第5回 身体への自覚 (1) 



 
空間を自在に操るために身体への自覚がなければならないというお話を前回しました。では、身体を自覚するということはどういうことなのでしょう。

 みなさんは、オーディションでも、ワークショップのレッスンでも、与えられた課題を当然のようにこなします。それはみなさんが俳優たらんとしているからであり、俳優というものは課題に応えるものであり、俳優は演技を行うものだと考えているからです。つまり、当然のlことのように演技を行います。

 そこで、みなさんに質問です。

 みなさんは、当然のように演技を人前で行いますが、そのとき、どの程度、自分の身体を意識し、自覚した上で演技を行っているでしょうか?
自分の身体やそれを使って生み出す所作をきちんと見つめ、その長所や欠点を自覚して演技をしているでしょうか?

 まず、このことを冷静に考える必要があります。

 ワークショップで課題を演じてもらうときも、オーディションで50人という方の演技を見るときも、自分の身体への自覚を持つ人と出会うことはごく稀です。それはおそらく、多くの俳優や俳優を目指す人が「身体を自覚する」ためのトレーニングを全くされていないからです。そのため、選考をする側から見て、琴線にふれるような人材とはなかなか出会えないというのが現実です。

 端的に言うと、演技をすることはこういうことだとどこかで教えられたことをただ人前でやっているだけという方が実に多いのす。つまり、どんぐりの背比べにしか見えない演技、ベタな自己満足な演技、自分の身体を演技という視点で鍛えておらず、所作に軸がなく、取り留めのない演技…。大まかに印象を言うとそうした演技らしきものが大半です。

 身体を自覚するということがどういうことか、もう一度、空間占有を例に考えてみましょう。

 空間を占有すると聞いて、身体の大きい人がきっと利点があるだろうなと思う方は多いと思います。世界のトップモデルを見ればわかるように、身長があり、手足の長い人はその所作が際立って見えます。そうしたことから、空間を占有し、その人がそこにあるという存在感を示すには外見の大きさ、あるいは美貌、スタイルのよさがきっと必要なのに違いない。そう考える人が多いのは当然です。

 確かに、身長が高く、手足の長い人はそうでない人に比べ、利点は多い。しかし、それならば、俳優たらん人は天性の外見でそうなれる人、なれない人が決まるのでしょうか。勿論、違います。では、身体が先天的に大きい人が決まってそうなれない要因はどこにあるのでしょう。

 みなさんは、スポーツ、とりわけ格闘技の世界で「脇が甘い」という言葉を耳にしたことがあるはずです。仕事の詰めが悪いことをそう喩えることもあります。同じような意味で使われていますが、その意とするところはどういうことなのでしょう。


 「脇が甘い」というのは、言い換えれば、体が開いている、そのために、相手に付け入られるということです。体が開くとどうして相手に付け入られるのでしょう。当然ながら、そこに隙があるからです。では、隙というのは何でしょう。私のこれまでのお話をよく体得とている方はわかると思います。隙とは、自分が占有しなければならない身体空間でありながら、そこに気持ちが行っておらず、無防備に自分を晒している状態のことです。私の言い方で言えば、意識が行っていない身体のある部分とその身体が広がるべき空間のことです。

 意識されていないがために、本人は懸命に演技していながら、どこか緊張感が満ちず、空回りする、つまり、演技するという非日常の空間を身体所作で創造していないという現象が起こるのです。

 第1回で述べた、構えと形、そして決意を思い出してください。よきパフォーマーであるためには、構えや形が大事ではあるが、そのための決意が必要だと説きました。この決意とは、身体を強く意識し、空間を占有するのだという意識を身体に反映させることなのです。でなければ、先程述べたように、他者から見たとき、この俳優はどこに軸を置いて演技をしているのかが不明となります。

 演技、動作は広がりを持とうとするものです。しかし、広がろう広がろうとするばかで、その広がりの軸となっている意識、身体の軸がなれば、すべては散漫となり、収拾が付かず、演技の実体や本筋が見えません。演技を広げるためにも身体の軸、自分という身体への自覚が必要なのです。 基軸となる1点があれば、それを軸に小さな円から大きな円へと無限に円を描くことはできます。しかし、基軸となる1点がなければ、円を描くこともまとまりのある絵を描くこともできません。身体とは空間に演技という絵を描くための基軸となるキャンバスの1点でなのです。

 私のワークショップにも身長の高い俳優の方が参加されることがよくあります。そして、こちらの予想した通り、自分の身体への自覚がないために、脇の甘い芝居を見せます。所作にメリハリがなく、せっかくの大きさを生かせず、何かを捕まえようとしながら、その手が空を切っているのです。

 身長の大きい人、身体の大きい人、太っている人ほど、普通の人の数倍以上、自分の身体への自覚が必要です。先程、多くの人が大きい人の方が利点があると感じていると述べたように、本人自身にも人並み以上であるために、油断があります。そのため、自分の所作が他者からどう見えているのか、離れて自分を見るという強い意識がないと、普通の人、身長の低い人に比べ、脇の甘さを簡単に露呈してしまうのです。大きいだけにそれは顕著です。ごまかしが全く利きません。

 俳優は無論ですが、舞踊などの世界でも、名優・名手と言われる人には身長の低い方、体形が小さい方が多い。それは、身体の小ささを越えるために、いかにすれば、自分の身体を越え、より大きい空間を占有できるかの鍛錬を繰り返したからです。ハンディであることを自覚するがゆえに、より自分の身体にこだわる。身体空間のあり様を常に意識し、他者の視線から見たとき、どのように見えるかに心血を注いだ結果なのです。「見えざるが花なり」の透徹した境地を開けたのです。

 前回、女優が肉体を晒すことで身体への自覚が希薄になると述べました。これも身長の大きい人が自分の身体に無自覚になりやすいというのと同じです。グラビアという仕事につけない女優さんは、そうなれない自分の身体性への強い自覚があるがゆえに、それ以外の方法で自己を表現しようと必死になれます。ただ肉体を見せるだけでは、そこにあり得ない。だからこそ、磨かれる身体所作があるのです。

 たとえは悪いかもしれませんが、外見の美しくない人が、どうすれば見所から見たとき、美しくみえるかに心血を注ぐと、普段は美しいという強烈な印象がなくとも、舞台上、映像作品上で、ある確かな美しさを表現できるのです。それは徹底した自分の身体への自覚と美しく見えるために磨きぬいた身体所作があるからなのです。

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