第12回 佇まい



 前回、身体所作と深く結びつく、呼吸法を形として示すことが、観る者の生理に訴える有効な方法であるとお話しました。そして、呼吸によってつくられる重心の位置が演じるための心の置き所となると述べました。そのために、まず基本となすべきだと主張したのが、何もしないという演技の姿です。

 では、何もしないという演技とは一体どういうものなのでしょう。今回は、何もしない演技の持つダイナミズムについて、これまで私がみなさんにお話してきたことを踏まえながら考えてみましょう。

 私は「秘すれば花」の中で「俳優は一輪の切花たれ」と述べました。それは、余剰や過剰を排し、すべてを説明的に演技して見せるのではなく、欠落と余白、余韻を持つ異形の姿によって、自然の雄大さや広大さ、宇宙的時空の広がり、演劇で言えば、舞台上に視覚化されていない世界を幻視させうる存在として、そこにあらんとすることです。

 俳優がカメラの前、あるいは観客の前にその姿を晒すとき、その身体には与えられた役の生活史がすでに形として入っていなくてはなりません。身体性を保った演技とは、他者の視線に晒された、そのときから演技が始まるのではなく、また、視線に晒されたその場だけにあるのでもありません。身体は役の生活史を生きていなければならない。

 舞台やカメラの前では視覚できるものとして見せていないにもかかわず、観客が俳優の佇まいの中に、そこに見せていない役の生活史を直感できるものではなくてはならないのです。

 無論、俳優、あるいは俳優を目指す人の多くがそのことを知っています。が、しかし、そのアプローチの手順がこれまで述べてきているように、脳の前頭葉で考えた、「らしさ」を追求する狭隘な経験主義や個人的な感情理解、心理分析による、誤ったリアリズム主義によるのもである限り、それは、リアリティ(内実)の伴った演技とはかけ離れた、役をなぞるだけの小手先の技に過ぎないのです。

 表層的で、個人的主観を離れるために、自己の身体を第三者の視点からみつめ直し、他者の視線として観る力があって初めて、主観によって左右され、普遍的な意味を醸し出しえない演技の世界に、確たる基軸を見出し、身体を拠点として舞台に所作を通じて絵を描くということが可能となります。

 その基本にあるのは、一重に構えと形です。

 私がこれまでみなさんに語り続けている根本にあるのは、舞台において、カメラの前において、ゆるぎなく「そこにある」という毅然とした佇まいを要求しているのです。

 何もしない演技とは、この俳優の佇まいを意味しています。一輪の切花が観る人にその欠落した異形の姿から強く背後にある自然を幻視できるのも、一輪の切花が異形の美を放ちながら毅然として「そこにある」という確たる佇まいをかもし出しているからです。

 しかしながら、私たちが偶然、目にしたその一輪の切花は、実は、その一輪の切花でなければならないという必然性はどこにもありません。別の枝、別の花を切花としてそこに装飾してもよいという無名性や入れ替え可能性に、一輪の切花は一輪の切花であるがゆえに、常に晒されています。つまり、そのものである必要はないという、頼りない存在に過ぎないのです。

 しかし、私たちは、一輪の切花を前にするとき、それが入れ替え可能な頼りない存在であり、そこにあるべきは、その一輪の切花でなくともよいという現実を忘れ、一輪の切花がかもし出す毅然としたゆるぎなさに、幻視を観ることができます。頼りなさではなく、その切花ではなくてはならないという確信を持つのです。

 その根拠は、言うまでもなく、一輪の切花に込められた、構えと形、そして決意です。何を余白とし、何を余韻とするのか。何を切り捨て、何を残し、何を見せるかです。そして、その異形の姿は、普遍的な「美」を備えていなくてはなりません。空間を占有し、人の視線を惹きつけるものでなくてはなりません。

 異形という、日常ではあり得ない佇まいをそこに持つがゆえに、人は、どれでもよい一輪の切花でありながら、その入れ替え可能性を忘れ、異形の佇まいに釘付けとなるのです。

 では、その異形になぜ私たちは心を奪われるのか。

 私たちの身近にある花、木々、あるいはりんごやみかん、ぶどう、ボトル、食器…。静物画の題材とされるそれらは、日々、私たちが慣れ親しみ、日常生活の一部としているものです。日常という枠組みの中で見れば、実にありふれた、在り来たりのものでしかない、それらが、一枚の絵画として描かれたとき、全く違う存在感を持って私たちに迫るのは、日常的でありながら、日常ではあり得ない佇まいをそこに持つからです。

 現実のそれらを描きながら、現実にはあり得ないそれら。つまり、虚実皮膜を生きているからです。

 日常的なるものに、制約と約束事を設けることで、虚構へと変容させ、異形のものとして、日常的な枠組みを越える姿へ変える。それゆえに、それらは圧倒的な存在感を持って、私たちが慣れ親しんだ日常を突き破り、予想だにしなかった、異形の美が浮上するのです。

 何もしない演技に求められるのは、こうした佇まいのあり方です。

 舞台、映像の演出方法に光と影の画家と謳われた、著名な芸術家にちなんだレンブラント照明、一般に「障子明かり」という手法があります。人がそこに何もしないで佇んでいるという静止した存在に、ある一点から一筋の明かりを当てることで、そこにいる人間やそこにある物が持つ「内実の重さ」を伝えようとする演出法です。

 内実の重さとは、その人物、その物の生活史であり、心象です。そこにあるものの、いま、そして、これからという時の流れです。時の流れの中で身体化した存在感です。

 顔に刻まれた皺、温かな予感を持つ手の質感、豊満な胸の谷間にある愛、盛り上がった筋肉が示すいのちの力動。首筋や唇に漂う秘められた性への誘い。あるいは、家具の歪みに現れる人の生活史、剥げた色、傷ついた表面にある風雪とそこにいたであろう人の残像…。

 言葉では語りきれない、そのものが内包している生活史と心象風景をわずか一点からの明かりで浮き上がらせる。しかし、それを可能とするのは、そこにある人や物がゆるぎなくそこにあるという佇まいを持つからに他なりません。

 佇むという姿は、一見、何もしてない、静の世界でありながら、そこに、役の過去、現在、そして未来を垣間見ることができる。静と動、陰と陽、善と悪、強さと弱さ、堅牢さと脆さを同時に生き、人の日常と非日常を佇むという中に封じ込め、言葉では語り尽くせない世界を一瞬にして垣間見せることなのです。

 だからこそ、そこにブレやヒズミがあってはならない。確たる存在としてそこにあるという強さが保たれていなくてはなりません。簡単に言えば、舞台、カメラの前に立つというその立ち姿が、内実の重さを持つだけの身体的な強さを持ってそこになくてはならないということです。

 俳優が演技を行うという行為の基本所作として、重心の位置に心を置くということの重要さと意味がここにあるのです。

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