第10回 息について (1)


 
身体所作を基本として、普遍的な感情表現に辿り着くというねらいから、演技の音楽性について述べてきました。この前提となるのは、すでに述べてきたように、自己の身体性への強い自覚です。
 今回は、身体そのものへの自覚を進めるために重要であり、かつ、演技を創造する上で大切な「息」について考えてみましょう。

 私は、身体の自覚の中で、「俳優は一輪の切花たれ」と教えています。余剰と過剰を排し、一輪の切花として、内実を生き、舞台上に現出していない何物かを観客に幻視させるための重要な技が、呼吸です。
 
 これまで、数々ののワークショップで出会った俳優、あるいは俳優を目指す人の大半が「身体への自覚」を持つための訓練をされておらず、小手先の芝居を演技と勘違いしているという話をしましたが、その中に発声ができないという致命的とも言える共通の欠陥があります。当然ながら、それは自分の身体への自覚を持つという鍛錬法が身に付いてないからですが、発声の基本すらできてないという人は少なくありません。
 
 これは、演技指導を行う側が、確かな演技メソッドを持ち合わせていないにもかかわらず、早々と実践的な演技訓練、たとえばオリジナルエチュードや既存作品のシチュエーション訓練から入らせてしまい、身体訓練や形、所作の習得という基本をないがしろにしている証です。

 また、俳優は、演技らしきものを訓練していることで、演技を身に付けられるという錯覚をし、身体化とは程遠い、小手先だけの芝居をなぞっているのです。そのため、発声法が身に付かないという現実の壁にさえ無自覚なのです。
 
 断わっておきますが、発声訓練というのは、ただ単に大きな声が出ればいいのではありません。また、早口言葉や発音練習を繰り返せばよいのでもありません。みなさんは体育会の応援団でもなければ、アナウンサーでもないのです。早口言葉や声を出すだけの発声訓練をいくらやったところで、観客席500以上の舞台で1ヶ月の公演に耐えられる発声法を身に付けることなどできません。私が言う、一輪の切花として観客を謀り、幻視を操ることなどできようはずもないのです。
 
 発声の基本にあるのは身体です。身体によって何事かを表現する俳優にとって発声は、身体訓練そのものと言えるのです。その基本があって、初めて、息をコントロールするという技が身に付けられ、それが空間占有や見えざるものを見せる力となっていくのです。
 
 そこで、みなさんに質問です。私は、戯曲や脚本を音楽の譜面のように読みなさいと教えました。それでは、みなさんは、そこに書かれた台詞を読むとき、自分の呼吸法にどれだけ意識的であろうとしていますか?

 俳優は楽器であり、演技とは戯曲あるいは脚本に描かれたリズム、テンポ、メロディーをアンサンブルによって奏でることであると話しました。では、みなさんが楽器を演奏しているとして、あるいは歌唱しているとして、そこに息づきや呼吸が重要な要素であることを、みなさんは、どれだけ自覚したでしょう。

 台詞は語るのではなく、奏でるものです。そこには、間や様々な息継ぎ、状況を描くための呼吸法があります。それをみなさんは、本を前にして、どれだけ、信号として自覚しているでしょう。

 「一回性を生きる」という話の中で、観客もまた、俳優と共に一回性を生きているという話をしました。みなさんは、自分の呼吸法、息づかいによって観客の呼吸、息を自分の演技に取り込もうと、どれだけ自覚しているでしょう。

 いま述べた三つの点は、そのまま俳優が舞台で演技する上で非常に重要で自覚的でなければならない技なのです。

 たとえば、このような言葉があります。「息をつめる」「息をこらす」「息を殺す」「固唾を呑む」「意気消沈する」「凍てつく」「絶句する」「声をつまらす」「嘆息をもらす」「捲くし立てる」…。列挙したら切がありませんが、これらはすべて呼吸法や息の使い方に関わる言葉です。私の言い方で言えば、俳優が本を読み取るときの信号です。私の注文に従うなら、みなさんは、なぜ、そうしているかではなく、そういう状況を形として、観客が共通の感覚として受容できるよう表現しなければなりません。そこでの感情理解、心は、その信号を形として、みなさんが表現できてこそ、内実より湧き出るものです。

 それができるためには、当然ながら、自分の身体を楽器という客観的な道具に見立て、息を操らねばならないのです。つまり、息を操るために身体に自覚的でなければならないのです。

 では、息を操るということがどういうことで、なぜ重要なのか、わかりやすい例で考えてみましょう。

 人は、映画であれ、舞台であれ、劇場の客席にいるとき、あるいは講演の聴衆としてそこにいるとき、俳優や講演者、漫才師やコントのコメディアンが創造する息づかいを共に生きています。それは、そこに、台詞の掛け合いや独白、言葉の言い回し(セリフ術)、間、あるいは背景に流れる音や音楽によって、観客の息づかいをコントロールしようとする、明確な意図があるからです。芝居や映像作品、講演、漫才やコントの出来不出来が生まれる大きな要因の一つとして、この観客の息づかいをコントロールする意図が十分に働いていたか、否かというのは、普段強く意識されることは少ないながら、実は論理ではなく、観客の生理に訴える上で不可欠の要素なのです。

 みなさん自身が観客として客席にいる、あるいはテレビの前にいるときの自分を想起すれば、いま述べたことは明白なはずです。俳優の生理を共に生きるからこそ、そこに驚きや感動があるはずで、場面場面の出来事や展開にわくわくしたり、ドキドキするのは、みなさん自身がそうした呼吸を取っているからに他ならないのです。

 能楽における謡の息継ぎ、息づかいによって、舞台の緊張感を自在に操り、和歌の文言の音楽的羅列の中から、観客に命あることのせつなさや憐れ、美しさを観客に直裁に訴えかける力もここにあるのです。

リストへ                             TOPへ