーンも実に限られている。おそらく、松たか子という女優の生理を最大に生かしたいという思いが強かったのだろう。それに、松もよく応えている。舞台女優としての真骨頂が生きている。

 東宝の社長は、こうした映画はつくらなくてはいけないのではないか…と、川村プロデューサーの背中を押したらしいが、昨今の映画にはない、硬質な作品。目をそむけたくなるようなシーンもある中で、あえて、この映画をいろいろな試練の中で実現した、熱意に敬服。キネマ旬報で、宮台真司は表現意志という視点から、中島監督のCMの俳句的世界について縷々述べている。だが、いまの映画人の多くがどれだけそれを理解できるものか…。もっと直裁的評論でないと、映画業界にそれは届かないかもしれない。
 映画の未来は、実は、映画業界そのものの改革からしか始まらない。

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    維新派東京公演『ろじ式』

     

 ずいぶん以前に、社会学者の宮台真司氏に強く観劇を薦められていた。関西を拠点に、野外劇を中心に公演活動をする維新派の舞台。宮台氏の話から、実は、舞台の大方の予想はついていた。それほどに宮台氏の指摘は的確だったし、このHPに掲載している私の俳優論「花塾」を読んでくれていてることも、互いの舞台イメージをすり合わせるのに都合がよかったと思う。
 世阿弥の能楽のように、身体性に依拠し、演劇でなければ表現できない舞台の表現にこだわりを持ち、そこに共感の抱ける人間には、それほどに合致点を見出すのが容易な舞台。
 関西を拠点として活動するだけあって、舞台には、大阪下町の地歌や子どもたちの言葉遊びがふんだんに使われている。舞台の構成も、作・演出の松本雄吉の幼い頃からの心象風景を、そのモチーフにし、子どもの無知さゆえの残虐性や淫靡さも挟みながら、いまは亡き、寺山修司の映画や舞台を思わせる詩的空間をつくっている。
 舞台初日に顔を出したのだが、ちょうど演劇評論家の大笹吉雄氏が来ていて、東宝演劇で面識があるのと、恩師藤木宏幸先生のお別れする会で再会してこともあり、かつ、大学の先輩ということでもありで、舞台終了後、久しぶりにお話をする。
 大阪の公演も東京での公演にも足を運び、維新派の舞台を見続けているから、私にはいいレクチャーになった。これまでは、どうやらある程度、ストリー性にもこだわりがあったらしい。しかし、最近は、舞台演出が洗練され、コテコテ大阪のノリがいい意味で、普遍的な広がりを持つように変ってきているという話をいただく。
 踊り、所作、謳い、身体の音といった、視覚表現と音にこだわりながら、その身体所作の基本にあるのは、能楽や歌舞伎の伝統芸が持つ、日本的身体所作だ。それを追求し、徹底していけば、ストリー性からは解離し、詩的時空の創造へと昇華せさるえない。それは、かつて早稲田小劇場が別役実という天才劇作家を生みながら、演出家鈴木忠志が、戯曲の言葉でなく、俳優の身体表現に創造の根拠を持とうとする中で、別役と袂を分かつしかなかった例と類似している。
 ただ、気になったのは一つ。群舞、群集劇を表現の柱としている分、役者個々の身体性や演技の根拠はどこにあるのかということだ。
 幾人か、目にとまる俳優の身体所作があった。その俳優でなければ、かもし出しえないであろう身体性だ。しかし、それが他の俳優から抜きん出ているという意図や演出がない。あくまで、群舞、群集劇の一人の身体としてしか、存在させられていない。そういう舞台だといってしまえば、それまでだが、俳優の身体性にこだわるなら、個々の俳優の身体性、身体性に刷り込まれた生活の歴史が作品とからみあってもよかったではないかと、最後まで疑問が残った。
 なぜ、ここに登場しているのか。なぜ、そうした役回りや身体所作でなければならないのか。その根拠が判然としない。また、違う舞台、表現においては、そうした意図や工夫はあるのかもしれないが、もう一つ、俳優個々の身体へのこだわりが見られれば、よりおもしろかっただろうと贅沢な気持ちを持った。
 それほどに、昨今の舞台にはない、芸術性の高い舞台。


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 『ヴィヨンの妻 -桜桃とたんぽぽ-』


    

 太宰治の原作の映画化。生誕100年を記念して制作された作品。太宰の原作とはいっても、自殺未遂事件を起こした晩年の作品で、ほとんど自叙伝に近い。
 監督の根岸吉太郎は、この作品でモントリオール映画祭最優秀監督賞を受賞。確かに、戦後まもない頃の生活感や時代の空気を丁寧に描き、俳優の演技や語り口の演出にも、きちんとした時代考証の跡が伺える。かっちりと描いた力量は絵に出ている。
 しかし、フィルムのトーン、セットや道具の触感やタッチ。そこには、今回、脚本家として参加している田中陽造の美術監督としてのセンスが強く反映していると見えるのは、私だけだろうか。
 田中陽造は、外国映画の世界でも活躍する著名な美術監督。武蔵野美術大学油絵科の出身で、その美的センスと映画作品を時代性を含め、具象化し、そこに現実感を漂わせることにおいては、右に出るものもないほど、日本を代表する作家だ。
 フジテレビの映画事業部が制作を行いながら、そこにテレビ的なにおいがまったくしないのも、監督を始め、田中陽造など、映画業界できちんと仕事をしてきた、優秀なスタッフの力があってのこと。
 それが、太宰の描く、男女の情念と、太宰的破綻者の人間像を丹念に描いてみせている。
 終幕のシナリオと監督の演出、そして、浅野忠信、松たか子の芝居がいい。ふっと、ふれあって終わるという、刹那が、太宰の作品を映画化する上で、この上なく、太宰を描いている。
 自殺未遂の相手役をやった、広末涼子が出演者の中で群を抜いていた。出演場面は、そうないが、存在感がある。これまでの広末が演じてきた役から卒業し、女優としての地場をつくった作品だといえる。

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      『愛を読むひと』
        The Reader

      


 ドイツの作家で、フンボルト大学法学部教授ベルンハルト・シュリンクの小説の映画化。
 主演は、この作品でアカデミー賞主演女優賞を受賞した、ケイト・ウィンスレット。文盲の中年の女性のコンプレックス、怯えとナチ収容所のホロコーストにかかわった、気丈な女性看守という難しい屈折した心情を見事に演じている。
 相手役の少年は、ドイツ映画界の新進俳優、デヴィット・クロス。中年になった少年役を『シンドラーのリスト』『イングリッシュ・ペイシェント』でアカデミー賞にノミネートされた、レイフ・ファインズが演じている。
 監督は、『リトル・ダンサー』『めぐりあう時間たち』など地味ながら、内容の深い作品をうら悲しい色調で描くのがうまい、スティーヴン・ダルトリー。脚本はデヴィット・ヘア。
 舞台は第二次世界大戦終了から10年以上も経った、西ドイツが舞台。路面電車の車掌をしながら、ひっそりと一人暮しをする女性と、まだ高校生の少年との禁忌であるがゆえの、肉欲に溺れる関係という、ドラマは、いわばチープに始まる。
 しかし、そのチープな設定がいい。互いのことも深く知らない関係で、性に目覚めた少年が成熟した女の体に夢中になるのはわかるが、女性の方はどうして若い少年の肉体に溺れるのか。しかも、少年が二人の関係をもっと深い物にしたいと望み始めると、それを交わすように、学校で勉強している本を読んで聴かせるよう要求する。やがて、セックスの前の勤めのように、少年は彼女に朗読をするようになる。
 チープな設定の中に、この「朗読」が登場するところから、この映画がどうして、青い性というチープな設定から始まったのかが、絵解きのように浮び上がってくるのだ。
 原作の力だろうが、脚本がいい。
 この映画は、文字を知らない、読めない人、つまり、文盲の人の悲劇を描いたドラマ。
 「識字教室」という言葉を知らない昨今の日本人には、理解ができない映画かもしれない。
 ケイト演じるところの女性は、文盲ゆえにまともな恋愛もしたことがない。深く他者と関われば、自分が文盲だということが露見するからだ。仕事でも、事務職をさけ、肉体労働に身を置き続けてきた。そして、孤独に、ひっそりと一人、生きてきたのだ。
 自分が文盲であることを隠すために、年下の少年を性の対象とする。イニシアティブを自分がとれるからだ。二人の体験を豊かにすれば、自分が文盲であることが露見する。
 貧しさと生活苦の中で、悲惨な生活を送る彼女が、辛くも自尊感情を保つために、見つけ出した異性との関係。
 そのせつない設定の中で、アウシュビッツの元看守だった彼女の過去が露見されていく。
 人権の意味、人権とは、何なのかを痛烈に問いかけている作品。いま日本に広がる、きれい事の正義、人の痛みに届かない、ご都合主義の正義では、捉えることも、救うこともない、人権の姿が、ここにはしっかり描かれている。
 ケイトの演技は、それを相当、勉強しただろうなと直感させる。理屈でなく、生理で演じている。それだけに、説得力がある。
 日本映画は、いつこの骨太さ、人間への愛と不条理とを丹念に描く作品を世界に問うことができるのか。そう振り返らせる。あまりの秀逸な作品



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    『「文学」の精神分析』

         


 斎藤環が『社会的ひきこもり』で登場したとき、誰もがこれほどの卓越した文体を持っているとは予想しなかったに違いない。だが、まだ評論に手を染めず、ひきこもりや思春期問題の専門家と言われ始めたばかりの斎藤環と船橋の佐々木病院の一室で出会ったとき、私は、その無表情の奥にある、只ならぬ才能を感じていた。それは、まだ、朝生で激論を飛ばしていた宮台真司と初めて東急文化村のカフェで打ち合わせをしたときと同じような感触だった。

 当然ながら、ラカンを始め、精神医学・心理学に関する知識はもとより、哲学から文学、そして、昨今の犯罪まで、その知識の量と情報は、精神科医の領域を遥かに越えている。しかし、斎藤環の凄さは、専門の思春期問題を語るときの文体とこうした評論文を語るときの文体が明らかに異なることだ。伝えるべき対象に応じて、その文体を変えられ、かつ意味性を伝えることに執着していない。

 それは、言い換えれば、斎藤環の文体は、自由さに満ちてはいるものの、恣意性がかけらも見られないということだ。でいながら、論理の帰結として、見事に日本近代を批評し、ある意味、糾弾している。人々の固定観念にある蓋然性を否定し、思考の自由さを確保しようという新鮮な熱意に満ちている。それは、思春期問題を語るときも、書評を語るときも同じなのだ。

 表向き直裁にそう感じさせない、アイロニカルといってもいい、斎藤環のこの姿勢と体質は、斎藤環が東北の出身であることと無縁でないような気がしている。

 都市という中心点から、意図して、身体を遠くに置くことで、都市言語の持つ、意味性や表象を遠ざけ、記号化される言葉ではなく、文脈によって意味性を伝えようとしているように思えるからだ。意味ではなく、状況を語る。その資質は明らかに、言葉の勢いで他者をねじふせる西日本の文化ではない。

 勁草書房WEB上での斎藤環の茂木健一郎への書簡形式の批評を読んでも、いまをときめく、都市的な茂木と斎藤との隔絶した違いが明確に浮き出ている。恣意的に時代性や話題性を取り込み、読者や視聴者と同化することで受けをねらい、同じ立ち居地にあることにこだわりを持ち続ける茂木と時代性や話題性に翻弄されることをよしとしない斎藤の違いがそこにあるからだ。

 意味の伝達によって、いわば、文体ではなく、知識言語や情報の羅列によって、何事かを伝えることが、人々を記号世界へ導くだけで、本来、伝えようとする意味の定着に結び付かないことを斎藤環は、東北という風土と臨床医という生業の中で、徹底的に自覚しているのではないだろうか。

 同時に、臨床という場での人との直接的であるがゆえの困難なな関りの中で、都市的言語、威勢のいい言葉や真っ向からの切り口では、何事も伝わらない、いや、そもそも意味そのもの伝達が、意味をなさないことを熟知しているからだと思う。

 以前、頻繁に斎藤環と仕事をしていた頃、斎藤ブームの到来を予感した私は、斎藤環に臨床をやめないと仕事がこなせないのではないかと尋ねたことがある。しかし、斎藤環は、自分のいまを形成している根幹には、臨床の現場の力が多大なのだと、その問いを否定した。そこには、ポーズもケレンもまったくなかった。

 臨床医、精神科医としてでなく、一人の人間として信じるに値する、昨今、稀有な良識ある識者だと強く思い、その言葉に心を打たれた。

 斎藤環は、自身が和歌でいう「本歌取り」の名手であることをよく知っている。それは、精神分析の患者への分析作業と途轍もなく似通っているからだ。その枠の中で、あえて仕事をしようとしている。そこに斎藤環の強さと凄さがある。


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       『ベンジャミン・バトン』
      −数奇な人生−


       
 
 山田太一の小説に『飛ぶ夢をしばらく見ない』(新潮社刊)がある。中年男性の主人公が、骨折で入院した病院で、不思議な魅力を持った女性と出会い、セックスをする。そこから奇妙な現象が主人公を襲うようになり、折々にその女性が現われるのだが、彼女は成熟した女性から中高生、そして、少女へと年齢が若返っていく運命を生きていた…という話。
 二人がどのように深く愛し合おうとも同じ時代、同じ世代を生きることができない。まして、幼女と愛を交わすなど、倫理からしても、法や道徳の観点からも許されることではない。しかし、彼らにとって、年齢は関係なく、成人の男女のように互いを求め、愛し合っているのだ。
 この映画の予告を観たとき、すぐに、山田太一のその小説が頭に浮んだ。
 ケイト・ブランシェットとブラッド・ピットのコンビは、名作『BAVELL』で、二人でなければならないという配役でもなかったにもかかわらず、台本の素晴らしさに共鳴し、夫婦役で共演している。
 監督のデビット・フィンチャーは、やはり名作『セブン』でブラッド・ピットに俳優としての新境地を開かせた人物。日常を真っ向から否定するような虚構の構図の中で、人間の本質、つまり、人間が本来持ち合わせてしまっている強欲さ、邪さ、淫靡さ、妖艶さ、妬み、憎悪、善悪の葛藤を描くことで、人間の真実を炙り出すのがうまい監督。あまり、話題にはならなかったが、ショーン・ペンとマイケル・ダグラスが主演した『ゲーム』は秀逸だった。キャスティングも素晴らしかった。
 今回の作品も、山田太一の小説同様、ありえない様なオトギ話を用いながら、人間が他者と通信し合うことのできない不条理な存在なのだということを前提に描かれている。
 行き違う時間の誤差の中で、一瞬だけ共に生きられる時間があり、だからこそ、人は他者をいとおしく思え、愛することができるのだというテーマは、決して新しいものではないし、昨今の終末期を描いた多数の映画に観られるものと大差ない。
 しかし、それらの作品と決定的に違うのは、感情過多に愛や生の美しさを謳い上げるのではなく、淡々と、老いそのものをみつようとする姿勢。老いは決して、それ自体、美しくはないが、それまでの時間の積み重ねの中にある、美しきものなのだという視点だ。失われるから美しいのではなく、老い、そのものが美しい。たとえ、認知症になったとしても、重ねた時間があるからこそ、それすらもいとおしいのだ。
 それをリアルな夫婦の歴史として描かないことで、人間の真実に迫ろうとしている。
 残念ながら、その試みは成功はしているが、観る者の心を深く抉るほどの秀逸さは逃している。おそらく、主人公、ベンジャミンがあまりに素直な少年(老人)、そして青年として描かれているためではないかと思う。
 老いで生まれ、成長し、成人(青年)となる過程での葛藤や妻子と別れて、孤独に老人(少年)を生きる上での悲嘆が描かれていない。ケイト・ブランシェットの回想という展開にしたことが、その大事な心の葛藤を描けなくさせてしまっている。
 おそらく、今月20日公開のブラッド・ピットの妻、アンジェリーナ・ジョリー主演の『チェンジング』(監督クリント・イーストウッド)の方が見ごたえのある作品かもしれない。



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     『CHE28歳の革命』

         


 アルゼンチンの裕福な家庭に生まれ、名門ブエノスアイレス大学医学部を出て医師となった、エルネスト・ゲバラは、中南米を旅する中で、貧富の差を目の当たりにする。医師という道義性の高い仕事を選んだゲバラにとって、まともな食事もできず、医師にかかることもできない、貧しい農民を搾取し、私腹を肥やす中南米各国の独裁政権は許しがたいものだった。そればかりか、政府に反対する者には、強権を発動し、拷問、監禁、虐殺を繰り返す。ところが、武器供与など、軍事介入によって、独裁政権を支援し、それによって、自国の貿易黒字を生んでいるのは、民主主義を標榜するアメリカなのだ。
 ゲバラは、アメリカのご都合主義によって、中南米の人民が搾取され、疲弊している現実を変革することを考えるようになる。アメリカンスタンダードから脱却し、中南米の自由自治と独立を勝ち取る必要を痛感するのだ。メキシコに亡命していた革命家カストロと出会うことで、ゲバラの夢は現実のものになる。そして、キューバの武力闘争による革命が実現するのだ。
 だが、中南米の解放、世界革命を目指すゲバラは、革命後、キューバに留まらず、コンゴやボリビアの反政府闘争に身を捧げ、ついには、ボリビア政府軍に捕らえれ、処刑されてしまう。
 ゲバラが革命を実現したのが、28歳。そして、世界革命を目指しながら、絶命したのが39歳。この作品は、革命実現の時期を第一部とし、カストロと別れ、世界革命を目指して絶命するまでを第二部とした作品だ。

 上記のような、ゲバラの伝記を描いた作品だが、いま、パレスチナとイスラエルの間で起きている紛争の原因や9.11が起きた要因、そして、アフガンやイラクへのアメリカの軍事行動のあり方を振り返れば、ゲバラの伝記を通して、この映画が伝えようとしているメッセージがよくわかる。
 監督のスティーブン・ソダーバーグは、単にゲバラが好きだから映画化したのだとうそぶいているが、それだけでないことは、これまでの作品経歴を振り返ってもわかる。
 50代、60代の世代で学生運動や政治闘争にかかわったことのある人間なら、その深さの違いはあるにせよ、ゲバラにはいろいろな思いがあるはずだ。
 アメリカンニューシネマの代表作の一つ、コロンビア大学の学生紛争を描いた、『いちご白書』では、ノンポリの青年が次第にベトナム反戦や公民権運動に目覚めていく過程で、ある日、自分のアパートメントの窓からゲバラのプリントされた幕をたらすシーンがある。ゲバラは、それほどに、世界の学生運動とその後の反米運動に大きな影響を与えた。
 カンヌでは、大きな賞賛で迎えられた映画だが、日本人は、この映画の意味するものをどれくらい理解できるのだろうかと客席に座りながら考えてしまった。
 なぜ、ゲバラがあれほど、アメリカの帝国主義(いまならば、一国主義と置き換えられる)を非難したのか。それは、現在のアフガン、イラク戦争と同じなのだ。
 若い世代ばかりではなく、30代、40代の連中でも、いや、50代、60代の世代でも、9.11がなぜ起きたかを理解できている人間はそう多くない。パレスチナ問題がなぜ終焉しないか。アメリカがどうしてイスラエルに気を遣わなければならないのか。そうしたことが理解できるための知識を持たない人間がこの国には多過ぎる。
 この映画が描いているゲバラは伝記的映画ではあるが、現在の世界同時不況、恐慌と言ってもいい原因をつくっているのはアメリカだし、そのアメリカの経済を支えているのは、食物原料、石油(エネルギー)と株(金融)と軍需(ITを含む)なのだ。アメリカはその4つの富を一国主義で自国に集約するために、世界戦略を構築し、展開してきた。その犠牲にされてきたのは、持たざる国の人民、大衆だ。9.11も、アフガンも、そしてイラク戦争もそこから起き、そして、続いている。
 いま、アメリカ発世界同時不況の嵐によって、また、中国やロシア、EUの台頭によって、これまでのアメリカ主義、俗にグローバルスタンダードと言われてきたものの、愚かさ、危険性が強く認識され始めている。世界は、これまでのように、アメリカの傘下の中では生きられなくなり、世界の覇権者はアメリカではなくなろうとしている。
 合衆国新大統領は、その現実を知るからこそ、自ら「チェンジ」を標榜し、世界地図が書き換えられようとする時代に、新たなアメリカのビジョンを描こうとしている。
 そうした世界地図が変わろうとしている瞬間に、この国のダメ首相とダメ自民党議員たちは、危機感もなく、零細商店経営者の会員を多く持つ、創価学会の傀儡政党、公明党の言うまま、景気浮揚には何の効果もなく、国民の8割が反対している、定額給付金をごり押ししようとしている。官公庁、議員の無駄遣いを是正することもなく、11年には消費税アップという閣議決定まで上乗せして、第二次補正予算を通過させようとしているのだ。
 国民を人民を大衆をないがしろにする政権がどうなるのか。国会の世界だけしかしらない議員たちに、そして、寒風の中、明日の生活の見えない失業者が溢れていることに、何の関心もない、企業経営者や富裕層は、この映画を観て、世界の現実を少しは理解する努力をしてみてはいかがなものか。

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     『闇の子供たち』

     

 一時期、欧米、日本の商社マン、ビジネスマンが東南アジア諸国で幼児買春をしている事実がタイの人権擁護団体や日本のNGOから非難され、問題になったことがある。家田荘子のルポルタージュ『ラブジャンキー』でも日本人観光ツアーによる幼児買春の問題が指摘された。

 そして、つい数年前、臓器移植法案に関連して、タイ、フィリピンなどのスラム街で、人間の臓器が売買されているという問題が指摘された。脳死移植ではなく、生体間移植、つまり、生きながら臓器を摘出し、提供しているという事実である。臓器移植は、脳死移植の場合でも宗教的な意味合いにおいて問題がある。しかし、それだけではなく、こうした生体間臓器売買に拍車をかけるという点からも先進国側の理屈や医学の発展という美名だけでは語れない側面がある。また、身体を物としてしかとらえられない人間の増大を生み、人間の尊厳が臓器を売買している側だけでなく、被害者側からも失われてしまうという危険もあるのだ。

 こうした幼児買春や臓器売買の背景にあるのは、言うまでもなく、貧困だ。昭和初期の日本で東北の農村の子どもたちが、人買いという仲介業者を通じて売買され、東京など大都市圏へ売春や低賃金労働に従事させられていたように、貧困が深刻で、恒常化してしまうと生活苦から子どもを養って行くことができず、ブローカーに子どもを売り渡すことが生活維持の手段とし定着してしまう。

 あるいは、ストリートチルドレン化し、マンホールの下で生活するようなその日暮らしの子どもたちを増大させてしまう。タイ、フィリピン、北朝鮮などではよく知られたことだが、貧富の格差が進むモンゴルではいまこれが大きな問題になっている。親が子どもを捨てる場合もあるが、子ども自らが子どもだけの集団に吸収されて行くということも起きている。親の生活苦を子どもは知っているのだ。

 作品のテーマの重要性、社会性の高さからか、こうしたマイナー映画ではなかなか登場しないような豪華キャストで出演者は固められている。監督が骨太の阪本順治監督だったということもあるだろうが、出演を決意した佐藤浩市を始め、江口洋介や宮アあおい、妻夫木聡、鈴木砂羽、豊原功捕などの俳優陣には拍手を送るべきだろう。

 幼児嗜好のフランスやアメリカ、ドイツ人の客が醜悪な姿で描かれ、日本人の嗜好者が幼女にフェラをさせ、それをインターネットの動画に掲示するという場面もある。対岸の火ととられられないように、江口洋介演じる外通部の記者の過去に幼児買春があることなど、真実を追究する側にも性的な問題を抱えさせている。また、正義ばかりを主張する宮アあおい演じるNPO団体に飛び込んだ新人活動家の姿を通して、きれい事の世界だけでは問題を解決はできないのだと警鐘も鳴らしている。社会派の阪本監督らしい作品で、おそらく、巷で言われているように代表作といっていい秀作だ。

 しかし、あまりに図式的過ぎるのが最後まで気になった。東南アジア諸国の幼児虐待の現実を日本の未知な観客に、的確に理解してもらうことも意図したのだろうが、際どい性描写や性用語が観客の胸を抉るように描かれていても、そうした構図を産んでいる人間の心が直面している矛盾が描き切れていない。描こうとしている意図はあるし、そうした場面もあるが、どこか、ベトナム戦争の悲惨を描いたアメリカ映画のような匂いがする。

 これは、あくまでこちらの欲だ。こうした映画を撮りきったこと自体、そして、上映まで実現したその力は、いまの日本映画界には稀有のものだろう。

 今年に入り、役者のネームバリューや資本にものを言わせた映画ではなく、こうした硬質な映画らしい映画が少しずつ日本映画に登場して来ているような気がする。『20世紀少年』は、エンターテイメント作品の粋を出ていないが、本来、そこに描かれているのは、革命思想だ。「秋葉原無差別殺傷事件」や「酒鬼薔薇事件」とそう遠くないところにある。
どれだけ、観客がそれを理解しているかは別にして、大衆が感じ、求めているものが少しずつ変わっている。それに気づけないのは、誰なのか。政治家も教育者もマスコミも、わが身を振り返るべき時期が来ている。



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          『決壊』


       


 出版時期に「秋葉原無差別殺傷事件」が起きたことから、作品のモチーフになっている連続無差別殺人事件との関連が取りざたされ、いま、話題を呼んでいる小説。

 老人性うつ病や介護の問題を抱えた家族の姿。インターネットの掲示板でしか会話ができない倦怠期に入った夫婦の軋轢と互いの孤独。中学生の性の問題とそこから生まれるいじめ。いじめを契機として、孤独な殺人者を目指す少年。他者を本気で愛することができず、生きていることへの実感を喪失してしまっている主人公…。その隙間を縫うようにして、インターネットを通じて、無差別テロを扇動する男。いじめ被害の中学生の犯行によって、バラバラに存在していた、それぞれの無呼吸状態の生が歪に結び付く。

 今日の私たち社会が抱える病巣を的確に把握しながら、私たちが生の実体だと信じている日常がいかに希薄で、頼りないものかを鮮烈に描いている。どこか、あの名作映画『バベル』をも彷彿とさせる構成になっている。

 98年から4年間、宮台真司、斎藤環、尾木直樹各氏の賛同と協力を得て、「OUT」というサイトを運営していたことは、折りにふれ、述べているが、当時、そこによく立ち寄っていた、京大法学部の学生がいたのを記憶している。この新作著書を読むと、あのときの京大生が平野啓一郎だったのではないかと思えて仕方がない。

 非常に硬質で、難関な評論を掲載していたサイトだったが、そのコメントに実に的確に反応したレスが返って来ていた。本人に投稿を呼びかけたこともあった。私が、いま、その彼が平野ではなかったかと思うのには、いくつか理由がある。

 その京大生自身、ひきこもり体験者であったこと。
 私や宮台が「酒鬼薔薇事件」を、一人の少年の屈折した心情による、猟奇的な犯行に過ぎないという見方をせず、当事者も無意識のうちに、犯行自体が社会テロであると考えていたこと。そして、こうした犯罪が今後、頻発し、同じように当事者の意思に関わらず、社会テロとして確立してしまうだろうと予測していたことなどである。

 また、そうしたテロの源流に、2・26事件や三島の割腹事件を位置づけることもできると考えていた。汚濁した社会の変革に、いまや古色蒼然としたイデオロギー闘争は意味をなさず、日常の延長に殺人という行為が何の抵抗もなく存在することにこそ、社会変革の道筋があるのかもしれない。それは決して、賞賛することでも、認められることでもないが、そうした社会に私たちは直面しているという現実を、まずは認識しなくてはならない。

 こうした考え方に平野の作品は完璧にリンクしていると思えてならないのだ。一時、このサイトのNOVELのコーナーに掲載していた、未発表原稿の一部は、実は無差別同時テロが全国一斉に起きるという内容のものだった。小説として完成させるためにいま削除して、まとめているが、その私の視点とも平野の作品は一致している。

 奇妙な偶然に過ぎないのかもしれないが、いまの社会、時代の本質をゆるぎなく捉えている姿に強い共感を覚える。

 秋には、「酒鬼薔薇」や「アキバ」の事件を抑止するために、何が必要かを生活者レベルでまとめた実用本を出版するが、その次に予定している映画、小説の制作に勇気を与えてくれる書籍である。


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『告発のとき』

     
IN THE VALLY ELAH

      

 作品のモチーフになっているのは、実際にプレイボーイ誌に掲載された実録の事件。「Death and Dishonor」という題名でマーク・ポールが書いた記事である。

 イラク帰還後まもなく、若い兵士が失踪し、焼死体で発見され、父親自身が真相を究明し、3小隊の戦闘員が殺人罪で告発された事件。戦友同士による虐殺事件だったのだ。事件が起きたのは2003年、イラク戦争が泥沼へ向かい始めた時期だった。

 『クラッシュ』でアカデミー監督賞を受賞した、社会派監督のポール・ハギスが4年の歳月をかけて映画化に漕ぎ着けた。アメリカのイラク戦争の過ちを直接的ではないか、実に映画的に批評しているこの作品は一時暗礁に乗り上げたらしい。それを救ったのは、クリント・イースト・ウッド。『ミリオンダラー・ベビー』以来の交流が実を結んだ。

 以前、宮台真司と雑談で、「いい映画や小説には逸話が盛り込まれている」と語り合ったことがある。この作品は、旧約聖書のエラの谷の闘いで活躍した、少年、ダビデの話が重要なメッセージになっている。

 一人で、巨漢のゴリアテに5つの石ころとパチンコで立ち向かい、これを倒した少年、ダビデの心情に脚本・監督のハギスが自分なりの解釈を加え、イラクへ送られ、戦争体験のほとんどない若い兵士たちが直面した、戦争の理不尽さと恐怖、さらには、その恐怖心から捕虜への虐待、理由なき市民の殺傷といった非人道行為を恐怖の発散として楽しみながらやってしまう戦場の異常さを描いている。

 戦争によって壊れてしまった人格が、容易に人を殺し、罪の意識はあっても、人を殺すという行為そのものを自分でも止めることができない。改めて言うまでもないことだが、戦場を生きるということは、社会適応能力を意図的に消し去り、生きるために他者を殺すことを日常の感覚に変えることだ。

 しかし、戦争の悲惨だけでなく、より大きな問題なのは、こうした戦場へ子どもを送り、イラクで起きている現実を直視しない国や社会のあり方だ。

 9.11の後のアフガン空爆後だった。イラク戦争前にアメリカに取材にいったとき、愛国心を鼓舞する星条旗がマンハッタンの至るところで風に揺れていた。しかし、熱狂的にイラク戦争への賛同がある中、9.11遺族会やドネーションの市民新聞、ラジオ放送局でイラク戦争に反対する人々の良識ある声を聴いた。

 それは、風にはためく星条旗の凄さを私に焼き付けた。治世者や政治家、市民が何かに取り憑かれたように、戦争の大合唱をする中に、それにきちんと反対する市民の声が大きな勢力としてあるというアメリカの民主主義の凄さを感じたのだ。

 映画では冒頭に星条旗を掲揚する作業員を手伝うトミー・リー・ジョーンズの姿が描かれる。「国旗を逆さまに掲揚するときのことを知っているか?」。彼は、作業員にそう問いかける。答えを知らない作業員に「それは国が破れ、助けを呼ぶときだ」。

 ラストでは、犯罪の事実が解明し、やり切れない思いを抱えた主人公の父は、再び国旗を掲揚する。もちろん、逆さまになった国旗だ。そして、それを固定し、「このままでいい」と国旗を降ろさなくてもよいと作業員に告げる。

 ハギスのネタはあまりに透けて見えてしまうのだが、そうした脆弱さはあっても、ふと、私たち日本の国旗もいま、逆さまに掲揚するときが来ているのだと心を抉る。

 こんな国のために命をかけたのか。こんな国のためになぜ人は命を奪われなければならないのか。愛すべき自分たちの国は、どこにあるのか。そういう問いが湧き上がる。



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      『光州5・18』


       

 
日本の60年代後半から70年代初頭に亙る、学生運動、いわゆる安保闘争をを知る日本の若い世代は少ない。また、内ゲバ、赤軍派事件、その後の東京国際空港建設反対闘争、俗に三里塚闘争といわれるものの実体を語れる人間も少なくなている。

 韓国で起きた光州事件は、こうした日本の学生運動、市民運動が次第に骨抜きにされ、沈静化し、社会がこれまで経験したことのない、成熟した消費へと向かう最中に起きた。

 当時、左翼闘争や学生運動をやっている人間、一部先鋭的なジャーナリズムはかなり的確に光州で起きた軍による弾圧、市民に対する無差別殺傷事件を伝えていたが、日本人の多くは韓国でも日本と同じような学生を中心とする反政府運動が起きているくらいにしか捉えられていなかったと思う。

 空挺鎮圧部隊の若い兵士たちにオモチャのように嬲り殺される市民の姿は陰惨で、悲痛で、憤然とした感情を沸きあがらせる。が、実際にはもっとひどい、人間とは思えない暴挙がまかり通っていた。実際には、妊婦の腹を割き、未熟児の赤ん坊を軍刀で串刺しにするといったことまでやっていたのだ。

 光州のある全羅道は、もともと韓国国内にあって、深刻な地域差別を歴史的に受けて来た場所だ。儒教思想と陰陽道思想が強い韓国では、方位として反逆者を生む土地と侮蔑され、この事件が起きる前の朴政権は、意図して全羅道の地域や人々への冷遇や差別を徹底して行っていた。

 いわば、光州事件は長い歴史の中で、同じ韓国人でありながら、中央政権に差別、侮辱されて来た人々の解放闘争という側面もあったのだ。敗北する確率の高い市民軍を結成し、命を賭してもこの闘いを貫徹しようとした背景には、韓国の差別、反政府勢力に対する完膚なきまでの冷徹な対応がある。

 同じ韓国国民でありながら、共に国歌を愛する同士でありながら、上層部の命令に、どうしてあそこまで若い兵士たちが残忍になれるのかは、刷り込まれた憎悪にも近い差別意識があったのだ。

 憎悪を憎悪で贖うという陰惨な事件だが、自由と自治のために人が立ち上がること。制度や権力の枠組みを越えて、真の自由を求めるということがどういうことなのか。2000人以上の市民の命が奪われたと言われている光州事件は、そのことをあえて、痛烈に提示している。

 いまから30年近く前の出来事でありながら、いま私たちの地球上でリアルタイムで起きている自由と自治の迫害、弾圧。ミャンマー、チベット、アフリカ諸国…。そのほとんどに光州事件と同じように、軍事政権や超権力を支持する大国のエゴ、都合が見える。

 国家という枠組みがどんどん希薄となり、国家権力の基盤が脆弱になればなるほど、市民が発露する自由と自治への弾圧は形を変え、姿を変え、やり方を変え、続くだろう。
 
 年間3万人以上の自殺者を生み、若年労働者の半数以上が不定期雇用で、生活保護世帯より低い年収で生活する国。自己負担、自己責任という名のもとに、未熟な政治の付けを高齢者に押し付ける国。人々の人権と自由、未来への希望を奪う国は、果たして、この映画が描く、思想、信条、生きる権利を奪う理不尽な弾圧とどこが違うのだろう。


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『相棒』

        


 
2004年10月、福岡県直方市出身の香田証生さんがイラクで反米組織の人質となり、日本政府に助けを求める映像が流された、あの事件を記憶している日本人は、どれくらいいるだろう。アルジャジーラに送りつけられた映像の中で、実行犯は、自衛隊の即時撤退などいくつかの要求を日本政府に突きつけたが、政府はこれを無視。結果、香田さんはカメラの前で斬首された。

 その半年前には、イラクで戦災孤児の救援活動を行っていた高遠菜穂子さん日本人3人がムジャヒディン旅団に拉致された。幸い、このときは、3人全員が無事救出されたが、このときも小泉政権は全くの無策で、実際に救援活動に動き、人質を解放するように説得したのはWCRP(世界宗教者平和会議)の中東コネクションだった。

 香田さんのケースと高遠さんらのケースではいささか事情は違うが、いずれのケースでも沸き上がったのは、「そんな危険地域に立ち入るなんて、無謀」「危機感のない若者の暴走」云々。そして、時の政府は、そうした国民感情を巧みに利用し、「自己責任」という名のもとに、責任逃れに終始した。

 実際、高遠さんのときも、香田さんのときも、彼らを誹謗中傷する電話や手紙が多数実家に送り付けられ、マスコミも大衆に迎合して、紛争地域に立ち入った彼らをパッシングし続けた。あたかも、彼らを見捨て、命を奪われても、日本及び日本人の誰にも罪はないことを声高に叫ぶように。

 だが、そもそも、憲法に明らかに違反するイラクへの自衛隊派兵などという暴挙を国連安保理の採決も無視し、閣議決定のみによって行った日本政府にこそ問題があったのだ。オランダ兵に守られて後方支援活動を行うなど欧米各国にすれば、実はいい迷惑だったにもかかわらず、ブッシュ政権の顔色を伺い、国際世論の大勢でもないイラク派兵を行った日本政府には明らかに拉致、殺害事件について多くの責任がある。

 しかし、香田さんの死後、いくつかの書籍は出されているものの、この問題を考える契機を論壇もマスコミもきちんと提示して来なかった。

 評論のコーナーの『心情と正義のパラドック』や映画『靖国』への一部自民党議員のおバカな言論弾圧について述べたときにも触れているが、自分たちだけの価値観に固執し、他を排除する狭窄した視野や何か間違いがあれば、完膚なきまでに徹底して叩きのめすという偏狭な体質は、いま、この国に蔓延している。

 公開前、銀座の東映本社の試写室でこの映画を観たとき、私は、この映画が、いまの私たち日本、及び日本人に蔓延しているこの心情を痛烈に批評し、かつ、エンターテイメントとして完成度の高い映画に仕上げていることに眼を見張った。

 フジテレビ系の『踊る大走査線』が、一部社会問題や警察の権力機構の問題を取り上げながらも、意図してオチャラケに終焉させようとしている技法とは似ているようで、全く非なる、この映画の強いメッセージ性に胸を打たれたのだ。

 映画でなければ、エンターテイメントでなければできない、政治の際どいテーマを毅然と描こうとしている制作サイドの姿勢は、近年の日本映画にはないものだった。

 東宝にも、松竹にもできない、この危険な綱渡りをやるところに、東映の東映たるゆえんとアイデンティティがある。もちろん、TVで高い視聴率を取っているという実績ゆえに許されたチャレンジではあったと思うが、この作品は『踊る』を明らかに越えている。

 テレビの映画化ではない。
 映画らしい映画。秀逸な本編作品である。


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『明日への遺言』


        


  
戦犯裁判を題材とした作品は、『東京裁判』を含め、いくつか映画化されている。しかし、その多くは、戦争犯罪者の擁護、あるいは、戦勝国の理屈だけで敗戦国を裁くことの非合法性を訴えるものが大半だった。

 しかし、この作品は、原作者が大岡昇平の『ながい旅』であることからもわかるように、決して連合国軍による不当裁判を糾弾するといった短絡的な内容にはなっていない。また、単純に国粋主義的愛国心を鼓舞するような浅薄な内容にもなっていない。

 大岡昇平は、飢えから人肉を喰らうという『野火』など自身の戦争体験を小説化した作品で著名だが、戦争という非日常が引き起こす不条理性を丹念に描いて来た作家で、それはその後の名作『事件』などにも反映されている。重厚な原作のスタンス、奥深さ、深い人間洞察へのしっかりした認識が持てていなければ描けない作品が多い。

 この作品に描かれている場面の大半が横浜地方裁判所での検察、弁護人、そして、B級戦犯で告発された岡田中将など幾人かの証言者。会話劇である。その中で、岡田中将は、米軍による主要都市への無差別爆撃、広島・長崎への原爆投下がジュネーブ協定に反するものではないかという主張を貫き、同時に、自身ひとりの判断によって撃墜されたB29から脱出した米軍兵士を斬首したのだと部下の免罪を訴える。

 弁護士はもちろん、裁判官も検察官も、この岡田中将の姿勢。穏やかな口調の中にも、信念を持つ確たる姿勢に強い感銘を受ける。

 法廷劇で、かつ一般的にはわかりにくい国際法の解釈を巡る議論は、これまでの例で言っても、観る者を疲れさせるものだが、この映画は、過剰な情感や状況説明を意図して排除し、あえて、裁判の場面に視聴者を立ち合わせることで、その壁を乗り越えようとしているのだ。

 プロデューサー、監督に自分たちは何を描き、何を伝えようとしているのかの骨太の意志、決意のようなものがなければ成立しなかったであろう手法。

 藤田まことというキャスティングは秀逸だったし、スケールや笑いがなくとも、いやだからこそ、映画が映画足りえるのだということを実感させてくれる作品に仕上がっている。

 今期東映の配給作品は、現在公開中の『モンゴル』、5月公開の『相棒』
夏公開の『クライム・ハイ』など良質の作品が多い。



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   『NO COUNTRY FOR OLD MEN』


  

 コーマック・マッカーシーの小説、『血と暴力の国』の映画化。

 コーエン兄弟は、映画化に当たり、表題のタイトルを付けている。日本語タイトルでは「FOR OLD MEN」が省略されているため、バビエル・バンデム演じる殺し屋の
猟奇性を越えた、超暴力と冷血な殺害シーンばかりを連想していた観客は肩透かしを喰わされるだろう。実際、映画終了と同時に、客席からは微かに、どよめきともつかない声が漏れた。

 バビエル・バンデムの神経質だが、感情移入のほとんどない無機質な凄みのある演技に魅了されているとこの映画の本筋の目線を見失う。主観がめまぐるしく変わるコーエン兄弟独特の演出につられて、実はトミー・リー・ジョーンズが主役だということを忘れた人は多いはず。

 同じメキシコ国境沿いを舞台にし、トミー・リー・ジョーンズが主演し、初の監督作品でカンヌ映画祭最優秀監督賞を受賞した、名作『メルキデスアデスの最後の埋葬』に比べたら、その存在感は、本作品の方が確かに影が薄い。台本のせいだけではない。

 これは、現場主義者のコーエン兄弟も撮影や編集段階で相当迷ったか、苦しんだはずなのだ。原作の重要なモチーフであり、かつ大きなテーマの超暴力によって簡単に人の命が奪われるという世界の現実を描くということと、古い西部劇の悪役と保安官というわかりやすい図式の中で、人が人を殺すということの動機や意味が不明となっている現実社会の図式との大きなズレを描くというねらいとをどう作品の中に織り込んでいくか。その按配に悩んだはずなのだ。

 古典的な悪役シガーとよくいる漁夫の利をねらい、マフィアの金をネコババするお調子者のモス。悪役を追いながら、お調子者とその家族の安全も守ろうとする善良なエド保安官。この構図からすれば、当然悪役シガーとは何者かというところに観客の関心は行く。また、追われているモスがうまく逃げおおせてくれればという感情移入も沸く。

 しかし、原作が描こうとしているは、ハラハラドキドキの逃亡劇ではなく、人が人を殺すということの世界的な現実だ。言い方を変えれば、人は理不尽に脈絡もなく、不条理に死に至るという現実だ。

 かつて、少年が自動販売機のコーラを買いに行くように、顔見知りの近所の老女を「人が殺してみたかっただけ」という理由で殺害し、その動機に人々を戦慄とさせたのはもう十年以上も前のことだ。
 
 そして、つい最近、市街地のど真ん中で起きた連続殺傷事件の犯人も同じような発言をしている。「誰でもよかった。人が殺してみたかった」。しかし、それはもはや日本の特殊な事件でも、驚くべき事件でもなくなっている。アメリカ乱射事件、イギリスの娼婦連続殺人事件…。

 人を殺すということに格段の動機もなく、世間の常識としされた罪悪感もなく、殺す人間がその人間でなければならないという必然もなく、ある日、どこにでもいるような少年や青年、あるいは親や子どもが人を殺す。まるで、それがずっと以前から約束されていたような装いで、日常生活の延長のように起きる。

 そうした社会で、法秩序や道徳、正義、社会のルールといったものがいかに無力か。かつて法や道徳、社会正義を語り、教え、説諭することによって成立した世界の基盤が壊れているという現実に人はどう対峙し、拠り所を見出せばよいのか。それを突きつけるのに、構成上、代々保安官一家に育ち、いまや自身も高齢になった善良な保安官の存在は、あまりに弱すぎる。

 世界を覆う不透明性の現実をシガーとモスの逃亡劇の筋立てによって、丹念に描けば描くほど、善良な保安官の存在は希薄になる。

 コーエン兄弟が悩んだ果てに、気づいたのは、おそらく、保安官の存在感のなさ、存在の希薄さをそのまま観客に提示することが、この作品の意図であり、世界観なのだということだろう。

 コーエン兄弟は、だから、ラストであっさり、シガーにモスを殺させ、その妻さえも始末させる。そして、自分の生きて来た正義がもはや成立しないと自覚し、この事件を契機に保安官を退職した男に、あえて、取って付けたような台詞を言わせている。

 それ自体が、途轍もなく希薄で、重みがない。 この作品の凄さは、その薄さ、軽さにこそあるのだ。


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『スクールコーチング』


       


 昨年末に撮影し、今年1月に編集した作品です。
 DVDと書籍が一体となった教師向けの教育図書で、滑w陽書房さんが制作されたもの。フォア・ザ・ワン・プロジェクトが素材映像の制作委託を受けて協力した作品です。

 一時期、企業などでも、コーチングの必要性が指摘され、ブームともなりました。上司や部下、教師と生徒など、パワーハラスメントが起きてもおかしくない上下の力関係の中では、些細な行き違いで互いのコミュニケーションに齟齬が生まれ、深い溝となることが珍しくありません。

 部下にやる気を出させる。生徒にやる気を出させる。そこには、他者を尊重し、受け入れ、失敗があってもそれを糧にできるようなふれあい方、言葉のかけ方というものがあります。上下の関係ではなくとも、同僚やクラスメート、友だち同士、恋人・夫婦間においても、それは同じことが言えます。
 
 台本のリライトから著者の神谷和宏先生とやりとりしながら、私の仕事と共通するものをたくさんみつけました。

 いじめや不登校、ひきこもり。少年の非行。そういった教育作品をつくるときに常に気づくのは、親子関係や教師と生徒の意思疎通の不全、それらが導く、大人への子どもたちの不信感と諦めです。いま、シリーズ作品として「虐待」をテーマとした作品を連作していますが、ここでも、同じくコミュニケーション不全が指摘できます。

 同時に、気づくのは、傷つき、痛みを感じている人の思いを理解したり、想像する言葉力の低下です。心の中で、こう言うと相手は不快を感じるのではないか。返って追い込んで、気落ちさせてしまうのではないか。そうしたことを感じ、考える力が落ちているという点です。

 言葉というのは、実は物凄い力があり、言葉を大事にするということは、自分が他者へ向かうときの態度や姿勢、他者をどう理解し、また、他者に自分をどうわからせるかというキーになるものです。

 宗教的にも言葉は、その人の運命を変える力があるほど、魂を浄化することもあれば、汚すことにもなり得る言います。

 ありがとうございます。うれしいです。そうしたプラスの言葉は語る人に素直さを呼び、聞く人には喜びと明るさを与えます。怒りや不満、不平の言葉は、語る人の心をより一層、怒りや不満、不平で満たし、聞く人にはよどみと暗さを与えます。

 また、心に怒りや不満があっても、意図して、プラスの言葉を口にしていると次第に心の怒りや不満が静まり、よどみから解放され、明るく気持ちになるということもあります。

 私が俳優にまず、形を極めよと指導するのも、心をつくろうとすると目に見えず、自分の我によって妨げられるものが多いがゆえに、よき言葉を口にするように形を繰り返せば、自ずと心がつくられ、よき演技ができるようになるというものです。

 言わば、他者とよき関係をつくり、こちらの伝えたい演技に共感し、同化してもらうために、相手が受け入れられる意志表現をせよと言っているのです。

 神谷和宏先生との仕事は、そのように私が普段の仕事の中で感じていることと相違がありませんでした。

 かく言う私も、実はかつては自分の思いをストレートにぶつけ、相手の気持ちや置かれている状況を深く勘案することなどしていませんでした。逆に、これができないのは、本人の努力や根性が足りないくらいにしか考えていなかったのです。

 人生において失敗を重ね、強さや正義だけで人は生きられず、弱さも失敗も受け入れ、どうすればその弱さや失敗を克服できるのかを共に考え、共に歩む以外、出会いを生かすことも、育むこともできないのだと理解し始めました。自分自身もまた、そうした救いと愛を必要としている人間の一人なのだと気づき始めました。

 ふれあい方、声かけのあり方をまず変えてみる。そのことによって開かれてくる新しい人間関係の地平がある。この仕事の中で、再度認識させられました。

                  学陽書房刊 価格2,800円(消費税別)

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  『エリザべス ゴールデンエイジ』



  


 
1998年の第1作『エリザベス』に比べると明らかに見劣りする。前作同様、高貴なる人物の内面描写に力を入れようとしているが、その計算が勝ちすぎて、返って描写が薄っぺらに映る。
 
 制作費の関係があったのか、肝心のスペイン艦隊との戦闘シーンも淡白に描かれ、海賊王国でもあった当時の英国海軍の実体もよく見えない。大艦隊の意表を付く海のならず者たちの知恵と叡智が描かれていないのだ。

 大英帝国の礎を築いたのは、当時の英国にあったそうした下層民たちの荒くれたパワーであり、そのパワーを「女王エリザベス」に集約させたエリザベスの逞しさと威光、懐の深さが見えて来ない。

 ロングショットでイングランドの草原を疾走するエリザベスとウォルター・ローリーの姿は圧巻だし、前作同様、当時の室内照明の暗さを逆手にした映像技法は素晴らしいものがあるのに、激しいアクションシーンになるとそれらが鳴りを潜めてしまう。
 
 監督のシェカール・カブールはアクションが苦手なのではないか。アクションのスペクタクルが中途半端に終わっているために、フランシス・ウォルシンガムを演じる名優ジェフリー・ラッシュの権謀術数も描かれ方が半端。

 スペクタクルをとるか、策謀の中の人間ドラマを描くかスタンスをはっきりさせるべきだったろう。

 ただ、個人的に英国のゴールデンエイジはわが師シェークスピアも登場する興味深い時代なだけに、映画のコンテンツ以上に、その装飾や衣裳で楽しむことはできた。

 前作を知る者にはおしまれる作品。
 
 名女優ケイト・ブランシュにベタな心情描写をやらせたのは許せないが、この役をいま演じきれるのも、確かに彼女しかいない。




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      『包帯クラブ』

  


 
未来への不信、不安。日常の耐えられないリフレーン。それゆえに生まれる理由のない苛立ちと怒り。しかし、それが時に他者を傷つけ、自らを傷つける、見えない動機となる。

 前回紹介した、拙作『キミが思うほど未来は悪くない』と同じく、思春期から青春期の子どもたちの心情への深い理解なしには描けないテーマを持ったメッセージ性の高い映画である。
 
 作品は、天童荒太の原作のマインドを丁寧に映像化しながら、そのティストにはどこかナルシズムの権化、青山真治のニオイすら漂う。しかし、青山のような見る者を疲れさせる自慰は、そこにはない。

 単館上映のマイナー映画にしかならない暗い題材でありながら、柳楽優弥、石原さとみ、田中圭、貫地谷しおりという、ありがちな配役と軽妙な作劇で、疲れない映画に仕上げている。

 格段の面白味があるわけでも、抉るような人間描写や心情描写があるわけではない。その点、物足りなさがあるが、私のように教育や人権作品に新しい息吹をと常日頃願っている人間には、こうした劇場公開作品が登場することには嬉しい限りだ。

 作品性が高いかどうかではなく、こうした映画を提供することは映画会社、制作会社、制作マンの社会的な使命の一つのような気がする。興行成績は別にして。

 東映は全国公開ロードショーとして配給したようだが、おそらく、それに値する観客動員はされていない。いや、されるはずがない。ある意味、東映、よくぞこの規模で公開したと拍手を送りたいところだが、作品内容から苦戦を強いられるのは自明だったはず。中高生に観て欲しい作品だが、彼らが率先してこの作品を観るために劇場の門をくぐるとは考えにくい。

 かつての『GO』のように、人権啓発や社会教育作品として、広く活用されることを望むしかない。

 地味だが、作劇の基本を守り、描写に作り手の入れ込みが表立たないよう抑制した演出とフラッシュバックによるドキュメント的作画手法で、ラストに辿り着く、照れくさい「愛」をさらりと観客に伝えている。単純過ぎると言ってしまえば、それまでだが、その単純さもいま映画づくりには必要な要素なのだ。


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  『キミが思うほど未来は悪くない』


    
    


 
今年の5月初旬、厚生労働省が中高校生10万人を対象に違法ドラッグの使用に対する実態調査を行いました。これは、厚生労働省の思惑は別にして、実は非常に画期的なことでした。

 これまで薬物対策に対する政府・行政の基本的スタンスは、違法薬物はあってはならない。やってはならないというものです。薬物防止に対する啓発事業も、取締りもこれを前提としており、私が人権啓発の講演などでよく引用するような「人間やめますか。薬物やめますか」の如き、人権侵害と言えるコピーを平然と流し、人がなぜ薬物にはまるのか。人はなぜ薬物を必要とするのかという基本的な問題への検証をないがしろにし、あるいは無視し続けて来たのです。

 つまり、私が絶えず、指摘しているように、権力にとって、取り締まる側にとって、健全な大人にとって、都合のよい建前論ばかりを連呼し、人々の声、痛みに耳を傾け、実態に則した真に有効性のある対策へ切り込む努力を怠って来たのです。

 薬物依存の問題は、社会問題であり、社会福祉、ウェルフェアの根幹であり、国民生活の安全と安心、未来への希望の問題です。人生の失敗や挫折をどう乗り切るかの心の問題です。教育だけの問題でも、犯罪防止の問題だけでもない。

 今回の実態調査がどれくらい自由度のあったものかどうかは不明です。どの程度、本気で子どもたちの声を聞こうとしたのかはわかりません。カウンセリングやコーチングの基本をきちんと身につけ、善悪の問題ではなく、人間の心の痛みの問題、あるいは、薬物が広がる教育現場の実態、地域社会の実状、そして、国の政治のあり方、引いては、大人社会のあり方への反省と持戒、それなくして、薬物へ向かってしまう人間の弱さ、愚かさを諌めることも、抑止することも難しいでしょう。

 いま、中高生や20代、30代に広がっている薬物使用は、いわば、単に薬物の危険性を連呼することで安心してきた大人の怠慢が生んでいるものです。

 先般、ある薬物防止対策の研修会に少しだけ参加させていただきましたが、そこで、驚くようなコメントを耳にしました。「欧米諸国に比べ、薬物の蔓延がわが国でこれだけ少ないのは、これまでの薬物防止対策、啓発活動が薬物のこわさ、薬物と犯罪の結びつきをきちんと教育してきたからだ」というものです。

 参考にされているのは警察庁の検挙件数や文部科学省、厚生労働省の調査資料のようでしたが、官僚的なデータの読み込みで、薬物蔓延の実態がどれだけつかめるのかと虚しい気持ちになりました。

 そもそも権力機構の中にいる人々が薬物の啓発事業の中枢を担うことに矛盾があります。薬物の問題ばかりではありませんが、法秩序の番人である側が法秩序に反する行為に対して、処罰を前提としてしか立ち向かえないのは自明です。

 救済の方便も、救済や抑止のためのカウンセリングやコーチングのトレーニングを受けておらず、かつ宗教的救済理念もない人間の言葉にだれが耳を傾けるでしょう。

 そこに薬物防止の難しさがあり、ゆえに、広く民間の団体や自助グループなどとの連携が必要なのです。

 猛暑の中、制作した薬物防止対策の教育映像は、こうした私の思いから生まれた作品です。

 MDMAはなぞや。覚醒剤はなんぞやも必要です。しかし、同時に、薬物へ向かってしまう心の問題、薬物へ向かってしまう人々にある痛みや苦しみを明らかににし、取り除くことが薬物防止対策には不可欠なものです。

 また、啓発作品というスタイルではなく、きちんとしたドラマ作品として視聴できるクオリティとコンテンツ。それなくして、子どもたちの心に届くメッセージ足りえるはずがありません。

 そんな思いが通じたのでしょうか。ご褒美として、いい女優と出会えました。まだ新人ですが、北村佳織という希少な女優です。大器です。

 作品は、葛ウ配から9月にDVD、またはVHSで発売されます。


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 『Little Children』



 社会学者宮台真司が、「幻の郊外」というフレーズに託し、都市郊外に形成された新興一戸建て住宅地のエセ共同体が持つ同調圧力と成熟社会の到来と共に生まれる、家族、地域の絆の崩壊とそれらを要因とする諸問題を鮮烈に指摘したのはすでに10年も前のことです。
 
 しかし、公園デビューという専業主婦群特有の文化も、地域で何か事件が起これば、自警団を結成し、正義という名のもとに、歪なもの、異なるものを排除するエセ共同体の体質は依然、私たちの世界、私たちの国、私たちの社会に深く残像しています。

 この本質にあるのは、子育ての問題や子どもの犯罪、非行、凶悪事件が起きる度に原因究明と犯人探しばかりに奔走し、人々が抱いている生きることそのものの飢餓感を理解できない、大人社会の稚拙さの裏返しです。

 この映画は一見、よくありがちな大人の不倫話を題材としながら、実はその根底に、いま述べた私たち成熟社会に生きる人々の
深層にある問題、大人自身の稚拙さへの痛烈な自己批判をそのテーマとしています。

 豊かさの中で物が溢れ、食が満たされた次に来る、生きることの飢餓感は、いかようにも人間を変貌させます。この映画では、幼児嗜好の性癖があり、前科のある男が出所し、地域に戻って来たという設定を設けることで、より明確に大人の稚拙さを浮かび上がらせようとします。幼児嗜好が稚拙なだけでなく、熱意を傾けるものがない空白を彼を排除する運動への情熱で埋めようとする「親の会」のメンバーも稚拙なのです。
 
 日々の郊外の専業主婦の生活に飽き飽きしている英文学の修士を持つ主人公の女性と司法試験に挑戦しながら、妻の収入で生活する男性の不倫。その背後にあるそれぞれの伴侶への不満。それはありがちな構図でありながら、そこに関わるどの大人もがみな稚拙です。

 そして、その結果、犠牲になるのは意志表明のできない子どもです。
 
 こうした構図のドラマ展開を見せながら、しかし、この映画は稚拙であることそのものを決して否定していません。いろいろな人間はいるが、その誰も否定すべきものではない。人間はそもそも稚拙であるがゆえに、支え合い、助け合ってしか生きられず、稚拙さが生む失敗に苦しむのではなく、稚拙さを学び、次の一歩を歩み出すことの方がはるかに大切で重要なのだ。
 
 ドラマの終焉、この映画が伝えたかった硬質なメッセージがストレートに伝わります。

 映画としてのいくつかの課題はありますが、お涙頂戴、感動映画ばかりを追いかけている日本映画が人間をきちんと描く映画とは何かを学ばさせる力のある作品です。


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      『BABEL』

  

 
「人間はそもそもディスコミュニケーションな存在に過ぎない。そこから出発しない限り、他者との関係をどう生きるか、他者との関係性から生まれる様々な諸問題、人権にせよ、教育にせよ、政治によせ、恋愛にせよ、それらとどう向き合うべきかの視座が見えて来ない」

 講演や教育映像作品の制作、このサイトの今週の評論「OUT」の中でも、私は機会を捉えては、これを言い続けています。

 また、同時に、「脳が認識する世界は、主観の産物でしかなく、本来、だれもが共有していると信じている世界の認識は、実は個的なものに過ぎなく、それは幻想を共有しているに過ぎない」とも述べています。

 人間が神と同じ天上を目指し、バベルの塔を築いたとき、神はその傲慢さに怒り、それまで一つの言語しか持たなかった人間に、互いのコミュニケーションに齟齬が生まれるよう、いくつもの言語を人間に与えた。それゆえに、人は互いの意志の疎通を妨げられ、誤解を抱き、それが不信となり、諍い、殺し合い、言葉を同じくする者同士が安全に生きるために、国境を設けた。

 「バベルの塔」の寓話は、そのまま、私が言う、人間存在の不条理性を語っています。

 しかし、言葉が通じたところで、人間は他者を本来的に理解することなどできません。この映画では、それをより鮮烈に描くために、聾唖の女子高校生を登場させ、母親の自殺によって破綻した父親とのコミュニケーションのズレとそれゆえの苛立ちを鮮烈に描いています。同じ言葉、同じ人種、民族でされ、互いに心を通い合わせたいと思いながら、それができない現実があります。それが人間の真実です。

 多くの善良な人々は、語らい、ふれあうことで、人間はより深く関係を結べるものだと言います。しかし、人間に自我があり、情愛や執着がある限り、通じ合っているようでありながら、通信し合えていない部分の方が遥かに多いのです。よかれと思う言葉が他者を深く傷つけていることも少なくありません。

 そして、いつか人は、傷つけることも、傷つけられることも怖れるようになり、コミュニケーションから撤退し、他者との関係を曖昧で、表面的なフレームなものへと固定します。それが、人々から感性や感覚を封印していくことになります。

 しかし、それは人間をより孤独で、荒涼とした風景へと押しやることでしかありません。

 コミュニケーションではなく、カンバセーション。言葉でなく、互いの温もり、肌を感じ合うところにしか、その解決策はない。この映画はそれを強く主張しています。

 映画の終盤、聾唖の女子高生が誰でもいいから、自分を承認してくれる異性を求め、全裸となり、それを諌めた刑事に、後で読んでくれと、自分がなぜ、こんなことをしているのかをメモに書いて渡します。刑事はそれをラーメン店で一人広げ、彼女のせつなさに言葉を失います。

 しかし、その彼女のメッセージは紹介されていません。ありがちに、メモをアップで辿ることも、ナレーションで吹き返ることもしていません。だからこそ、一層、そこに何が書かれていたかをこの映画は観客に突きつけます。

 それを観ても、この映画が並の作品でないことが実感できます。


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