第7回 衰退する想像力


 人が生活課題に直面して、問題解決への施策を練るとき。

 あるいは、行政や国政に携わる人々が市民が抱えている生活課題を解決へ導くために条例や法律を立案するとき。

 国家間、多国間における外交交渉において自国の国益を守りながら、世界から承認されうるグローバライゼーションを確立しようと外交戦略を模索するとき。

 そこに求められるものは、個々人のレベルにおいても、社会や国家のレベルにおいても、自分たちの生活や自分たちの社会、国家がどのようなものであって欲しいか、ありたいかというビジョンです。
 
 しかしながら、人々が直面する生活課題が一律ではなくなり、社会、国家の問題が地球規模の影響と多様性を持つようになると簡単にビジョンを描くことが難しくなっていきます。
 
 いまでは木製の風呂や桶が少なくなり、「桶が笑う」という言い回しが死語になりつつありますが、桶が極度に老朽化すると、単に桶の箍(たが)を締め直せば水漏れはなくなるのではなく、一箇所の腐った部分を手当てしても違う場所から水漏れが生まれるということが起きます。
 細胞が変異しておきる「がん」もそこを手当てしたからといって、それで問題が解決するのではありません。生命体はバランスを一旦崩すと発症しているがんを治療すれば終わるのではなく、バランスそのものを回復しなければ体質改善にならず、変異、拡張を止められません。常に再発、転移の危険に晒され続けることになります。

 このようにあらゆる可能性を視野に入れながら、全体のバランスシートを考え、問題の原因を丹念に究明し、本質的な解決へ向けたビジョンを構築し、これを確かなプロトコールとして実施していくには、かつてなかった手間隙と労力、さらには知識と経験、そして冷静さ、緻密さ、手腕が要求されるのです。

 しかし、高度情報化社会の到来により、日々、情報が怒涛のように押し寄せ、生活速度が人間の速度を越えるようになると人間の脳は、その処理能力の限界を越え、悲鳴を上げます。直面した問題の本質を読み、解決のためのよりよきビジョンを持とうとする想像力が発揮できず、表層的な問題処理、つまり、当面の課題だけを処理するか、過重な問題については先送りしてまおうとするのです。

 それだけでなく、情報氾濫と人間が本来持つ体内時間を越える超高速の時間感覚からパニックとなり、想像力を働かせることを中断し、立ち現れた現象だけを見て、それが世界だと問題をできるだけ平易に解釈し、単純化するようになります。
 あるいは、自分のオリジナリティではなく、他者から伝え聞いたことや誰かがこのように対応しているという情報をもとに、それを物真似することで自己処理の大変さを回避しようとするのです。結果、ステレオタイプの判で押したような類似したメッセージが社会に溢れることになります。

 学習は物真似から始まるといわれますが、物真似をするには、物真似する対象の本質を見抜き、そのエッセンスを吸収、咀嚼できるだけの想像力がなければなりません。そのことによって、「青は藍より出でて藍より青し」が成立するのです。そうでない軽薄な物真似や亜流は、オリジナルからコピーをとり、それをさらにコピーするという繰り返しを続けると原本のインクが希薄になり、ついには読むこともできないほど劣化するように、最後には実体がぼやけ、オリジナルが持つ力さえも失ってしまいます。

 いま私たちの生活、社会に溢れているのは、こうした希薄で浅薄なメッセージやビジョンです。人間が本来持つ、逞しく、豊かな想像力から生まれるものではなく、社会に出現する様々な問題や事件の事実だけをなぞっただけの狭窄した視野から発現される社会メッセージとビジョンは、問題の本質を射抜くもとも、事実の向こうにある真実を浮かび上がらせることもできません。

 その結果、深みのない短絡したメッセージやビジョンが社会を凌駕していくことになります。言葉も単純化され、平易となり、文脈や行間から溢れるものではなくなり、人々にとってわかりいいように歪曲され、そのために、記号化、信号化されていきます。

 こうしたメッセージ、あるいはビジョンは人々に思考を要求せず、心情や情感に訴えるだけの感情論に満ちたものとなり、内容にでなく、発言される言葉に勢いや面白みがあるだけで、人々は、思考を停止させ、疲れ切った脳を休息させられるだけの糖度の高い甘味料を与えられたように、これを検証することなく受け入れるようになるのです。

 かつて、高橋和巳が「想像力が明日を切り拓く」という、全共闘のメッセージに感動したように、人間の豊かさや生きる力の根源にあるものは、想像力です。

 いまという現実の中にある現象のみに囚われず、現実がいかに堅牢で、堅固なものであろうとそれはきっと変えられるという想像力を持つことが、現実を変えていく大きな力です。そこにこそ、現実にはない、新たな地平た立ち現れてくるのです。有史以来人類がここまでの発展を遂げることができたのも、想像力をすべてその起源としています。

 想像力を働かせない、働かせるゆとりを失ったパニック症は、不安との共存です。ゆえに、想像力を停止させていながら、人々は生活や社会に起きる事件、問題の事実のみをまるで獣が空腹を満たすように果てしなくむしゃぶります。そのことで、あたかも新たなビジョンと出会えるかのような錯覚の中で。

 いま、マスコミや政治の世界に跋扈する想像力を欠如したメッセージやビジョンはこうした私たちの生活や社会現象にリンクするように発信されています。

 民意の底が割れているという現実をたくみに利用した優秀な政治家に中曽根康弘がいますが、小泉純一郎の手腕も実は、これのコピーに過ぎません。安部晋三もこの手腕、手法を真似し、自らコピーしようとしています。

 政権を支える公明党にせよ、財界にせよ、こうした政治手法を望んでいるのはなぜか。それは言うまでもなく、大衆が自ら想像力によって社会変革を生み出そうとする力を骨抜きにしておくことが自分たちの利益につながるからです。

 しかし、人間の想像力を衰退させることは、結果的には、社会全体から活力を奪い、家庭の教育力、企業・団体の組織力や発展力、地域社会の連帯力、回復力を疲弊させます。目に見える現実のみを課題にし、これにどう対応するかばかりに奔走し、結果、疲れ切って、目に見える課題の前に無力感に襲われ、現実容認型の創意工夫のない人間を家庭でも学校でも組織でも、地域でも量産することになるのです。

 茂木健一郎がその多くの著作の中で繰り返し主張している「クオリア理論」は、経験則に縛られる脳の原理的な働きとこれを越えるために有用な人間が持ち合わせている感覚の力をその大きな柱としています。

 目に見える現実は、あくまでも人間がこう解釈した方が整合性があると勝手に決め付け、辻褄合わせをしているものに過ぎません。丹念に現実をみつめ、感覚の人となることで、自分が決めつけていた現実は実は違っていたという事実に直面し、その結果、目に見えている事実の向こうにある真実に出会えるというものです。

 そのためには、私たちの感覚の重要な位置を占めている想像力を決して誰かに売り渡したり、自ら放棄してはならないのです。

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