第7回 音楽への回路としての身体



 みなさんはエチュードの課題を受け取ったり、台本を前にしたとき、どういう視点からその課題や台本に向き合おうとするでしょう。

 俳優や演出家は、そこに描かれている人物を「らしく」伝えようと自分の浅薄な経験を通してなぞってはならない、つまり、感情分析や理解から始めてはならいないと教えました。また、俳優の仕事は、課題や台本にある所作や台詞の向こうにある内実(リアリティ)を形にして観客の生理に訴えることだとも教えました。そのために感情を理屈で解釈し、意味を伝えようとしてはならないとも語りました。さて、そうしたとき、これまでとは異なる意識、異なる気持ちで課題や台本と向き合うとして、みなさんはどうしたことを意識し、どうした気持ちでこれに取り組もうとするのでしょうか。

 前回、意味ではなく感覚に訴えるためには、リズムや音楽が有効なのだというお話をしました。これをヒントにいまの問いを考えてみましょう。

 私がワークショップに集まるみなさんに、必ずお話することの重要なひとつが私たちの仕事はひとつの音楽作品を創っているのに等しいのだというものです。

 私たちが舞台でも映像作品でもその創作活動の出発点とするのは台本あるいは脚本です。これらは、当然ながら会話の積み重ねであり、所作や状況設定の解説でつくられています。しかし、台本または脚本にあるのは、文字としてのそれであり、数枚の紙に綴られた平板なものです。そのため、ついつい俳優も演出家も、綴られた文字を読み取る日常的な習慣から入ろうとします。つまり、文学作品のように「読解」しようとしてしまうのです。そこに感情分析や解釈という論理性が頭をもたげて来ます。

 私が否定する台本や脚本への向かい方というのは、このように、台本や脚本に対して、文学作品として向かい合おうとする姿勢だと言ってもよいでしょう。台本や脚本が読み物となったとき、意味性が重要になり、本来求めるべき生理が脇に追いやられてします。

 台本や脚本はそれ自体では作品足り得ないものです。なぜなら、舞台あるいは映像というのは、俳優の身体があって初めて成立するもので、台本や脚本それ自体で自立した表現とはならないものだからです。また、照明や音効、道具、衣装など各パートとの連携と複合によって、総合芸術として成立するものです。台本や脚本はそうした意味においては、いわば建築における図面、設計図に過ぎません。私たちの作業は、台本あるいは脚本という設計図を基に、これを様々な技術を用いて、ダイナミックに立体化、空間化、身体化していく作業なのです。

 意味性や論理性に目が向くと、この立体化、空間化、身体化していくという作業の広がりが持てず、図面に首っ引きになり、構造や強度計算、工法ばかりに関心が注がれます。つまり、図面を読み取るための意味性や論理性が優先されるために、ダイナミズム(生理)が損なわれて行くのです。

 そこで、意味性や論理性から自由になるために、私はある方法で台本や脚本へ向いなさいと指導しています。それが、音楽の譜面と同じ感覚で台本や脚本と向かうということです。

 先ほど、台本や脚本は設計図に過ぎないと述べました。設計図にあるのは、本来記号です。台本や脚本に綴られている言葉も、もとは言語の配列に過ぎません。勿論、そこには感情や心理的背景など舞台上、映像上には描かれていない見えない世界があります。

 しかし、台本や脚本に記載されているのは単に記号配列に過ぎません。そして、そこには、音楽譜面と同じようにリズムがあります。状況によるテンポがあります。登場人物と他の登場人物との間や掛け合いのアンサンブルがあります。そして、それらが結びつく主筋があり、それを立体化するための展開があります。
  

   ここに台本や脚本に向き合うときの重要なポイントがあるのです。

 「らしさ」の追求へ向かわないためには、まず、台本や脚本に対して、感情理解は後回しにし、音楽の譜面として向かい合うということなのです。なぜなら、台本や脚本にある言葉を記号という無機質なものにして距離を置くことで、個人的な思い入れや感情移入から自由になれるからです。

 たとえば、音楽家が譜面を前にしたときの状況を想起してください。言葉ではない譜面は音楽記号の連続です。演奏家はそのひとつひとつに意味や感情から入るでしょうか。当然ながら、その記号を読み取り、テンポ、強弱、進行を物理的に理解しようとします。作曲家の感情理解からではなく、譜面を読み取るという実に無機質な作業から始めるのです。ここでは悲しくとか、ここではせつなくとか言うのは、譜面上の音楽記号を読み取り、これを正確に身体化、つまり楽器や自分の声帯によって身体感覚にまで落とし込んだときに、初めて出現してくる世界です。

 私の言い方で言えば、「形」として譜面を正確に演奏することが優先されます。それがなければ、音楽家は観客に対して何事も伝えることができません。つまり、音楽の演奏には、それ自体に「離見の見」が備わっているのです。それは、言葉という意味性から出発せず、音という人の感覚や生理にしか訴えることのできない世界だからです。

 しかしながら、先ほど述べたように、本来、台本や脚本も、言葉、すなわち言語という記号によって何事かを表現しようとしているもので、それ自体、音楽の譜面と同じなのです。意味性や感情表現という主観に左右されるものを一旦、排除してしまえば、台詞にも所作にも音楽性しか残りません。それを俳優という身体を用いて、演奏するという発想に立つことが重要なのです。能楽や歌舞伎が、七五調を台本の基本とすることで、意味性よりも音楽性が主となっているのもこれに起因しています。

 俳優の身体というのは、このための道具、楽器なのです。ゆえに、自分の身体性に自覚的なければならず、日々、鍛錬しなければならない。楽器の調整とよりよい音を出せる技量が必要だからです。そして、台詞においても所作においても、俳優が強い意識しなければならないのは、自分の身体が楽器として機能しているか。自分が受け持つ楽器が全体のアンサンブルに適っているかということなのです。

 台本や脚本は譜面であり、俳優とはそれを奏でる楽器である。俳優の身体は音を台詞の言い回しと所作によって表現するものである。この観点に立つことにで、身体への自覚を持ち、そこでの所作に客観的になれるのです。これによって、意味を伝えようとするのではなく、音楽性によって観客の生理に訴える術を得ることができます。

 私が否定する意味性、論理性に変わる手段が音楽性だという理由はこうした論拠によっているのです。

 そして、ここに、演劇の持つ一回性を生きるヒントも「個性を発揮します」と応える若い俳優たちへの戒めもあるのです。

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