第9回 個性について  


 音楽性が一回性を生きる上で重要だということを学びました。今回はその同じ音楽性という視点から俳優の個性について考えてみましょう。

 第1回の構えと形で触れたように、若い俳優にどのような演技を目指しているのかという問いを投げかけると多くが、「自分の個性を発揮します」「自分らしさを出します」「がんばります」といったような答えを返してきます。私のワークショップでは様々な課題の中で、「自分にしか」できないことを表現し、伝えなさにという指導をします。しかし、この「自分の個性を発揮します」や「自分らしさを出します」という視点と私が言う「自分にしか」という視点には大きな食い違い、俳優の無理解があります。また、耳にたこができるほど、聞かされる「がんばります」は、これもすでに触れたように、日々の鍛錬を何もしていない、俳優という仕事への自覚のなさを露呈しているに過ぎない言葉です。

 しかし、多くの俳優が、個性の発揮やがんばりを繰り返し言うのは、その背後にこんな考え方があるからです。

 個性とはつくられるもの。そのために、誰かに稽古を付けてもらい、がんばれば、自分らしさを役の中に生かせ、他の俳優にではできない、自分の個性や特徴を生かした演技ができるはずだ云々…。

 演技するということは、そんなに愚直なものでしょうか? 演技するということはそれほど単純なことでしょうか? そもそも個性というのは努力し、がんばれば得られるものなのでしょうか。

 自分の身体への自覚を通じて、演技というものを感情理解からではなく、身体感覚から体得せよという私の話に注意深い人ならば、個性というものががんばって得られるものではないことは自明のはずです。

 みなさんは、「個性」というものがどこか遠くにあるもの、誰かが教えてくれるもの、日々の鍛錬によって獲得できるものと誤解しています。それは自分の身体への自覚が欠落しているかこそ、そう思ってしまうのです。個性は遠くにあるものでも、獲得するものでもありません。みなさんが生まれながらに生きているもので、みなさんがそこにあるということがすでに個性を生きていることなのです。

 たとえば、身長の低い人が身長の高い人間になろうと思ってもそれはできません。逆に、身長の高い人が身長の低い人をかわいいとうらやんだとしても、身長の高い人は身長が高いという個性を生きるしかないのです。顔つき、声帯、表情の表し方、立ち居振る舞い…。人は、そのすべてを生まれたときから、遺伝子によって決定され、決定された枠組みの中でしか生きられない存在です。どのような努力をしたところで、生まれながらにある自分の個性とは変えられないものなのです。

 だからこそ、感情分析や感情理解から役を創造することの難しさ、限界性もあるのです。演出家や監督と俳優のあなたは違う個性を生きており、役に向かう感性は千差万別です。つまり、解釈は行く通りもあるということです。俳優が生まれながらの個性しか生きられないという枠組みの中にいるからこそ、俳優なのであって、演出や監督の意のままに役を創造することができるなら、それは機械仕掛けの人形で、俳優という職業そのものの意味性が無くなります。

 俳優が俳優たるのは意味性や論理性を越え、自分の身体を通じて、観客の生理に訴える存在であるからだという私の話の根幹にも、これが根拠としてあるのです。つまり、みなさんは否応なく個性を自覚し、個性という自分の楽器の特徴、特質を理解し、それを鍛錬する存在でしかないということです。

 個性ということが私が言う音楽性とつながりがあるというのはここに理由があります。わかりやすい例で考えてみましょう。

 楽器に詳しい方ならわかると思いますが、トランペットやトロンボーンなどのような金管楽器のマウスピースは誰の唇にも合うものではありません。個人的な楽しみで楽器をやるなら別ですが、よりよき音を追求すると、そこにはおのずと楽器に合う唇というのがあるのです。もちろん、その他にも肺活量の差、腕の長さ、指の長さ、手の大きさ、体格など様々な要素が連動して、人は自分に最も合った楽器を選択せざるを得ません。つまり、その人の生まれながらの個性が楽器そのものでもあるのです。その劣勢を乗り越えるには、天性の才と人並み以上の努力が必要です。

 これを俳優の仕事にたとえてみましょう。

 役には様々な役があります。前回にも述べたように、作品創造の要となるのは戯曲、脚本と俳優たちです。それは、それぞれの役割をどのように生きるかというアンサンブルによって組み立てられているものです。

 つまり、みなさんは身体という楽器なのです。主旋律をリードする人、その脇で副旋律を支える人、全体のリズムをとる人、中音域を奏でる人、低音を支える人など、多くの役があります。意味からではなく、記号として、まず、戯曲や脚本を譜面のようにして読みなさい。という私の言う意味がここにも浮上します。自分の個性はこうである、つまり自分の身体性はこうである。その自覚に立つことで、自分が全体のアンサンブルの中でどういう役割を生きるべきかが見えてくるのです。

 こういう役がやりたい。こういう役者になりたい。そう思うのはいけないことではありません。しかし、それは自分の個性、私の言い方で言えば、自分の身体性への自覚から、つまり、自分はどういう楽器であるか、楽器であることが自分の個性を生かすことであるかの自覚がなければ、浮ついた理想を求めているに過ぎないのです。

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