第12回 スティグマ社会の到来                        


 カナダ出身の社会学者ゴフマンが『スティグマの社会学』を著したのは、アメリカの黒人解放運動、公民権運動が活発化し始める1963年です。

 スティグマとは、もとは、犯罪者や奴隷の烙印とされたタトゥを意味し、社会から受容を拒否された人々のことを総称していました。ゴフマンは、それを社会全体の問題として捉え、経済を基盤とした階層化で出現する、社会的に立場の弱い人を始め、人種的差別、民族的差別、身体的差別、性的差別などあらゆる差別の根源として捉え直したのです。

 それと同時に、一旦、そいうした社会的排他の対象とされた人々が、社会の一隅に位置づけられ、定位置化されると排他されている人々がそれをやむなく、受け入れるようになり、それに伴い、社会全体もそれを承知の事実として、差別を社会の自明のものとして内包していってしまう皮肉な構図を解明しました。

 ゴフマンの意志はともかく、そのアイロニーに触発され、囲い込みされる差別にノーと声を上げた市民運動が公民権運動です。そして、運動理念の支柱としてスティグマ理論は広まります。

 私たちの国では人権や自由の問題が問われるとき、いまでもその多くがカッティングオペレーション、つまり、排除と隔離だけを問題にします。

 そこでは、排除・隔離するものと「なぜ、我々を排除するのか」と反駁するものとの明確な対立の構図が見え、人権や自由の問題を論議する上で、双方が自分たちの立ち居地を確認でき、仕切り線をはっきりさせることができるという安心すら与えて来ました。

 しかし、実は、それよりもゴフマンが言う社会構造の一部と化した、仕切り線のはっきりしない人権侵害や差別の方が遥かに重要で、問題なのです。

 小泉政権以後、私たちの社会は、新自由主義的な競争原理や自助努力による経済活動の推進をスローガンとして「構造改革」を進め、それに賛同して来ました。「構造改革」という言葉が疲弊した経済を立て直し、かつてのような成長・発展や人々を幸せに導く原動力であるかの如く、情報操作され、大衆もそこに新たな幻想を持ったのです。

 現実に今般の選挙でも「構造改革の継承」「積み残しされた構造改革の推進」「構造改革を止めるな」といった自公連立の情報戦略は成功しています。

 それは、経済指数が好転していると報告されても、その実感の持てない市民は多数いるにもかかわらず、依然として、いまある苦しい生活格差は「構造改革」によってこそ回復できると「信じよう」としている人々が多数いるということを意味しています。

 いえ、もしかしたら、安倍晋三氏ですら、「信じよう」としているのかもしれません。なぜなら、それ以外に、いま広がる格差問題や実は疲弊している実態経済、あるいはそれを背景として生まれている社会の崩壊現象に対して、立ち向かう行動原理や政治的メッセージを持っていないからです。

 しかし、それは市民の側にもない。政治にも、市民にもないとしたら、「構造改革」という言葉だけが踊り、格差ゆえの諸問題やこの十年ほどで出現した、生活困窮世帯、就職できない非正規雇用の人々とスタートラインからハンディを負わされるその子弟の救済などできるはずもありません。

 じわじわとスティグマを背負わされた人々が増大し、それゆえの家庭の崩壊、学校教育の崩壊、社会教育の崩壊が進行します。

 なぜなら、経済的な困窮は人々から生活の安心を奪い、希望を失わせ、ストレスを生み、家庭、地域社会、世の中全体が歪で、ギスギスしたものに変容して行くからです。

 そして、何よりもこわいのは、そうしたスティグマを背負わされていないがら、自分たちはそうではないと信じ、自分より疲弊している人々を見て安心を得る人々が生まれることです。

 さらに問題なのは、スティグマを背負う人々を排除や隔離をしないまま、彼らと同じ立ち居地にいるのだという平等性や寛容さを示しつつ、しかし、明らかに自分たちの世界には入れないという環境や空気感をつくり、そっと排除する笑顔の人々が登場していることです。

 石原慎太郎という都知事を選んだ東京には、その半月ほど前に、TOKYO MIDTOWNというこれまで日本の都市開発にはなかった新しいコンプレックスタウンが登場しました。

 ニューヨーク・マンハッタンのミニチュア版のその風景の中に集まる人々の姿。そこに日本がこれから向かうスティグマ社会を読み取ることができます。



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